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【第四章・夏休み】


    アクロ技やリリース技見せてもらってから、おれはすっかりダブルダッチの魅力に取り憑かれてしまった。正式な部員ではない。でも、総務委員会も毎日仕事があるわけではないので、暇な放課後は練習に参加させてもらうようになった。三年生は少しして引退してしまった。けれど、総務委員会も個性派ばかりだが、ダブルダッチ部も負けじと濃い人間の集まりだった。でも、共通して言えることは、みんな優しくていい人だった。
  ダブルダッチ部の練習は楽しかった。もちろん、体を使うので疲れる。しかし、バスケ部時代を思えば全く苦にならなかった。本当に充実していた。気がつけば、ダブルダッチに出会って一ヶ月。もう夏休みまであと一週間というところに来ていた。時の流れは強い。
「そういえば、坊ちゃん」
「どうしました?」
「部室の件は片付いたか?」
「ええ、ダッチ部の部室の件ですよね。隣の女子ダンス部に最終の確認取ればOKです」
「ちゃんと二宮さんには報告しろよ。次の部室待ちもあるから。部室問題は面倒なんだ」
「すみません」
「ところで、最近楽しそうだな、坊ちゃん」
久方ぶりに総務委員会でハーブティー先輩と話した。先輩は上機嫌そうだった。
「楽しいんですよ、ダブルダッチ部が」
「ふーん。いいじゃねか。おれは部活とか興味ないが、夢中になれるものがあるのはいいことだ」
「先輩はハーブティーに詳しいじゃないですか」
「ハーブティー詳しくたって評定にはならんし女にもモテないし、何もいいことないさ。お茶を飲まなくても人生は続くしな」
「でもあった方が人生は豊かになりますよ」
「そうだな。あった方がおもしれーや」
ハーブティー先輩はそう言って今日のお茶を飲んだ。今日のは何やらうまそうなお茶だ。
「今日のお茶はなんですか」
「マスカットティーだ。最近できたやつなんだけど。長野だか山梨で取れたシャインマスカットって品種を紅茶にしたんだ。もちろん砂糖入ってるけど、甘い風味とみずみずしい口触りがいいねぇ」
ハーブティー先輩はまるで彼女でもいるかのように紅茶やハーブティーを楽しみ、大切にする。おれはお茶はまるっきり飲まないが、先輩のおかげで少しお茶に詳しくもなれたし、興味も持てた。もちろん、ベルリンをインドとか言う先輩のことだから間違ったことも覚えているだろうけど、それでもよかった。
「なんでも味わってみるってもんよ。人生、どんな風にでも味わえる。青春なら尚更。一番濃くて味わい深いものを堪能できるさ」
「おっしゃる通りです」
ハーブティー先輩と人生論を語り合っていると、ナギサがいつものようにコーヒーを淹れてきてくれた。
「おふたりさん、お疲れ様です」
ナギサの笑顔とは裏腹に、コーヒーはいつものようにダマと泡が浮いていて、もう飲む前から今日も劇毒だなと推測がつく。
「ありがとう」
一応淹れてくれたのだから飲む。でも、少しの間は気分が悪くなることは覚悟しなければならない。おれは一気に飲み干そうとした。
「ぐっ……」
一口入れた途端、おれは違和感とともにコーヒーを吐き出した。まずい……と言うより、そもそもこれはコーヒーだろうか。なんだかザラザラしていて非常に口触りが悪い。砂糖の味もあるが、口や食道を圧迫するような重々しい感覚を覚えた。
「ナギサ、これ本当にコーヒー?」
「あっ」
ナギサは何かに気がついたらしい。嫌な予感がする。
「ごめんなさい。園芸委員会からもらった土を入れてました」
「バカ、どうしたらそんなものと間違えるんだ」
「色が、似ていましたから」
危ない女だ。そのうち化学薬品や毒物で本物の毒「コーヒー」を作りそうで恐ろしい。これからは飲む前に毒味しないといけない。
「ナギサ……」
二宮さんはすごい表情をしていた。いつもはあの「劇毒」を喜んで飲む二宮さんも、今回は流石に怒っただろう、と思ったら。
「いいね、この土」
「ほ、ほんとですか?」
「植物が良く育ちそうだ」
「わー、嬉しいです」
「だから、僕らを育てるのに使っちゃダメよ」
二宮さんのイケメンすぎるナギサへの言葉に、ハーブティー先輩は「ケッ」と気に入らない様子を見せた。
