なぜ、人を殺してはいけないのか


なぜなのか。

最近、子供にこんな質問をされたらどう答えるべきだろうかと思うことがある。まだ私に子供はいないしできる予定もないが、思考実験としては面白いだろう。

空はなぜ青いのかとか、雨はなぜ降るのか、あるいは宇宙の先はどうなっているのか、といった自然現象に関する質問であれば、判明している答えがすでにあるか、誰にも答えがわからないかのどちらかだろうから、それを調べてそのまま教えてやればよい。しかし「なぜ人を殺してはいけないのか」についてはそうはいかない。試しに検索してみたが、少なくとも私にとって腑に落ちる回答は出てこなかった。こういった倫理的問題については、自分なりの回答を用意しておかなくてはなるまい。

安易な理由として、「人を殺すのは犯罪(殺人罪)だから」という回答はあるだろう。

刑法第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

しかし、上記の通り、法律の条文には「人を殺してはいけない」とは書かれていない。あくまでも、人を殺した者にはこれこれの刑罰があると書かれているだけである。そもそも刑罰とは、よくない行為をしたことの償いのため、あるいはよくない行為を抑止するためにあるものだろう。殺人罪は誤りだから廃止しろという意見は寡聞にして聞いたことがないし。だから殺人罪は、人を殺すのはいけないということを前提にして成立している。よって、「人を殺すのは犯罪だから」という回答は「人を殺してはいけない理由は、人を殺してはいけないからだ」というトートロジーにすぎないことになってしまう。

ここである気づきがある。これは殺人罪だけでなく、傷害罪や窃盗罪も同様ということである。「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ人に傷害を負わせてはいけないのか」「なぜ人の物を盗んではいけないのか」

これらを総合するとこうなる。「なぜ、してはいけないことがあるのか」「そもそも、いけないとは何か」。

いけないとは何か。それはよくないということだろう。よくないとは悪いことだ。つまり悪だ。悪は善の反対である。だが善とは何か。

善とはなにかーーーーこれは、ソクラテスに始まる西洋哲学の根幹である。すなわち、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うことは哲学の根幹を追求することにほかならない。

昔は楽だった。なにが善で、なにが悪かを神様が決めてくれたからだ。

5、人を殺してはならない。____モーセの十戒

誰も神を見たことはないが、誰もが神を知っている。これこそ神の実在を証明するものにほかならない、多くのひとは素朴に思うだろう。神がいるのならば、神の子である人間は神の掟に従って生きるべきである。世界は神の秩序のなかにあり、神が人を殺してはいけないと定めたのだから、人を殺してはいけないのだ。

しかし時代が下るにつれて、いろいろと理屈をこねる奴らが増え、合理主義なるものが幅を利かせてきて、神の立場が危うくなっていく。

それでもデカルトとかスピノザあたりのうちは、人間理性によって世界の真理はどんどん解明できるにしても、その人間理性や世界の真理自体の確実性は全能の神を根拠にしていたのでまだよかった。だが18世紀末、カントの出現で状況は一変する。

これまでは、神が人間をつくったから、人間理性は神や真理を認識できるということになっていた。ところがカントは、人間理性はもともと神という概念に至るように出来ていると言い出したのである。

徒然草に、子供が父親に「仏とはどういったものか」と質問する話がある。父は「人が仏になったのだ」と答える。息子は「人はどうやって仏になるのか」と聞く。父は「仏の教えによってなるのだ」と答える。息子は「その教えをつくった仏は、どうやって仏になったのか」と聞く。父は「それもまた、前の仏の教えによってなったのだ」と答える。だが息子はさらに「ではいちばん始めの仏はどうやって仏になったのか」と聞く。父親はついに答えに窮してしまう。

カントによれば、人間理性はこの徒然草の子供のようにどこまでも物事を突き詰めて考えてゆくので、誰でも頭をひねっていればいずれは世界のすべての物事の「第一原因(神)」の概念へと至ることができるとした。神が人間理性を創造したのではなく、人間理性が神の存在を要請したのであって、つまり神の存在は誰にも証明できないというのである。これがコペルニクス的転回である。

