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ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』を読む


はじめに

ここでは、チェコ(旧チェコスロヴァキア)出身の思想家であり、戯曲家、 元大統領であるヴァーツラフ・ハヴェルが 1978 年に執筆した『力なき者たちの力』を通してチェコでは「社会」と「個人」、 「権力」と「主体」といった対象に対しどのような議論が行われてきたのか考察した。


『力なき者たちの力』の背景と概要

ヴァーツラフ・ハヴェルは、戯曲家、元チェコスロヴァキア大統領、チェコ共和国初代大 統領として知られる人物である。1936 年に生まれ、戦後、共産党による実質的な一党独裁 が始まってからは、ブルジョワの出身とされたため、希望する進学先に進むことが許されな かった。やがて演劇に関わり、俳優や戯曲家として活躍し始める。1968 年にプラハの春と 呼ばれる改革運動がワルシャワ条約機構軍の軍事介入を受けて終了した、いわゆるチェコ 事件以降の共産党主導による「正常化」の時代には、反体制運動に積極的に関わり、中心的 役割を担った。ヘルシンキ宣言の人権条項の遵守を求める憲章 77 の起草や市⺠フォーラム の結成などが有名であり、ビロード革命によってチェコスロヴァキアが⺠主化を成し遂げた後、大統領に選出された。

反体制運動に関わるなか、ハヴェルは、社会主義体制下での権力と個人の関係について独 自の分析と考察をおこなった著書『力なき者たちの力』を執筆した。

『力なき者たちの力』では、大きく分けて3つの議論が行われている。1つ目は、ハヴェ ルが「ポスト全体主義」と呼ぶ権力構造の特徴について、2つ目は、「ディシデント」と呼 ばれる人々の存在とその可能性について。そして、3つ目が「ポスト全体主義」をいかにし て脱することができるか、その先に目指されるべき社会は、どのようなものなのか、という ものである。 [阿部 2019]

ポスト全体主義という「権力」

本書で、ハヴェルは、「正常化」以降のチェコスロヴァキアの社会体制(原文では systém) を少数の人間が多数の人間を暴力で支配する独裁とは、異なる体制として特徴付けた。

独裁は、明確な支配者が直接的な権力装置を行使することによって導かれるため、支配者 を倒す誰かの出現が最大の脅威となる。しかし、ハヴェルたちが暮らしていた当時の体制は、 このような独裁とは大きく異なっていた。ハヴェルは、「独裁」という名称で従来想起され るものと、自分たちの体制が、外側だけを比較すれば、些細な差異しかないことを認めつつ、 その権力の性質が大きく異なるとし、後者を仮に「ポスト全体主義」と呼んだ。

ポスト全体主義体制とは、どのような体制であったのだろうか。ハヴェルは、⻘果店の店 主の例を用いてその構造を詳しく説明している。とある⻘果店の店主が「全世界の労働者よ、 一つになれ!」という『共産党宣言』の結びの言葉をスローガンとして店に掲げた。なぜ、 ⻘果店の店主は、このような行為におよんだのか。スローガンで謳われる理想に彼が熱狂し たとか、それを世界に訴えかけようとした、という動機は考えにくい。店主は、スローガン が何を意味するかに関心を寄せてはおらず、単に皆がやっている、そうしなかったら誰かに 咎められたり、非難されたりするかもしれないという理由で置いたにすぎない。彼は、「社 会と調和」し、安定した生活を送るために、スローガンを掲げた。このようにしてポスト全 体主義体制は、明確な権力の主体なしで個人を体制が提示する規範に従わせる。

また、「皆がやっているから」という理由である行為が行われることで、他者への「皆がや っているから(あなたもやるべきだ)」という圧力がさらに強化され、彼の行為は体制の望 むものに従事するような行為となる。こうして、彼の振る舞いは、規範に従う犠牲者のもの であると同時に、規範を形成権力者のものにもなる。

このような、個人のアイデンティティと引き換えに物質的・精神的な安定を与え、それぞ れの個人が体制の犠牲者であると同時にその一部であるという相補的で自発的な全体主義 の装置を形成するシステムが「ポスト全体主義」である。 [ハヴェル 1978]

ディシデントという「主体」


一般に「反体制知識人」を指す語として「ディシデント」と言う言葉がある。しかし、ハ ヴェルは、「ディシデント」であることは、個々人が自身の生活を営む上での具体的な姿勢 によっておのずと生じる副産的要素であって、特定の社会勢力や結社に入ることや何らか の思想・信条を信奉することによって得られる立場ではないとした。ハヴェルにとって「ディシデント」とは、「何よりも自分という存在をかけた姿勢」であって、ある特権的な集団 ではなかった。「ディシデント」は、体制の差し出す規範を承認せず、真実を生きようとす る人々である。ハヴェルは、このような生き方を「真実の生」と呼び、体制の嘘の中で生き のびることを「嘘の生」と呼んだ。「真実の生」を生きることは、そのための政治的運動や 抵抗活動が必要なものではない。自発的な全体主義を拒否し、自分自身であろうとするだけ でよい。先述の⻘果店店主の例で言えば、スローガンを掲げないことが彼にとって真実に生 きる試みとなる。また、発禁処分にされることを恐れず自由な執筆を行うことや音楽活動を 行うことなどの「前-政治的」領域において希求される。そして、この「前-政治的」領域に おける「真実の生」の希求が、体制のなかで相補的に強制されている規範と衝突することで自発的な全体主義を揺るがす「政治的」な力が生じる。なぜならば、ポスト全体主義が人々 に自発的な同一の振る舞いを強い、均一性を求めるのに対し、「ディシデント」の自分とい う存在をかけた行為は、他と同一の振る舞いを逸脱する方向にベクトルを持っており多様 性をもたらすからである。