「キザなやつ。好きな人のやることは犯罪でも善行に見えるってやつだな。全く……」
おれも二宮さんがナギサを褒め続ける事だけは勘弁して欲しかった。特にこの「ナギサブレンド」がどんな形で出てきても褒めようとするのは直して欲しい。おれやハーブティー先輩、あるいは会津先輩が命を落としかねない。きっとそのうち濃硫酸で割ったコーヒーとか、メチルアルコールブレンドなんてのが出てくるに違いない。命を落とす前に生徒会を辞めるのが得策だろうか。
「ナギサ、これからも美味しいコーヒーを頼むね」
「はい」
ナギサの口からはハートでも出てきそうだった。二宮とナギサのラブラブぶりを嫉妬深い目つきで見ているのはハーブティー先輩だった。
「おい、坊ちゃん」
「何でしょう」
「おれと組もうぜ」
「何をですか?」
「りぃあじゅうヴァクハドゥーメイだよ」
「ん?」
「リア充爆破同盟だよ」
「リア充爆破ですか?辞めましょうよ。そういうのは」
「だってヨォ、何でおれには彼女ができないんだ。ちくしょーう。世の中のリア充なんてみんな爆破すればいいのに」
「人の不幸を願っているうちは自分に幸せなんか来ませんよ」
「むっ、ならば……リア充祝福同盟作ろう」
「加盟します」
「よし、そうと決まれば初仕事だ」
ハーブティー先輩は立ち上がって二宮さんの方を向いた。
「おい二宮、ナギサ」
ハーブティー先輩は二宮さんとナギサに大きな声で怒鳴りつけるように二人の名前を呼んだ。
「末永く、お幸せにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
半狂乱で血の涙を流しながらハーブティー先輩は二宮さんとナギサを祝福した。おれは笑ってしまった。今日も生徒会は平和だ。

    気がつけば夏休みになっていた。おれはまだ入部の決断だけはしかねていた。やはりおれは生徒会の仕事をするべきだという思いと、ダブルダッチにのめり込みたいというジレンマがあった。
「両方やればいいじゃん」
生徒会室で一緒に仕事をしているハーブティー先輩は他人事のようにこう言う(実際に他人事だ)。
「そう簡単にいきませんよ。例えるなら、ハンバーグにするか、カレーにするかみたいなこと状態ですよ」
「じゃあハンバーグカレーにすればいいじゃん」
「……トンカツかカレーにしようか迷っていて……」
「カツカレーがあるよ」
「……ら、うどんにしようかカレー……」
「カレーうどん」
「……」
「麻婆茄子」
「まだ何も言ってませんよ」
「どうしてそうグズグズするんだ。案ずるより生むが易しって言うだろ。青春なんて優柔不断にしてたらあっという間に終わるぞ」
「ですが……」
その時だった。おれにラインがきた。梨子からだ。

【Lico】「りょーくん。今から草枕公園でダッチやるけど来ない?みんないるよ」

「お、デートか」
「違いますよ、ダブルダッチのお誘いです」
「いいじゃん、行けよ」
「仕事はどうするんですか?今日やらないと終わらないですよ」
「二宮にはごまかして報告しておく」
「いいんですか?」
「責任はお前に押し付ける」
「冗談でしょ?」
「冗談だ」
ハーブティー先輩のキツいジョークにヒヤヒヤしてしまった。
「俺が一人でなんとかしておくから、行ってこい。女の子の誘いを断るなんて野暮なことをするな」
「わかりました」
「祝福してやるよ、坊ちゃん」
「まだ付き合ってません」
「いいから行け。早く。俺が一人で、そう一人で、一人ぼっちでやっとくから」
ハーブティー先輩は「一人で」と言う言葉をやたらと強調して言うもんだから申し訳ない気持ちを抱えつつも、生徒会室を後にした。

    おれの通う高校から少し離れた街に繁華街がある。駅から近く、昼夜問わず老若男女であふれている。駅の目の前にある流行りのJ-POP が流れてくるカラオケ店を抜けて、一つ信号を渡り、スペイン料理店と証券会社を通り過ぎて、千円カットの理容店の前を抜けて、最近できたタピオカ屋を通ってPARCOの隣にある焼肉屋の目の前に草枕公園はある。そこはコンクリートと大理石で舗装されていて、春になるとパンジーとビオラの花が咲く。ベンチが多く、近くに店もあるので、食べ歩く人の休みの場所としても使われるし、ある時は大道芸に使われたり、選挙の集会所としても使われる。スケートボードは禁止されているけれど、それ以外なら何をしてもいい。もちろん、ダブルダッチもだ。ダブルダッチをやる上で、やはり縄を回しやすい場所というのはある。もちろんどんな場所でも回せないことはないけれど、土や砂とかよりはコンクリートの上の方が断然やりやすい。この草枕公園もダブルダッチをやるにはもってこいのコンクリートの地面だった。
