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小説『青春ダブルダッチ』第三章

【第三章・アクロ】   

 おれは次の日、二宮さんに昨日のことを話した。楽しそうに話すおれの様子を見て、二宮さんも満足そうだった。
「本当に、すごかったんですよ、こうやってナワの……」
「そうか。じゃあダブルダッチ部入るか?」
二宮さんの突然の提案に、おれは「いやぁ」と言って、戸惑ってしまった。
「入るまでは……」
「お前、ダブルダッチに恋してるだろ。めっちゃ楽しそうじゃんか」
「総務委員会の仕事もあるので」
「いいんだよ。会津やハーブティーもいるし、また新委員も入りそうなんだよ」
「へぇ、そうですか」
それは有り難い。総務委員会は年中人手不足だ。仕事はどんどん来るが、いかんせん人が少なくて仕事を回せない。
「でもさ、お前もやりたいことあるならやっていいんだよ。青春は一度きり。やれる時にやりたいことやらないと」
「そう、ですけど……」
「ですけど?」
おれはここで微妙な間を生み出してしまった。ダブルダッチに興味がないわけではない。むしろもっとやりたい。昨日はすごく楽しかった。でも、もう少しで生徒会長選挙だ。二宮さんは間違いなく生徒会長選挙に出馬する。強力なライバルが出て来るかはよくわからないけれど、もし二宮さんが会長になれば、僕は総務委員長になる。二宮さんからも前からそう言われている。一年生委員長になるわけである。なかなかこれは荷が重い。果たしておれにできるか……。
「まあ、悩みなよ。まだ生徒会選挙は先だしさ。ダッチ部、今入部すれば秋の学園祭に間に合うし。そこらへんも考えながら、やってみなよ」
「はい」
    夏休みが明けてすぐに生徒会長選挙が始まり、そして十月には学園祭がある。たしかに、今始めれば学園祭で楓さんみたいにとはいかなくても、ある程度のことができる。おれは大きな選択を迫られているような気がした。
    生徒会でやる仕事は責任がある。でも、ダブルダッチを始めてみるのも悪くないかもしれない。ジレンマだ。これは良くないぞ。おれは無鉄砲であるけれど、今回はそうはいかなかった。総務委員会を、放ったらかしにしたらどうなるか知れたもんじゃない。
「あんま深く考えるなよ。前に桑嶋先輩の話したろ」
「あれは驚きましたよ」
  二宮先輩が一年生の頃、総務委員長を務めていたのは桑嶋さんという三年生だった。エキセントリックな人だったらしい。いくつも部活を兼ねていて、その上に生徒会までやっていたそうだ。思えば多忙な総務委員会と部活を複数兼ねるなんて、とても人間のすることじゃないと思った。それに聞いた話によると桑嶋さんは酷い女好きで、女子ソフトボール部から石を投げられたり、化学研究部の女子に硫酸をかけると脅されるほど全校の女子から嫌われていたと聞く。とにかく沢山の伝説を生徒会に残した人で、数多くの先輩の武勇伝が残っている
ある時は屋上で「愛校者」を名乗って応援歌を全力で歌って先生から注意されたり、中庭の池で外来生物のミドリガメを飼ったり、化学の実験でアルコールランプでスルメを炙って食べようとしたり、倉庫で爆発を起こしかけたというエピソードまである。
「その桑嶋先輩って、なんでそんなに嫌われていたんですか?」
「うーん。ふつうに変人ってのもあったし、あと生徒総会だな」
「生徒総会のあの伝説の失言ですか」
「そうそう」
    桑嶋先輩が総務委員長になる前。一年生の頃に、生徒総会で三年生の合唱コンクール委員長ととんでもない論戦を繰り広げたらしい。
「おれも驚いたよ。桑嶋さんの発言」
「『合唱は害悪』って言ったんでしたっけ」
