誰がアイヒマンになりうるか

※この文章は以前にレポートとして大学に提出されました。

ハンナ・アーレントは『イエルサレムのアイヒマン』で凡庸な人間がその無思想性ゆえに組織的な悪に加担しうることを見抜き、こうした悪意のない主体による悪を裁くことの難しさを浮き彫りにした。

国家や企業など巨大な組織が他の集団に人道的な被害をもたらすとき国家や企業による組織犯罪が行われたと言えるだろう。ナチス政権がユダヤ人に対して行ったことはまさに国家による組織犯罪だったと言える。しかし、組織犯罪を可能にするのは組織の構成員であり、全員が悪意を持って犯罪に加担しているとは言えない。むしろ、命令に従順であるという一般的には倫理的な行動原則によって組織犯罪に加担してしまいうる。このことは、組織の構成員が自身の悪意からではなく、単に命令に従順だったというだけで「悪」として法や正義に裁かれうるのかという問いを打ち立てる。近代の法は、悪意を持った主体が悪をなすということを前提にしているからだ。アイヒマンの例はまさにこの問題を世に突きつけることになった。

アーレントはこの問題に対して、悪をなす悪意のない主体の無思想性を批判した。アイヒマンがユダヤ人の大量虐殺に加担し得たのは、彼がユダヤ人を虐殺することの意味について全く考えていなかったことによるという点にある。彼がユダヤ人の虐殺に関わったことの動機は彼自身の昇進に他ならない。アイヒマンは自分の行為に対して一切、思想を持っていなかった。この無思想性が彼を当時の最大の犯罪者にしたということをアーレントは〈陳腐〉だと形容し、これを悪の陳腐さと呼んだ。そして、無思想性が人間の悪意の総体よりも凶悪なことをやってのけることがあるということをアイヒマン裁判から我々が学ぶべき教訓として引き出した。

アイヒマンが自身の行為の非倫理性にどの程度自覚的であったかはここでは議論しないが、組織的犯罪に加担した悪意のない主体は自身の行為の帰結が出た後で行為の非倫理性を知るということがあり得る。だとすれば、私たちはすでに何らかの非倫理的行為に無自覚に加担しているかもしれない。たとえば、環境に配慮されていない商品を買うという行為は環境破壊という未来の世代に人道的な被害をもたらす組織犯罪に加担しているとみなすことができるのではないか。私たち個人に環境を破壊しようという悪意があるわけではないが大量生産・大量消費は地球環境に被害をもたらしうる。私たちの無自覚な消費が未来の世代が受け取る地球環境や資源に壊滅的な被害をもたらし、彼らの生命を脅かすことにつながれば、私たちはその無思想性ゆえに20世紀最大の犯罪者となったアイヒマンと同じように〈陳腐〉な犯罪者となってしまうのではないだろうか。

ではどうすれば私たちは〈陳腐〉な悪に陥らずにすむのだろうか。アーレントはアイヒマンの自身の行為の帰結に対する思考の欠如を批判した。もし、アイヒマンが自分の行為の帰結について十分に思考していたならば彼はユダヤ人の虐殺に加担せず「イエルサレムのアイヒマン」にはならなかったかもしれない。したがって、私たちが誰かにとっての「アイヒマン」になるのは、私たちが思考停止に陥ったときであり、自らの行為の帰結について思考することができれば組織的な悪に加担することを防ぎうる。

ここでの思考には自分の行為の影響下に他者を想定する必要がある。この他者とは私たちの行為によって害を被りうる者、私たちを犯罪者として起訴しうる者である。私たちが無自覚に環境破壊に加担することで未来の世代にとっての犯罪者になりうるという例をもう一度挙げてみる。私たちが環境に悪影響を及ぼす消費を行うとき、そこには破壊された地球環境を受け取る未来の世代への配慮が欠けている。だが、未来の世代の存在を想定し、彼らの被る害に思考が及べば、私たちは彼らにとって最善の選択肢を考慮することが可能になる。思考によって自分の行動に関係しうる他者にとっての最善の選択をすることが無思想性によって悪に加担することを防ぐために求められる行動原則なのではないだろうか。

これは、まだ見ぬ他者との対話とも言えるのではないだろうか。すでに述べたように真に倫理的な決断を試みるときそこにはまだ出会ったことのない存在が想定される。彼らに配慮した選択を試みるために私たちは、そこで仮想の対話を行うだろう。自分の行動の帰結が明らかになったときに初めて立ち現れる、ありえたかもしれない未来、選択しえたかもしれない別の道を、私たちはいつか現れる他者との対話によって事物が終了する前に選択することが可能かもしれない。私たちは惨事が起こった後の世界と起こる前の世界の間で仮想の行き来を繰り返し、未来で糾弾される罪を現在で回避する。時空を超えた思考と対話によって私たちは未来を変えることができるのではないだろうか。


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