  公園に着くと、誘ってくれた梨子の他に、大、羽多野姉妹、そして碧がいた。ダッチ部の一年生全員集合だ。
「あ、りょーくん来た」
梨子がおれが来たのに気がついた。梨子は手を振ってきた。おれは彼女の慣れた反応に、少しだけ体を強張らせてしまった。
「何照れてるのよ」
梨子は笑った。
「おせーよ、坊ちゃん」
「早く跳ぼうぜ」
おれは荷物をその場において靴紐を締め直した。紐が解けたら大変だ。飛んでいる最中に紐に引っかかってしまったら怪我する。準備運動も欠かしてはいけない。ダブルダッチをやってわかったが、意外と体力を使う。バスケをフルで出るよりも大変だ。何より、飛ぶのに神経を使う。アクロ技は出来ないけれど、あれをやるとなると余計に集中するから、精神がすり減る。ダブルダッチは頭も使う。単純そうに見えて、複雑に絡まった色とりどりの糸を順番にほどいていくような奥の深いスポーツであるということがよくわかった。それだけに、面白さもほかのスポーツに負けない。
おれは軽く体をほぐしてから二、三回ぴょんぴょん跳ねて用意をした。関節が準備完了と言わんばかりにぽきりと鳴った。体が動きたがっている。
「生徒会の仕事中だった?」
梨子が聞いてきた。
「まあ」
「ごめんね、忙しいときに」
「いいんだよ」
ターナーを務めていたのは羽多野姉妹だ。この二人が一年生の中では群を抜いて上手い。ダブルダッチにおいて縄を回す役割のターナーを軽視してはいけない。バスケットボールでボールを運ぶG(ガード)がコートでミスを連発して攻めることができなかったらゲームは成り立たない。野球で打たれてばかりのピッチャーではいくら点を取れてもそれ以上に点を取られて負けるだろう。ダブルダッチは一見して跳ぶ人間が重要に思われるが、ターナーの方もかなり重要だ。むしろターナーがなければどんなに技巧的な技を繰り出すこともできないし、ジャンパーがどれほど上手かろうと引き立つことはない。強い光には、濃い影がつきものだ。どんなスポーツにも言える事であるが、バランスが保たれないと、輝くこともできない。ダブルダッチなどその微妙な調和の上に成り立つのだ。つまり、ターナーの腕がジャンパーにそのまま影響すると言っていい。羽多野姉妹は大のようにアクロバティックな動きはできない。しかし、姉妹で息のあったターナーは、部内でピカイチだ。それだけでない。彼女らの一糸乱れぬ腕の動きは、芸術と言っていいだろう。
「さ、行け。坊ちゃん」
大がおれの背中を押した。そのダブルダッチと出会ってから一ヶ月。何度も跳んでいるうちに、ナワに飛び込んでいくタイミングなんかはよくわかるようになった。リズムの問題なのだ。ナワを回す時の空気が、音が、雰囲気が、おれにナワに潜り込むタイミングを教えてくれる。
「タン、タン、タン……」
地面にナワが当たる。今だ。おれは慣れた様子でナワに入ると、早速跳びはじめた。もう、ぎこちない動きでは跳ばない。まだ他の仲間のようにはいかずとも、だいぶ低く飛べるようになった。
「いいぞ、その調子だ」
「スピード上げるわよ」
羽多野姉妹が合図を送った。それに合わせて跳ぶ。だんだんとナワが早くなっていく。風を感じる。真夏の蒸し暑さを吹き飛ばすような涼風を感じる。
「いい感じいい感じ」
足元に迫り来るナワを跳んでいく。ダブルダッチを跳ぶ時の感覚は一種のゲームに似ている。ゲーセンとかに行くと敵が来たタイミングでボタンを押して攻撃する、的なアレだ。テンポよく跳んでいくのが楽しい。単純だ。文字にしてしまえば、「跳んでいる」の一言なのに、その一文字の中に、幾千もの意味があるような気さえする。ナワを跳ぶ時は結構集中している。一種のゾーン状態とも言える。何も聞こえないような時がたまにある。逆に言えば、集中していないとどっかで引っかかる。ダブルダッチで流れのあるパフォーマンスになるかどうかは、もちろん技術もそうだが、集中もモノを言う。