「そう。それで委員長泣いちゃって。桑嶋さんめっちゃ怒られたらしいな」
「人の価値観を否定するのは良くないですね」
相当合唱が嫌いな人だったらしい。しかも、この件では謝るどころか、叱られたから檄文まで貼り出して、ひと騒動起こしてしまったらしい。(結局桑嶋先輩はもっと叱られたらしい。)
おれはその桑嶋先輩に会ったことはないけれど、この人に関する話はいくらでも出て来るし、聞いていて面白い。目の前に図が浮かぶようである。
「あと、あの話、本当なんですね」
「うん。だって僕は見たよ。二人が手を繋いで帰るの」
  桑嶋先輩の数ある武勇伝の中で、一番すごいのは恋の話だろう。あの人ほど劇的でロマンティックな大恋愛をしたのは聞いたことがない。現実に起こったのだそうだけれど、まるで小説のような話なのだ。
「その……言っちゃったんですよね。秋の生徒総会で」
「あれで桑嶋先輩の女子からの信頼は地の底に落ちたんだけどな」
     おれが見たわけではない。二宮さんから聞いた話である。その二宮さんだって見たわけではない。そのまた上の先輩から聞いた話である。五年経った今でも生徒会の中で語り継がれる伝説の総務委員長、桑嶋さんの武勇伝である。
    五年前、桑嶋さんが一年生の頃、一年生にして生徒会副会長を務めていた向井莉沙さんという方がいたそうだ。すらっとした黒髪の美しい美女で、『生徒会の女神』と呼ばれ、生徒からたいへんな人気があったそうだが、桑嶋先輩はこのさんにガチで惚れてしまったようだ。そして二人は数々の事件を経て、付き合うことになったそうだが、そこまでにものすごい物語がある。
「生徒総会であんなこと話すなんてあり得ますかね」
「うーん。変人だからねぇ」
    桑嶋先輩と莉沙さんが初めて話したのは、あろうことか秋の生徒総会。二人出会いは最悪だった。桑嶋さんは生徒総会で激しく予算委員会を追求していた。言っておくが、生徒総会で発言する生徒は例年いない。生徒総会なんて形式上のものだ。全校の前で何か物申すのが恥ずかしいのか、あるいは無関心なのか、生徒総会はだいたい無風状態で終わる。発言するとしても、議案書の誤字脱字を指摘するくらいである。生徒会役員も大半はそのつもりでいる。生徒の九割九分が生徒会のイエスマンで、生徒会には無関心なのが現状だ。
    しかし、桑嶋さんはそうはいかなかった。生徒総会の形骸化を憂い、一年生の時からアホみたいに発言するのである。当時の役員は困っただろう。なんせ年下の一年生に激しく責められるのである。議事録にまだ発言の記録が残っているが、それはもう凄まじいものだった。
「この雑費ってなんですか」
「あの、テープとか」
「なら明記してくださいよ。わからないでしょ。雑費一万五千八百円も使ったなら書くべき。なんで誤魔化そうとしたんですか」
「いえ、誤魔化そうとしたわけじゃ……」
「予算細則第五十八条。『雑費に関しての記載』に『雑費の内約は明記せよ』ってあるでしょ。なぜ書かない」
「すみません、生徒会則読んでなくて」
「生徒会則読んでないなら役員なんてやめちまえよ」
「いえ、その……」
「全校生徒のお金に関する責任を預かっているわけでしょ。お金の扱い方のルールを守らんでどうするの。まだまだこの予算明細ミスありますよ。この園芸委員会の……」
    桑嶋さんは会計のミスを徹底的に指摘した。中にはやりすぎの声も出ていたが、もっとやれと囃し立てる奴らもいた。桑嶋さんはそんな声を微塵も聞くことなく、自分の正義を振りかざし会計を攻撃していた。当時の議案書を見ると、たしかに会計はミスばかりで、明らかに適当に作ったことがわかるものだった。しかし、桑嶋さんの発言もなかなか過激だ。議事録に残っているが、終わりの方になると平気で罵詈雑言の類が出て来る。多分会計の委員長は半泣きで議論しただろう。