ではカントにとって何が道徳の拠り所になるのかというと、もちろん人間の理性である。カントによれば、何事も突き詰めて考えるという理性の能力を理性自体に適用すると、人間の従うべき道徳律はたった一行の文章で表せるという。これである。

「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」

こいつは何を言っているのか?カントの文章は全部こんな感じなのだが、要するに、いかなる行為にせよ、それがどんな状況下でも無条件にそうするのが正しいといえるようにやれ、ということである。例えば、嘘をつくという行為であれば、いかなる状況でも常に嘘をつくべきか、あるいは嘘をつくべきでないかのどちらかしか選べないので、人は常に嘘をついてはいけない、ということになる。

もちろん、嘘をついたほうが得な状況があることは否定されない、だがそれは倫理的な行為とはみなされない。なぜなら、人は常に嘘をついてはいけないというのが理性の絶対的命令だからである。殺人も同様であり、例の質問をカント的に回答するなら、「なぜ人を殺してはいけないのかというと、それが理性の絶対的命令だから」となる。

カントが倫理学に与えた衝撃は大きかった。もはや人間は行為の責任を神になすりつけることはできず、自らの責任においてなさねばならなくなったのである。ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、その下手人はカントだった可能性が高い。詩人のハイネは「ロベスピエールはたかだか国王の首を切ったくらいだが、カントは神の首を切り落とした」と書いた。フランス革命のすべてよりも、カント一人の著作のほうが破壊的だったというのである。実際その通りだったかもしれない。

カント自身はかなり穏健な思想の持ち主だったし、カント倫理学も実に道徳的な内容ではあったが、最初のほうで書いた通りこの手の倫理的命題を正しいと証明する方法はなく、そのくせカントに首を切り落とされた神のほうはもう生き返ってはこなかったので、カント以後にフィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった連中が我こそ世界精神の解明者といって次々と新しい思想を打ち出し、世界史は神なき理性の時代へと突入したのである。

長くなってしまったが、では現代まで続く神なき時代において、先の内容を踏まえつつ、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えていくか。これには、大きく分けて「功利主義的理由」、「社会学的理由」、「進歩主義的理由」の3つが考えられる。

・功利主義的理由

産業や科学が発展するにつれて、功利主義という思想が急速に力をつけるようになった。これはイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが創始したもので、善とは理屈屋のこね回す理想の何かではなく、人間にとっての快楽や幸福が善なのであり、快楽を増やす行為が正しい行為なのだとする思想である。彼は法律や政策はすべての人々の快楽の総量が最大の状態、「最大多数の最大幸福」を目的とすべきであり、この快楽計算によって正しい政治ができるのだとした。この思想のもとでは、法律はしてはいけないことを決めるものではなく、単にその決まりがあったほうが社会や個人にとって有益であるだけのものである。

例えば、砂漠の国を考えてみよう。砂漠の国なので水は貴重品である。その貴重な水を誰かが盗んだり独占したりすれば、他の全員は渇きに苦しむことになる。それは最大多数の最大幸福ではない。そこで、この砂漠の国では「水を盗んだり独占した者は重罰に処す」という法律ができるものと思われる。そのほうが有益だからだ。

人間にとって最も貴重なものは命である。仮に、社会が人を殺しても自由な状態であったとすれば、誰もがその貴重な命を奪われかねない。それは損だ。であれば、「人を殺した者は重罰に処す」という法律ができるのはまったく自然であるといえる。

「なぜ人を殺してはいけないのかというと、それは重罪だからであり、それが重罪であるのはそのほうが社会にとって有益だからであり、重罪に処されるよりは処されないほうが個人にとっても得だからである」

