2021年、小山田問題の総括と、森健氏記事への批判。

1. 2021年、小山田問題と大手メディアの姿勢

まずは、2021年が終わるに当たり、私が今年、noteのアカウントを新規取得するに至った経緯を書いて行きたいと思います。

それは、ミュージシャンの小山田圭吾さんの五輪開会式楽曲担当辞任騒動に端を発します。

小山田さんが辞任するきっかけになったのは、過去の雑誌インタビューでの「いじめ加害発言」がSNSなどで問題に上がったからなのですが、その件に関する各メディアの報道姿勢がまあ酷かったんです。そもそも「ロッキンオン・ジャパン(ロック雑誌)」「クイック・ジャパン(サブカル雑誌)」と言った、ニュースソースとしては信頼性の低い雑誌からの情報であるにも関わらず、それすら真面目に読んでいないでしょ?と思うほどの誤報の嵐。小山田さんがやったとされるいじめ加害の中でも特に酷かった部分は明らかに「友人がやった」と読み取れるのですが、全て小山田さんが実行したように堂々と報道したメディアが複数あり、それが今年の終わりになってまだ訂正されていない事実は、「メディアによるいじめ加害者への過剰な私刑」と言わざるを得ないですし、それはそれで、許されるものではありません。

しかしながら、私は小山田さんの過去の行動・発言や雑誌の編集姿勢に全く問題が無かったと言っている訳でもありません。

1-2. 一部ファンによる過剰な小山田擁護

ある時期から、「大手メディアが小山田さんのいじめ問題に対して大変な誤報をした」と言う事を逆手に取り、小山田さんの「冤罪(無実であるにもかかわらず犯罪行為を行ったとされてしまうこと)」をSNSで主張するファンが多数現れるようになりました。その人たちは小山田さんのいじめ行為を常識の範囲内で批判する人に対し、多数のアカウントで押しかけて論破を試みたり、時には酷い言葉で罵ったり、明らかなデマを流すなど、数々の不愉快な事象を引き起こしていました。

その動きの中で、ジャーナリストの中原一歩氏が、小山田さんを批判していたブログについて、世間一般に著しく誤解を与えるような紹介の仕方を「文春」の記事内されていたので、それを指摘したく思い、私はnoteの新規アカウントを立ち上げたのです。

しかしながら、これまでに特にこれと言った反応が無い所を見ると、中原氏は本当に「中立」の立場であの記事を書いていたのか疑問に思います。

そして、ここに来てまた、とあるジャーナリストの方がジャーナリストと思えないような不穏な発言をなさっていたので、本当に面倒くさいのですが、また批判記事を書かなければいけなくなりました。本当に嫌になるのですが、「いじめ」は社会問題であるので、大人としてきちんと言うべき事は言っておかなくてはいけません。

2. 森健氏による「小山田擁護記事」

こちら、有料記事で申し訳ないのですが、冒頭の部分を読むだけでも、この記事の「質」が十分おわかり頂けると思います。

季節の人たち:/146 いまも違和感が残る「小山田」辞任騒動=森健

この騒動、実は当初から違和感があった。小山田氏には九〇年代に三回、また近年では三年前に直接取材していた。個人的な印象からすると、彼が陰湿ないじめをするようには見えなかったからだ。

有料部分では、過去に小山田さんを取材した時に受けた好印象などを主に語っているのですが、私が問題だと思うのは、小山田さんの「ポジティブな一面」を語るだけにとどめず、「個人的な印象」だけを論拠に、「彼が陰湿ないじめをするようには見えなかった」と結論付けている所なのです。

2-2. 陰湿ないじめをする奴ほど、いじめ加害者の顔で社会には出ない

この部分に丁寧に反論するには、自分自身の悲壮な体験を書かざるを得ないでしょう。私はいわゆる「毒親」育ちで、日常的に親から暴力を受けて育って来ました。しかし、勤務態度良好で真面目を絵に書いたような技術系公務員である父と、料理上手で社交上手な母との間に産まれ、郊外の一戸建てで何不自由無く暮らしている私に、「被虐待児」の影を見る人など誰もいませんでした。