  しかし、そこで登場したのが、副会長、向井莉沙さんだったのだ。
「発言代わります。副会長、向井莉沙です」
莉沙さんは論破されかけた会計委員長の代わりにマイクの前に立ち、桑嶋先輩と対峙した。
「発言者の方、質問ありがとうございます」
「どうも、副会長さん。あのですね、これミス多くないですか。幾ら何でもこれはまずいですよ」
「本当に申し訳ありませんでした」
莉沙さんは桑嶋さんに一切反論することなく、
終始先輩役員のミスの謝罪に徹した。桑嶋さんは議案のミスを指摘し続けたが、いくら桑嶋さんが責めても、莉沙さんは謝り続けた。莉沙さんは謙虚だった。目には涙まで浮かべていて、その誠実さに、次第に生徒総会のために体育館に集まっていた生徒もふざけるものはいなくなり、その場の流れも生徒会サイド、すなわち莉沙さんの方に傾き始めた。「やめろ、桑嶋」と野次まで飛び始めた。桑嶋さんは次第に追求しづらくなってしまって、黙り込んでしまった。
「……発言を終わります」
    完全に桑嶋先輩は莉沙さんに打ちのめされた。生徒大会で桑嶋さんはもはや完全に悪者扱いされていた。が、ここからの発言が事件の始まりだった。
  生徒役員がマイクを回収しようと、桑嶋先輩の元に向かう途中、桑嶋先輩に話しかける友人がいた。
「なぁ、桑嶋。副会長の胸でかくね」
「ああ、副会長おっぱい大きいな」
その瞬間、会場が一斉に凍りついた。桑嶋さんは一瞬何が起こったのかわからずにいたが、すぐに事件に気がついた。マイクの電源を切り忘れていたのだ。吉田茂元首相が小声でバカヤローとヤジを飛ばしてマイクに聞き取られて問題になり、国会解散になった「バカヤロー解散」と同じだ。このセクハラ発言に、自分のことを言われた莉沙さんだけでなく、生徒大会に参加していた皆が驚いた。
「あのっ、そのっ……」
「変態野郎」
ヤジが桑嶋さんに飛んできた。自業自得としか言いようがない。
「で、その後どうなったんでしたっけ」
「なんか、莉沙さん泣いて生徒会室に戻ったって聞いてるぞ。そりゃそうだよな。自分の体のこと全校の前で言われて、そりゃ傷つくわ」
「桑嶋さんは謝ったんでしたっけ」
「うん。学校から問題視されて一週間の停学処分の後、ちゃんと謝りに行ったよ」
ここから先も聞いた話でしかないから本当かどうかはわからない。
     桑嶋さんは生徒会室に行って全力で土下座したらしい。生徒会室の雰囲気はまるで戦争直前のようにピリピリしていたという。桑嶋さんは『半沢直樹』の大和田常務さながらに地に頭を下げて、涙ながらに莉沙さんに謝ったという。
「すみませんでした。莉沙副会長。生徒大会での不適切な発言で貴方を傷つけてしまって、本当に申し訳無く思います」 
  その場にいた他の役員は皆罵詈雑言を桑嶋さんに浴びせた。生徒大会での執拗な追及もさることながら、仲間を傷つけた怒りからだった。しかし、一番の被害者である莉沙さんは違っていた。地に額をつけて謝る桑嶋さんに一言、
「他の方に、同じことを言わないようにしてあげてください。貴方は素敵な人です。自分の過ちと思うことを素直に反省して、次に生かそうとしてくれてます。ありがとう、桑嶋さん」
このあと抱きしめた、とかいう話もあるが、多分それは嘘だろう。でも普通、ここまで言えない。自分のことを傷つけた相手に対して、優しい言葉をかけるなんてそうそうできることじゃない。ましてや「ありがとう」まで言い切るとは。まさに彼女が「女神」と呼ばれた所以だろう。
