天気の子、感想文


 考察と言えるほどの文章ではないけれど、天気の子という映画は非常に心揺さぶるものであったから、何かしらの記録を残しておきたいと思い、感想文を書くことにした。

 あーした天気になーれ、と言うことがある。なぜそう願うのだろう。人間は何歳の時から、晴れこそが正解だと思うようになるのだろう。

 椎名林檎はNIPPONで「ハレとケの往来に」と歌った。サッカー選手たちの晴れ舞台は雨程度では無くならないけれど(そういえば2014年のW杯初戦、コートジボワール戦は雨中の戦いで逆転を許し敗れた試合だ)、野球は雨が酷ければ試合が中止になってしまう。雨を前提にしたスポーツがないように、雨を前提にした晴れ舞台はない。あの世界のプロ野球はどうなったのだろうか。

 3年間も雨が降ってもらっては困るというのが正直なところである。私はそもそも雨が嫌いだし(そして靴が濡れるのが嫌だ)、スポーツもろくに観れないとあっては、顔をしかめるのも致し方ない。天気の子を見てハッピーエンド、万々歳と帰ってこれるほど、私はノー天気な人間ではない。

 それなのに、この映画は、よく考えようとするほどに怒りを宙ぶらりんにさせてしまう。それはまるで、映画に何度か出てきた可愛らしいてるてる坊主のごとく。

 そう。雨は72日間も降り続いて「いた」のだ。2人と同じように全てを知る私たちは、須賀の言葉を受け入れざるを得ない。「世界ははじめから狂っていた」。72日の雨という異常気象が、世界にとっての正常だったと気づいたとき、私たちは2人を責めるための足場を失う。2人が正しい世界を壊そうとしていたなら、その選択をどれだけでも責められるだろうに。実際はそうではなかったのだ。少女の犠牲は「正常な」世界を元に戻すための生贄であり、そしてそんな残酷を私は許したくなかった。新海誠が世界のあり方を少しひねくれて規定したこの作品の中で、セカイ系は解体されたように見える。

 二者択一の果てに2人を選んだことを、肯定以上に肯定する(二者択一の構図そのものを打ち崩す)文脈がこれであるなら、もう一つの文脈が存在する。それは「やはり世界を変えたのが2人であり、その責任は確かに存在する」という文脈である。帆高の結論であった。それが2人にとってのハッピーエンドだったかは分からないが、トゥルーエンドはこれだったのだろう。

 それではここで聞きたいのだが。私は、この怒り(毎朝通学のために靴を濡らし、神宮球場で阪神を応援することは叶わず、毎朝沈鬱な気分で目覚めなければならないこの怒り!)をどこに向ければいいのだろう。新海誠が最後にしれっと、しかし大胆に差し込んだ「3年経った今でも降り続いている」雨は、この怒りを確かに私に植え付けたし、そして「映画なんてフィクションじゃん」で片付けられるほどこの怒りは小さくないのだが…………。そしてもちろん、2人に責任がないことは観客である私が分かっていて、そのくせ帆高は勝手に責任を負うつもりだろうし、そんな2人の幸せを望んでいた自分だっていた。

 色々考えて、私なりの答えは出た。というか、「出した」のだが、それを明かす前に、少しだけセカイ系への恨みを言わせてほしい。

 セカイ系には「私」が入る余地がない。2人と世界の強固な関係と対立は、他者の介入を決して許さないものだと私は思っている(し、セカイ系はそうあるべきだ)が、それは私の好みではない。私が物語の中にモブとして、群衆の中の一人としてさえ存在できないことが、私にはどうも納得がいかず、不気味であるとさえ感じてしまうのだ。自意識過剰と言われるかもしれないけれど・・・。

 「君の名は。」を私が気に入っているのも、2人とともに他者(=「私」のいる集団)が救われたからではないかと今となっては思う。私は、「私」が2人の立場にはなり得ないし、セカイそのものでもないと知っているから、セカイ系が苦手なのかもしれない。だから、「天気の子」が「君の名は。」とは違う路線で来たと聞いて、私は少し不安になった。新海誠は、君の名は。で救った他者を、今回こそは救わないのではないか、と。

 結論から言えば、救われなかった。多くの他者が晴れを喜んだ1日のあと、3年の雨が続いたのだから。

 しかし、私は幸いにも、そして誠に身勝手ながら、あの世界の他者たちは大丈夫かもしれないと思った。帆高が大丈夫だと思ったのと同じように。喘息だった須賀の娘は今も楽しそうに笑っていたし、天気予報は逞しく天気を伝えつづけていたし、水上バスは通勤通学で随分大活躍していた。そこには適応した他者たちが生きていて、彼らは多分、世界が変わったというよりも生活が変わったと思っているのだろう。そうした他者たちに私は安心し、画面の向こうの他者たちに自分の怒りを預けることができた。そうして確かにセカイの中で生きている「私たち」に、私の怒りを託すのは、悪くない経験だった。

 他者が存在した天気の子は、セカイよりもセケンを扱っていたように思える。世間というと、なんだか個人にとっての障壁でしかないような、ネガティブで胡散臭いニュアンスがあって、事実そういうこともあるのかもしれない。でも、美しく汚い東京を描きあげたことで生まれた他者の生活の実感は、世間がそこにあることを確かに示していたようだった。

 セカイに生きる自分にとっての迷惑を恐れるがゆえに、まるでそれがセカイにとっての迷惑であるかのようにして顔をしかめることは往々にしてある。そういう人間である私は、セカイへの迷惑を許せなかった。でも今は少し違う。やはり、2人と世界では足りない。どんな形であれ、他者は存在し、どうしようもないセカイの中の、揺らぐ世間で生きていかないと。私が天気の子の最終盤で目撃したのは世間の提示であり、そこに世間が存在するという肯定であり、私はそれらに説得された。そしてそれは、一つのセカイ系の解法(解答ではない)なのだろう。これに刺激され、新しい解法が生まれるのなら、それもまた興味深いが、今の私は、天気の子というこの解法がえらく気に入っている。

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