資本主義全盛の現代にふさわしい回答ではある。だがこの回答には根本的な問題がある。それは、「なぜ人を殺してはいけないのか」と質問してくる人は、こういう回答を求めているのではない!ということである。

ほとんどの人間は、単に損だから人を殺さないでいるわけではないだろう。人を殺すことに嫌悪を感じ、人を殺すのはいけないことだと単純に信じて生きている人が大多数ではないか。仮に質問者が殺人にまったく嫌悪感のない人間で、人を殺してはいけないという感覚をまったく理解できないとしても、素朴に人を殺してはいけないと考えて生きている普通人は周囲に満ちているわけで、そいつらの生態を解明したいと考えるのはごく自然なことだろう。というわけで、別の視点が必要になってくる。

・社会学的理由

19世紀ごろから社会学が発達して、環境が人間の行動や判断に与える影響が研究されるようになってきた。デュルケームはそれまでの主流であった、個人の心理を分析することでそこから社会の傾向がわかるという心理学的社会学を批判し、社会や集団のほうがその慣習やしきたりによって人間個人の行動様式に影響を与えうることを統計から示し、科学に基づく新たな社会学(デュルケーム学派)を創始した。

これはデュルケームの甥のモースに受け継がれ、さらにモースの助手を務めたレヴィ=ストロースの構造人類学へと繋がっていくのだが、彼らに共通するのは、社会は単に個人を足し算して成り立っているのではなく、社会は個人を超越した社会それ自体の構造のようなものを持っていて、その社会構造の中に生きる我々人間の思考は、決して彼個人の生まれ持った理性だけからアプリオリに導き出されるようなものではないということだ。

先の、初めて殺人が違法化されたときの社会を考えてみよう。人々がお互いの安全のために契約を結んで人殺しをやめたことは功利主義的な判断であったとしても、その後に生まれてきた人間にとっては、人を殺すことは自分が物心ついたときにはすでに犯罪であったわけである。自分が生まれたときからそうであったものは、それが当然のものだと考えるのが人情というものだろう。フロイトはこれを超自我と呼んだ。幼いころに両親や周囲の大人から受けた教えが内在化された規範となって、無意識から人間の行動を規制するのである。

そうして、彼ら以降の人間、つまり全人類が、殺人がいけないのは当然のことだと思って暮らす社会ができあがる。それをなぜと聞かれても、彼らは「知らない、それは考えるまでもなく当然のことだからだ」と答えるだろう。そもそも、神が十戒で殺人を禁止したのも、神ならきっとこれを禁止するだろうと当時の人々が考えていたことの証左である。なぜ人を殺してはいけないのか、それはみんなが人を殺してはいけないと考えているからである。

・進歩主義的理由

だが話はまだおわりではない。かつてこの日本には、殺人が合法だった時代があるのである。

敵討ちは、中世の時代には慣行だったが、江戸時代に制度化された。これは親や兄弟などが殺され、下手人が官憲の手を逃れて逃亡するなどした場合に、遺族が敵討ちを申請し、それが当局に認められれば、遺族が犯人を殺害しても罪にならなくなるという制度である。これは人を殺してはいけないという掟の例外であるだけでなく、敵討ちできる状況下でそれをしない場合などは、腰抜けだとか武士の風上にも置けぬとか言われて非難されたという。武家という軍事階級の支配する社会においては、人を殺してはいけないという価値観と人を殺さなくてはいけないという価値観が両立し、しのぎを削っていたようである。この制度は1873年(明治6年)に、「復讐ヲ嚴禁ス」という法令が出されて廃止された。

日本に限らずいずれの文化圏においても、人を殺してはいけないという価値観と、条件によっては人を殺してもよい(むしろ殺さなくてはいけない)という価値観が両立していた。だがどこの国でも、時代が下るにつれて人を殺してもよい条件が縮小される傾向にある。いまの日本で敵討ちの制度を復活させるべきかと聞いても、ほとんどのひとはそうすべきでないと答えるだろう。これはなぜなのか。