    桑嶋さんは泣いた。彼女に刺される覚悟で謝りに行ったと聞く。そこに降りかかった女神の赦し。これで惚れない男がいるだろうか。桑嶋さん、見事にメロメロになってしまったそう。
「でもよくそこから付き合うまで行きましたよね」
「こっからがドラマチックなんだよ。莉沙さんの優しさもさることながら、本当に映画かドラマでしか見たことの無いような展開があるんだよなぁ」
嘘のようで本当の話は世の中にいくらでも転がっている。これも最初はだれかが作り出した虚構だと疑ったが、本当の話。
    桑嶋さんはあの後、生徒会を執拗に責めることはなくなり、むしろ莉沙さんの周りで生徒会の職務に携わるようになった。本人は部活を四つ掛け持ちしてたから、それをやりながら生徒会もやる。すごい体力と精神力だ。おれなんて総務委員会の仕事を一つやるだけで手一杯だったりするのに。
    そして二年生の春。ちょうど新入生歓迎会の準備を生徒会の方で進めている時に、事件が起きた。
    夜中の八時、生徒会室で仕事をしていた莉沙さんは倉庫に新歓で使う電気のコードを取りに行ったところ、何者かに後ろから抱きつかれた。なにかと思ってみると、体育科の教師、砂原だった。砂原は生徒から嫌われる変態ジジイであり、女子更衣室に監視カメラを仕掛けたとか、盗撮をしていたと言った噂が絶えない男だった。莉沙さんは砂原を振り払おうとしたが、さすが体育の教師。力強く莉沙さんの腕を掴んで離すまいとして、莉沙さんを床に突き倒した。そして莉沙さんの口をふさぐと彼女の胸に手をかけた。悪い教師だ。ここは聞いていて胸糞が悪くなる。この変態ジジイ、いやクソジジイは自分のズボンを脱いだ。なんてことだろう。生徒に手をかけようとする教師。犯罪だ。強姦だ。砂原の荒くなった息が莉沙さんの顔にかかる。「犯される」と彼女は思い、半泣きになっていた。しかしそこに偶然通りかかったのが、例の問題児、桑嶋さんだった。
    桑嶋さんは砂原に犯されそうになっている莉沙さんを見るなり無我夢中で砂原に襲いかかり、頭突きをお見舞いした。砂原は体勢を崩してその場でよろけた。莉沙さんは砂原に腕を掴まれて手にアザができていた。着ていた白いブラウスのボタンを外されかけ、下着が見えかけていた。危ないところだった。桑嶋さんは莉沙さんをかばうように彼女の前に仁王立ちになって砂原に立ち向かった。砂原はもう見られてしまったからには自分の教員生命を絶たれた。しまったと思い、やけくそで桑嶋さんに襲いかかった。桑嶋さんは決して弱くはないが、向こうは腐っても体育教師。砂原は桑嶋さんの顔面に一発拳骨を食らわせた。桑嶋さんは吹き飛んで倉庫の壁に打ち付けられた。「痛っ」と言いながら顔を触ると唇は切れ、鼻からは真っ赤な血が流れ出ている。
「このクソジジイ」
怒りの形相を滲ませた桑嶋さんは砂原を睨みつけ、そして立ち上がって変態教師に立ち向かっていった。拳を握りしめて砂原にパンチを浴びせる。砂原はこれを軽々と避けると桑嶋さんの腹に蹴りを入れる。肋骨が折れる嫌な音がした。莉沙さんは悲鳴をあげる。
「早く逃げろ」
と桑嶋さんは必死に莉沙さんに呼びかける。莉沙さんはショックで足がすくんで動けない。砂原の方はと言うと、桑嶋さんを容赦なく蹴り続ける。無慈悲にも悪の拳が桑嶋さんに叩きつけられる。もう顔面が変形して歯が折れるほど殴れていた。顔は血だらけで、見るも無残だ。気を失いかけながら、桑嶋さんは砂原に必死に抵抗しようとあがきにあがき、もがきにもがく。桑嶋さんは殴られながらも反撃の好機を狙っていた。一瞬、砂原にスキが生じた。これを桑嶋さんは見逃さなかった。砂原の鉄槌を避けると、相手の懐に入り込んで、相手の股間に膝蹴りをお見舞いした。男の弱点を攻められた砂原は泡を吹きながらその場に倒れた。桑嶋さんの反撃が始まる。サッカーボールを蹴り飛ばすように、砂原の顔面に渾身の蹴りを一発。砂原は気を失ってその場に倒れこんだ。