「世間様」に良い顔をしなければいけない、と言うプレッシャーがあるからこそ、父も母も私に対して過剰に良く出来た子供像を望み、暴力と言う強い支配力でもって躾を行ったのです。

そしてその時、日々感じて居た地獄のような心情は、事情は違えど、いじめ被害者と相通ずるものがあると私は思っております。

いじめや暴力の被害者にとっては悲しい事ですが、加害者にもポジティブな側面があるのです。そして、加害者のポジティブな面しか知らない人がそれを語る事に関しては、本当に辛い事ですが、黙認しなければいけないと私は思っています。

しかしだからと言って、「暴力を受け、傷ついた自分」を否定してはいけません。「いじめ」や「暴力」などの手法を用いるような輩は必ず、弱い者、抵抗しない者を狙って来ます。そして弱者側が反旗を翻すと、自分のポジティブな面を知る人に泣きつき、まるで自分が被害者であるかのような大げささで同情を乞い、集団で「被害者の至らなさ」を説き、「暴力は致し方なかった」と言う結論に持って行く事すらあります。

そのような地獄の圧力に屈せず、「暴力は暴力、許されない事」だと一貫して主張して生きて来た私だからこそ、小山田さんへの誤報に対して真剣に怒っているし、また、小山田さんのポジティブな一面を語る事で、「いじめをするように見えない」などと安易に結論する「通称・エクストリーム擁護派」=森健氏に対しても同時に怒っているのです。

2-3. どちらかを選びましょう

100歩譲って、森健氏の主張する「小山田さんはいじめをするような人物に見えない」と言う、極度に情緒的な主張を受け入れるのであれば、ファンも、「毎日新聞社は小山田さんに対して酷い誤報をするばかりの悪い新聞社では無い」と言うポジティブな面を全面的に受け入れ、「メディアによる私刑許すまじ」などと言う恨み交りの正論は捨て、この件に関して起きた全ての事をポジティブに、情緒的に受け入れた方がよろしいかと思われます。

過去に恋人から、「まるで、ポリアンナのよう」と評価されたと言う噂のある小山田さんです。【もやもやした現実をどうにかしてこの問題に関わった個人がそれぞれ飲み込む】と言う解決方法はそれなりに苦しいと思われますが、それこそが、「少女ポリアンナ」などで描かれた真のポジティブと言うものではないでしょうか?(知らんけど

私は、「メディアやSNSによる小山田私刑許すまじ」「小山田による障碍者いじめ許すまじ」と、批判派・擁護派双方にネガティブな意見をぶつけ、プンスカプンスカ怒りまくったまま年を越す事になりそうです。これはこれで辛いですが、産まれ持った気質に合っているので、この方向性でこれからもこの問題を考えて行く事になると思います。

2-4. 社会人として小山田さんの今後を考える

私は小山田圭吾さんの制作した楽曲を(数曲しか知りませんが)小学生の頃から好ましく聴いて参りました。とても音楽の才能に溢れた方だと思いますし、そのポジティブな面は世の中に広く受け入れられていって良いと思います。

しかし、私が仮に番組プロデューサーであったり、イベント主催者と言う責任ある立場であった場合、現状のままでは小山田圭吾さんの音楽を採用したくはありません。世間や被害者に対する謝罪が済んでいたにしても、です。仮に彼を採用するとするなら、「いじめや暴力を否定する」「障碍者の方々が暮らしやすい社会を作る」と言う強い意思表示を主催者として同時に示す事が必要になって来ると思います。彼の人格や作品にポジティブな一面がある事は、「彼の音楽を採用する」と言う事実だけで十分伝わるかと思いますので、殊更に強調する必要は無いでしょう。

■最後に

最後になりましたが、この闇深い問題について私は当初、公人として関わる意志が全く無かった故、SNS上ではずいぶんと全方位に失礼な発言を連発してしまいました事をお詫び申し上げます。

今後、SNSでこの「小山田問題」についてどなたかと意見を交わす事はごくまれになると思います。しっかり自分の考えを整理した上でこちらのnoteで意見表明を致して参ります。

それでは皆様、よいお年を。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?