  何回か跳んだら、汗をかいてしまった。タオルで汗をぬぐって学校の自販機で買ってきたスポドリを飲む。水晶色の液体が体に染み渡る。
「あー、暑い」
「暑いよな」
大も随分と汗をかいていた。さっきからだいぶ跳んでいるようだった。
「いやー、それにしても今年の夏は暑いな」
「おい、聞いたかよ。今日群馬の館林で四十五度……」
「マジかよ」
「ってニュースがあってもおかしくないよな」
「なんだよそれ」
「それくらい暑いってことよ」
    たしかに。羽多野姉妹も先ほどからずっとターナーをして汗をかいている。ところが碧は全く汗をかいていなかった。
「碧よ」
「ん」
「なんでお前だけ汗かいてないんだ」
「多汗症」
「なら汗かくだろ」
「逆多汗症」
「聞いたことないよ」
「おーい、りょーくん。ちょっとこっち来て」
梨子がおれのことを呼んだ。手にはナワを持っている。
「どうした」
「そろそろナワも回せるようになったら?春香ちゃんと秋音ちゃんが休む間に教えであげるわ。ナワ練しよ」
梨子はおれにナワを渡した。改めて思ってみると、ナワに触ったことがあまりなかった。それどころか、回してもらって当たり前と思っていたから、
「ナワ……練……ね。なるほど」
なるほど、と言ったけれど、ナワ練がよくわからない。
「梨子」
「なあに?」
「ナワ練って……」
「文字通り、ナワを回す練習。りょーくんもナワが大事ってことわかるでしょ?だからりょーくんも回せるようになるといいよ。碧、ターナーやって。私りょーくんに教えるから」
    そう言って梨子はおれに縄を渡してきた。そう思ってみると、ナワを回すといった経験が一度もなかった。いつも誰かの回すナワに頼っていた。思えば変な話だ。まるでキャッチボールのできない野球部のようである。
    ナワは思っていたよりも意外と細い。触るとわかる。ただ、しっかりとしたナワで、ちょっとやそっとじゃ切れないとはよくわかった。山岳用のザイルと言えば説明がつくだろうか。それとよく似ている。バスケにはバスケのボール、野球には硬軟分かれてそれぞれボールがあるように、この競技にもちゃんと専用の道具がある、それがこのナワというわけだ。
「で、どう回せばいいの?」
「まず、適切な距離を取らないといけないわ。私が教わったのは、ナワをまずしっかりと伸ばしてピンと張る。碧とナワを伸ばしてみて」
言われた通り、ナワが張るまで伸ばした。
「そうしたら、少しずつ回して、距離を縮める。で、いつもやってるくらいの距離になれば成功よ」
なるほど、と思って梨子が言う通りにしてみるけれど、これが意外と難しかった。まず碧と息が合わない。おれが下手なせいだ。碧はおれに合わせようと、ナワのスピードを調整したり、腕や肩の幅を合わせたりしてくれたりしている。しかし、話にならないレベルでナワが言うことを聞かない。まるで生き物を操るみたいだ。そう思うとナワがヘビにも見えてきた。おれは生物部のことを思い出した。あの生物兵器部の生き物も言うことを聞かない。いつも今度は何が逃げ出すのかと、ヒヤヒヤする。ナワも同じだ。全然言うことを聞かない。頭の中でイメージはできている。どういう風に回せればベストなのか、どう回すのがベストなのか。ブレーンの中にはっきりとした映像がある。しかし、それが外に出てこない。第一に、右手と左手のそれぞれのナワを逆の方向に回すというのも、脳を使う。慣れ、なのだろうけど、最初はこれは中々大変だ。神経が削られていく。半端でない集中力を要するスポーツだ。バスケなんかとらまた違ったダイナミックさと繊細さを掛け持ったスポーツだと思った。華やかさと細かさのジレンマが、結果として弁証法的にダブルダッチを引き立てているんだな。
「おい、坊ちゃん。もうバテたのか?」
碧が声をかけてきて我に返った。相当な汗をかいていた。雫が目に落ちて、しみる。息が荒い。
「バテた……」
「おいおい、早いよ」
「無理しないでね、りょーくん」
梨子が優しい声で言った。疲れているから優しさが身にしみる。こんなにもすり減るものなのかと思い知った。腕時計を見た。シルバーの腕時計だ。安物だけど、おれなりに考えて買ったやつだ。今ので約十分。恐ろしいものだ。一時間にも感じた。