「莉沙さん、怪我ない?」
桑嶋さんの方もこう言い残してその場に倒れこむ。莉沙さんは慌てて桑嶋さんの元に駆け込んだ。桑嶋さんは虫の息。これは大変だ。すぐに一一九番。
  この後、学校に残っていた生徒会の役員が駆けつけ、桑嶋さんは救急搬送されて、莉沙さんは親が迎えに来た。当然、この変態教師砂原は強姦未遂、生徒への暴力等々、いろんな罪で逮捕された。もはやクズとしか言いようがない。五年経った今でもブタ箱の中で暮らしている。
「すごいよね。好きな人が襲われてそれを助けるなんて」
「うん。僕も驚いたよ」
「で、そのあと二人は付き合ったんですよね」
「そう。今でも多分付き合ってるよ。仲よかったからね。あそこまでドラマチックだと作り話だって疑いたくもなるけど、純粋に聞いてても面白いよね」
「そうですよね」
「確か向井莉沙さんの妹、一年生にいるよ」
「それは初耳ですね。会う機会があれば挨拶して起きますよ」
「そうだね。ところで坊っちゃん、君にもあっていいんだよ。恋の話とか」
「恋って、変なこと言わないでくださいよ」
「命短し恋せよ乙女」
「男ですよ、おれは」
「例えばさ。いないの?周りに女の子とか」
おれはとっさに昨日会った梨子さんのことを思い浮かべた。可愛かったな。また、会ってみてもいいかな、などと思った。
「いないわけじゃないです」
「そうか。まあ、悔いのないように過ごしてな」
「二宮さんはどうなんですか」
おれがそう言った途端に、ナギサが嬉しそうに二人分の「ナギサブレンド」を運んできた。
「ナギサ、ありがとう」
「いえいえ〜」
二宮さんが言わずとも、おれは察した。いつの間に。おれが鈍いせいもあるが、二人が付き合っているのは少々衝撃だった。二宮さんも物好きだ。こんなコーヒー作るのが下手な女の子を彼女にしたくない。いつか死に至る。
「まあ、そういうことで。そうそう、部室の件」
「あ。すっかり忘れてました」
「ダメじゃんか。部室の申請あったんだから。多分、部室長屋の一番奥空いてると思うんだよ。鍵の番号は4698。ちょっと見に行ってもらってもいい?」
「わかりました」
  二宮さんに頼まれ、おれは部室長屋を見に行った。
    この学校は部活が多い。部活が多いってことは部室も多くなる。一応、全部活動に部室がいくように作られているはずなのだが、近年どうもやりくりがうまくいっていなくて、部室が足りなかったり、問題がいくらか起きたりしている。
    部室長屋というのは部室が江戸時代の長屋のように連なっているからに他ならない。誰がつけたのかは知らないが、決してセンスは悪くないと思う。
  その部室長屋の一番奥、二宮さんに言われたところに行くと、部室の鍵が開いていた。あれ、どうしたのだろうか。恐る恐る中に入ってみると、中にだれかいた。
「ん?なんだ」
「ぎゃぁぁぁぁ」
やたらと低い声がしたものだから、おれはびびって逃げ出そうとした。お化けが出たと思った。しかし、よく見るとお化けでなくて人だった。短い黒髪に、Tシャツとジーパン。至って普通の格好をした、大学生くらいの男だった。
「だっ、誰ですか」
「ごめんごめん。ここ使うってことよね。すぐ出るから」
「いえ、そんなこといいんです。誰か教えてください」
「ここの学校のOBよ。忘れ物を取りに来た」
「忘れ物ってなんですか」
「君のハートさ」
おれは部室を出ようとした。
「おいい、ちょっと待てよ。冗談に乗りたまえ。忘れ物じゃなくて、本当は呼ばれたのよ、OBとして」
「何に呼ばれたんですか。警察ですか?」