つまり、ポスト全体主義体制下において、最も「政治的」な力を発動しうるのは、「前-政 治的」な、「自分という存在をかけた姿勢」のもとに行われる活動なのである。 [ハヴェル 1978]

この一見逆説的な考えには、「主体」がただひたすら「主体」そのものであり続けることは 真っ向から「権力」と対立する立場であることを示しており、「権力」と「主体」の関係に 対する鋭い洞察が含められているように感じる。

その先の社会

ハヴェルは、当時「東側」とされてきた社会の体制を批判的に分析しているが「⻄側」を 自由と⺠主主義が実現した理想の社会として描いているわけではない。自分たちの生きる 共産主義体制は、近代的人間が「自分固有の状況の主人」になることができないことの一つ の側面であって、⺠主主義社会の人々もまた、同様の問題を抱えているとハヴェルは、指摘 する。個人が主体性を失ってしまうという、体制の「自動的な動き(オートマティズム)」 は、地球規模でみられ、⺠主主義もこれに根本的な解決をもたらしていないのである。なぜ ならば、⺠主主義は、この社会で「自動的な動き(オートマティズム)」をもたらしている 技術文明、産業社会、消費社会に振り回されており、それらに対し無力だからである。

したがってハヴェルは、政治的理想として⺠主主義を盲信し目指すことは、適切ではなく、 まず、政治的関心を具体的な人間に向けるべきであると主張する。

本書の中でハヴェルは、その先にあるべき具体的な社会像を提示してはいないが、一時的 に「ポスト⺠主主義」という言葉でその展望を示唆している。「ポスト⺠主主義」は、政治 的諸関係や保証のような形式化ではなく、新しい「精神」、「人間的な内実」を起点とする構 造の制度化から生まれるだろうと考察されている。権力の行使の「意味」が目指される構造 をもち、差し迫った意義によって存在し、人間関係によって構築されるダイナミズムを持っ た可変的なものになりうるのではないかと、あくまでも個人的な考察のテーマにとどめる とした上でハヴェルは、述べている。 [ハヴェル 1978]

おわりに

ハヴェルが行った「ポスト全体主義」に対する分析は、当時のチェコスロヴァキアのみに 限定される議論ではないように感じられる。例えば、私たちに身近な「空気を読む」という 行為は、まさに⻘果店店主の行動と一致するし、明確な個人に付与される強力な支配体制が ないのに自分の行動が制限されるような息苦しさを感じることは現代においても珍しいことではない。

また、ポスト全体主義下で個人が権力構造に取り込まれてゆく過程は、ミシェル・フーコ ーが『監獄の歴史』で述べた、監視と規律を通じた、規格化された身体と、規範を逸脱しな い主体の形成のメカニズムと類似しているように思われる。

フーコーは、前近代と近代との比較や監視施設パノプティコンの例から近代社会が discipline(規律・訓練)によって規範を内面化した、「標準化」された主体を作り出しており、 標準から外れた者の存在を社会は、許容せず、矯正したり、排除、監禁したりすると指摘し た。 [フーコー 1974]

ハヴェルが現体制への分析から議論を出発させたのに対し、フーコーが行った議論は、歴 史的アプローチが取られている。また、その対象となる社会は近代社会であり、ハヴェルが 主な対象とした「私たちの体制」よりもはるかに広い。そのため、哲学的論点では、フーコ ーのアプローチの方がより普遍的であり、近代そのものに対するさらなる議論に発展して ゆく土台となっている。一方、ハヴェルの言葉は、体制が転換するビロード革命へと時代が 進む歴史の中でその重みを増していった。

ハヴェルは、思想家よりも劇作家や政治家としての面において活動的であり、完成された 思想は持っていなかったかのような印象も与える。実際、『力なき者たちの力』は、問いかけの形式が多く用いられ明確な結論をあえて回避するような形で終わっている。思想家と しては、フーコーの方がハヴェルよりもはるかに大きな影響を後世に与えたことは間違いないだろう。しかし、フーコーは、自身の分析から新たな世界像を導き出すことには消極的である印象を与える。実際、「近代」の矛盾を指摘しながら、我々のなすべきこととして提 示しているのは、それをより広い文脈で捉えるということに限られているように思われる。

もちろん、思想としての価値が両者の違いによって決定されるはずはない。両者の間に見 られる相違点は、分析結果と批判点を展開させる分野が異なっていたためではないだろうか。両者は、個人に内面化された権力を見抜き批判的に論じたと言う点で共通しているが、 それぞれの思想を展開させる分野が、一方は、「哲学」であり、もう一方は「政治」であっ た。

もしそうならば、彼らの議論をさらに詳しく比較することで今後、「哲学」と「政治」の2 つの分野の両方を行き来が可能な思想的展望が「主体」や「権力」を考える上でありうるの ではないだろうか。それは、目前の対象に縛られ飛躍を制限される政治と、事物が終了した後にしか到来を許されない哲学の間を取り持ち、世界に対しアクチュアルな対応を可能に するものになるのではないかと言う予感を覚えさせる。

文献目録

ハヴェルヴァーツラフ. 1978. 力なき者たちの力. 翻訳者: 阿部賢一. 人文書院. フーコーミシェル. 1974. 監獄の誕生. 新潮社.
阿部賢一. 2019. “解説.” 著: 力なき者たちの力, 脚本: ハヴェルヴァーツラフ.

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