「これができないと、ダブルダッチは話になんねーぞ」
「まあまあ、りょーくんは初心者なんだし」
「練習あるのみだな」
碧は随分と辛辣だった。碧色の髪をしているのに、トウガラシみたいなやつだ。髪を赤色にしてみろ。ノッポだから本当にトウガラシになる。
    持ってきたポカリスエットをガブガブ飲み、汗を拭った。大がやってきた。
「坊ちゃん、ナワを回すには、コツがある」
「コツ」
「なんだと思うよ」
「手の動きとか」
「それもあるが、違うな」
「足腰か」
「いや、自分の体じゃない。となると……」
「もう一人のターナーのことか?」
「そう。プラスしてジャンパーのことも考えろ。ダブルダッチは個人競技じゃないんだ。チームみんなで息を合わせて、初めて競技として成立する」
「まあ、まだりょーくんは始めたばかりだから、頑張りましょうね」
梨子は微笑んだ。おれは梨子の笑顔に目がいった。彼女を見ていると、頑張ろうって気になれる。
「さぁ、坊ちゃん。休憩終わりだ。頑張れや」
「うん」
立ち上がると、再びナワを手に取った。

    夏休み中に、総務委員会に一つ小さな出来事があった。新入委員がやってきた。一年生の村上悟、というやつだ。その日も生徒会室でナギサブレンドを飲んでいた。
「今日はスペシャルブレンドですよ」
無邪気な笑みを浮かべて、「スペシャルブレンド」と言ったので、背中から冷や汗が出てきた。一体なんのスペシャルだろうか。毒盛りスペシャルだろうか。
「今日は紅茶です」
    ナギサは香り高い紅茶を、生徒会室にいた、おれと会津先輩とハーブティー先輩に淹れてくれた。ハーブティー先輩がいるのに、そこに更に紅茶かよ。しかも、ナギサの淹れた紅茶である。ただ、見た目は至って普通である。なんの変哲も無い、紅茶である。
「意外と……普通だね」
「うん」
会津先輩たちは疑っている様子だった。匂いを嗅いだり、じっとお茶を見て、注意深くお茶を見ていた。あの毒作りの天才、ナギサが紅茶を……。一体何を考えているのだろう。
「どうぞ、召し上がってください」
おれたちは、おそるおそる紅茶を一口飲んだ。
「んっ……」
これは………、
「酸っぱい」
おれと会津先輩、ハーブティー先輩はこの世の終わりのような表情を浮かべた。何という味だ。
「どうしましたか?」
「ナギサ、お前何を淹れたんだ?」
「えっ、ティーバッグにお湯を注いだだけです」
「それで?」
「そこに、レモンを」
「それだ。レモンいくつ入れた?」
「一切れですけど……」
「それでこんなに酸っぱくなる?」
会津先輩は顔をしかめた。
「皆さん、酸っぱいのはお嫌いですか?」
「いや、そうじゃなくて。なんかまだ入ってない?」
「レモンだけだと酸味が足りないと、思って、これを」
ナギサは白い粉の入った袋を取り出した。やばそうなやつにも見えないが、砂糖や塩の類でもなさそうだ。理科の実験でこのような粉を見たことがあるような気がする。
「なんだい、それ」
「クエン酸です」
「クエン酸を入れるなよ」
「疲れが取れますよ」
「その前に死んじゃうよ。何杯入れたんだ」
「軽く十数杯……」
会津先輩はため息をついた。ハーブティー先輩も呆れ顔である。ナギサは危険物取扱者の資格が必要である。彼女にとっては、なんでも危険物になりうる。
「お願いだ、ナギサちゃん。まともなものを作ってくれよ」
「でもぉ、二宮さんは美味しいって言ってくれるんです」
二宮さん。お願いだ。おれたちのためにまずい、と言ってくれ。総務委員会に殉職者を出す前に、嘘でもいいから「まずい」とナギサに言ってくれ。彼女は傷つくかもしれないが、それ以上におれたちが死んでしまう。
「失礼します」
二宮さんのことを考えていたら、本人が来た。
「二宮さん、ナギサが紅茶(の見た目をした毒)を淹れてくれましたよ」
「おっ、嬉しいね。今日は紅茶か。水野は立場を追われたか?」
「そんなことありませんよ」
ハーブティー先輩は苦い顔をした。
「いつもありがとう、ナギサ」
「いえいえ。どうぞ召し上がってください」
ナギサの淹れた紅茶を二宮さんは一気に飲み干した。あのナギサブレンドを一気飲みだと。常人なら服毒自殺だ。ナギサは目をキラキラと輝かせていた。サイコパスなのだろうか?