それは、多くの国で人権概念が発達して、すべての人間の生命を尊いものとし、いかなる理由があろうと人を殺すようなことをすべきではないと考えるものが増えたためだろう。人間の思考が社会的規範の影響を受けるのは確かだが、その社会的規範は、どの国の社会でも人権を尊重する方向へと進歩しているようにみえる。これを考えると、カント以後も合理主義的理想主義は着実に力を増し続けているように思える。

かつてヘーゲルは「一切の歴史は、世界精神の歴史である」と言った。時代を経るごとに人類は理性的になり、蛮行は減り、秩序が世界を満たしていくようになる、という考え方を進歩史観というが、その通りに人々の倫理感は発達を続け、現代人はもはや虫も殺せなくなってきている。死刑制度を廃止する国も増え続けているし、世代を経るごとに暴力自体に嫌悪感を持つ人間が増え、何事も法律にのっとって平和的に解決することが当たり前になりつつある。なぜ人を殺してはいけないのか、それはもはや過去の時代ではないからである。我々は理性の時代を謳歌しているのだから。

だが、その頼もしい理性が、時として暴走というか、矛盾に陥るようなことがある。現在でも、殺人罪には正当防衛や緊急避難という例外がある。これは、誰かが自分を殺そうと襲いかかってきたときには自分の命を守るために相手を返り討ちにしてもよいとか、複数の病人がいてすべての人間を治療する時間と資源がない場合にはより多くを助けるために重病の人間は見殺しにしても仕方がないとか、そういった人命は貴重であるがゆえに人命を損なうことが正当化される事例だが、この「カルネアデスの舟板」、いったいどこまでが正当化されうる殺人なのかという問題については議論が続いており、依然として決着を見ない。

例えば、自分を殺そうとしてきた人間が命令を受けた警官や兵士だった場合、返り討ちにしてもよいのだろうか。世界には独裁者が私利私欲のために無辜の民を殺そうとする国もないことはない。そういった国で、民衆が自らを守るためにこの独裁政権を打倒することは正当化されるのか。あるいは、その独裁政権が自分の国に攻めてきたとすれば、武器を取り独裁国の兵を殺すことこそが正しいということになるのか。

マクシミリアン・ロベスピエールはもともと人権派弁護士で、熱心な死刑廃止論者だった。だがそんな彼が運命のいたずらで革命政府の指導者になってしまったので、困ったことになった。彼としては死刑は廃止すべきだが、人民の一般意志の具現化であるフランス共和国は何よりも尊い存在であるから、共和国に脅威を与えた人間はやむを得ず処刑すべきものとした。こうして大虐殺が始まった。攻めてくる敵国の兵隊や反乱を起こした農民を殺すのはもちろんとして、この非常時に盗みを働いた者や、徴兵を拒否した者なども共和国の敵として処刑された。

ジャコバン派独裁の最盛期にはプレリアール22日法という法律が成立し、手続き簡略化のために死刑と無罪以外の判決が廃止されたうえ、裁判の証拠集めも廃止され、陪審員の心証だけで有罪、つまり死刑にできることになった。そのため、シャツ一枚盗んだだけ、それもお隣さんの密告で、実際にやっていようといまいと、とにかく逮捕されたら最後、もう死刑ということになってしまった。恐怖政治最盛期にはパリだけで一日六十人が処刑されたといわれる。こうして、理想に燃える人道主義者だったロベスピエールは血塗られた独裁者として歴史に名を刻むことになった。

かなり極端な例だと思うかもしれないが、こういう、目的のために手段を選ばずにいたら手段が目的を破壊してしまう例は歴史には枚挙に暇がない。20世紀にはマルクス主義者が多くの国で政権を握り、人民を解放するために社会主義的な政策を推進したが、結局はそのすべてで前よりひどい抑圧社会が出来上がってしまった。