二宮さんは紅茶を飲み干したかと思ったら、目をかっと見開いた。そして咳き込むような表情にはなった。二宮さんにすら、これは毒に感じたのだろうか。ほらみろ、危険なんだ。と思ったら……、
「ナギサ」
「はい」
「これは美味いよ。やっぱすごい」
二宮さーん。なんてことを言うんだ。おれたちを殺す気ですか。濃硫酸よりもやばいですよ、これ。
「次も頼むね」
「はいっ」
ナギサはぴょんぴょん跳ねて喜んだ。「次も」って……。辞めようかな、ここ。
「さ、みんな。今日は新しい委員を紹介するよ」
「総務委員会に入る人ができたんですか?」
「そうだ。新しい仲間が増えるってことだ。仕事が楽になるだろうから、仲良くしてやってくれ」
かわいそうに。ナギサブレンドの犠牲者がまた一人増えたな。二宮さんも罪な人だ。ただでさえここに殉職者しそうなのが三人いるのに、これ以上被害を拡大させてどうする。
「入ってくれ」
二宮さんが言うと、生徒会に一人入ってきた。痩せ型で、背の低い男だった。血色が悪く、うらなりのかぼちゃみたいな顔をしていた。ナギサブレンドで殉職する前に死にそうな顔をしている。特徴的なのは目だ。顔は青ざめているのに、目が鋭い。睨むようである。
「どうも……」
低い声だ。総合してアンバランスな男だと思った。服装もなんだか地味なような、派手なような、奇抜でよくわからない格好をしている。
「村上悟です」
「よろしくな、悟」
会津先輩が馴れ馴れしく接した。プロネーマー会津先輩は、早速村上にあだ名をつけようとしていることがよくわかった。
「どうしようかな」
「何がですか?」
「お前のあだ名だよ」
「……そういうのは嫌いですから、やめてもらえませんか?」
「そう言わずにさ、むーくん」
むーくん。になったのか。
「だから、やめてください」
村上は強い拒否反応を示した。
「むーくんじゃイヤか?」
「むーくんじゃなくてもイヤです」
「じゃあ……」
「まあまあ、とりあえず紅茶いかがですか?」
ナギサだ。村上は何の疑いもなく紅茶の入ったカップを受け取った。やめろ、ナギサ。入ったやつを早々に殺す気か。
ズズス……と音を立てて村上はお茶を口にした。途端に、彼は眉をひそめた。
「ナギサさん、でしたっけ?」
「はい」
「これさ……美味いよ」
おれを含む三人は驚きを禁じ得なかった。二宮さんは、だろ?って表情を浮かべる。冗談じゃない。こいつ、味覚が死んでやがる。
「おかわりある?」
このセリフを聞いた時、こいつは人間じゃないと確信した。
余談であるが、これを梨子に話したら大笑いされた。
「梨子、笑いすぎ」
秋音がふふっと笑った。
「だってそのナギサちゃんのコーヒー、やばいんでしょ」
「一度飲んでみるといいさ、一日中舌が痺れるから」
やめとくわ、と言って梨子はまた可愛らしく笑った。



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