SNS上でも我こそ世界の正しい側の住人なりといった風情のひとが暴言を吐いたり無茶な行動を取ったりして、多くの人から反感を買い、結局はそのひとの信じる思想自体のイメージを毀損させる結果に終わるようなことが度々繰り返されていることは、多くの人が見聞きしていることだと思う。どうしてこうなってしまうのだろうか。やはり人間は正義の味方になれるだけであって、正義そのものや理想そのものになれるわけではない、ということが念頭にないと、無謬論がはびこり、ひとはあちら側の世界へと旅立ってしまうのかもしれない。

もちろんロベスピエールのように生涯悩み続けながら、トロッコ問題のごとくどう転んでもただではすまない状況で命を削りながら選択を続けた者もいる。我々はすべての情報が公開された環境で生きているわけではないので、人生とはどうすれば正しいのかわからない霧の中で、何事もみずからの責任において選択しなけらばならないという決断の連続である。

単純な正当防衛の事例にしても、襲い来る暴漢を殺すか、あるいは自分が殺されるか、という待ったなしの選択をしなければならないことに変わりはない。そして罪のあるなしという司法の結果に関わらず、起きた結果はすべてみずからが責任を持たなければならないのであって、その重さに耐えられない弱い人間たちが、進歩的な思想とその無謬性に逃げ込みたくなる気持ちはわからないではない。

最近ではそうした正義マンたちの独善性を攻撃して、「正義の反対は別の正義であり絶対の正義など存在しない」という相対主義を振りかざし、結果として無法な権力者に利することばかり言う冷笑家も目立つようになってきた。

ソ連が崩壊したころは、欧米では将来に対する楽観的な見方が広がった。このまま民主主義が世界を覆いつくして永遠の平和が訪れ、歴史は終焉を迎えると主張した学者もいたぐらいだが、みなさんもご存知の通りいま現在でも世界は動乱に満ちていて、世界の民主化が前進どころか後退する気配すらある。歴史は終わらない。進歩史観と人間理性はいま、岐路に立たされているといってよい。

・まとめ

長々と書いてきたが、あらためて思うのは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに簡潔な回答をするのはほとんど不可能である、ということである。私の挙げたいずれの理由においても、疑問や反論が考えられ、思考の堂々巡りになって、全然はっきりした回答にたどり着かない。

だが、それでよいのかもしれない。そもそも哲学においては、すぐにはっきりした答えの出る問いはたいした問いではない。答えよりも問いのほうが哲学においては重要であって、高名な哲学者ほど「なぜ〇〇なのか」というより根源的な問いを発し、そして「私はこう思うのだが、君たちはどう思うか」といって問いをバトンタッチしていく。そして後世の人間がそれを受けて「私はこう思うのだが……」と新たな思考や問いを加えてゆき、学問を発展させてきたのである。

ネット時代には多くの人が答えを知るために自分で考えるよりも手軽にネットで答えを探すようになっており、しかも多くの人が答えを知りたがっている問いにスパーンと一刀両断に断言口調で回答する輩が多くいて、そういう輩にかぎってインフルエンサーとして多くのフォロワーを獲得したりしている。時代の流れなので仕方ないのかもしれないが、しかしこんな世のありかたに疑問を感じて苦しむ少数の人間のために、私としては自分が正しいと思う立ち位置に踏みとどまっていたいと思う。したがって、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われた場合の私の答えはこうである。

「なぜ人を殺してはいけないのか、それについて多くの人間が様々なことを考えてきたし、それについてさらに多くの倫理的問題が生まれたり倫理学として発展したりしてきた。私としては必ずしも殺してはいけないということはなく、殺すべき場合もありうると思っているが、ただどういう状況で、どういう人間なら殺すべきと一概に言えるようなものではなく、個々の状況において真剣な葛藤と議論が必要であると思う。これは思考の過程が重要な問題であるから、私としてはあなたにも様々な本を読んだり、人と話したり、人生経験を積んだりして、その中から自分なりの答えを考えて出しておいてほしい。それは必ず有益なものとなるだろう。以上」


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