「冗談キツイなぁ。おれは桑嶋直太朗」
「桑嶋って……え。あの桑嶋ですか?」
「桑嶋さんな。そうだよ」
「あの生徒大会でセクハラ発言した」
「まあ、したな」
「合唱は害悪発言をした」
「今でも合唱は嫌いだな」
「で、変態教師から好きな人守った」
「そんなこともあったな」
桑嶋さんは苦笑いを浮かべた。おれはてっきりものすごい奇抜な人間を想像していた。が、見た目は至って普通の男子だった。高校時代もおそらく、今目の前にいる姿と大して変わらないだろう。二宮さんたちが話す変人はこの人だったのか。
「えっ、ダッチ部に呼ばれたんですか?」
「だってここのダッチ部作ったのおれだもん。初代ダブルダッチ部部長」
「は?」
「それ以外にも部活沢山やってたよ。園芸部、フランス語研究会、あと哲学部」
四つ部活を兼ねているとは聞いていた。しかしまさかここまでとは。
「すげーだろ。な?すげーだろ」
桑嶋さんは執拗におれに褒めることを求めて来た。変な人だ。二宮さんから話を聞いていなければ即通報だ。
「すごいですね」
「おいおい、もっと気持ちを込めて言ってくれや。す・ご・い……」
「本当に通報しますよ」
「悪い。それよりダッチ部今どこで練習してるんだ?俺、わからんのだよ」
「じゃあなんでここにいたんですか?」
「ん。授業サボるのにここが一番いい」
悪い先輩だ。武勇伝を沢山残すのも納得がいく。
「さ、どこ?」
「ギャラリーです」
「へー、すごいな。おれらの頃は練習場所なかったんだぞ」
「そうなんですね」
「今もう三年生引退した?」
「あの。おれ、ダッチ部じゃなくて生徒会です」
「えっ、ヤベー人に見つかっちまったみたいだな。お願いだから会長には言わんといて。怒られる」
「言いませんよ」
「優しー、ありがとう。君何者?」
「与田良太郎といいます。総務委員会の一年生統括です」
「えっ、総務?おれ委員長だったのよ」
「二宮さんから聞いてます」
「うわっ、二宮とか懐かしいわ」
    こんな調子のやりとりが五分ほど続いた。この短時間でいい意味でも悪い意味でも噂に違わぬ人だとよくわかった。
「さて、行こうか。龍之介くん」
「良太郎です。覚えづらいならあだ名で結構です」
「あだ名あるん?」
「『坊っちゃん』と呼ばれてます」
途端に桑嶋さんは吹き出した。
「『坊っちゃん』って、お前。森鴎外か」
「夏目漱石ですよ」
アホだな、この人。そして失礼だ。よく彼女できたな。なんとなく嫌われていた理由がわかるような気がする。
「さ、ギャラリー行こうか。お前もついてこい、舞姫」
「坊っちゃんです」

    ギャラリーからは昨日と同じように流行りのミュージックが流れていた。
「失礼します」
桑嶋さんとおれはギャラリーに入った。
「あら、良太郎くんと。あっ、桑嶋さん」
「楓、久しぶりだな」
「桑嶋さん。お久しぶりです」
ダッチ部の二年、三年生は皆桑嶋さんの元に集まった。今日はどうやら三年生も来ているようである。
「よぉ、坊っちゃんも来たんだな」
サドジンさんがおれに声をかけてくれた。練習したから汗をかいていた。
「どうも。来ちゃいました」
「今日はすごいもの見れるから、お前も見てけよ」
ほう、それは楽しみだ。すごいもの、一体なんだろう。
「あら、りょーくん」
おれに手を振ってくれる女子がいた。梨子さんだった。おれも手を振り返した。昨日と同じようにいい笑顔を浮かべておれに微笑みかけてくれる。
「今日、何をやるの?」
「今日ね、桑嶋さんがアクロ見せてくれるの」
「アクロ?」
「そう。ダブルダッチってただ跳んだりするだけが能じゃないのよ。ナワに引っかからないようにバク宙したりするのがアクロ技」
おれは梨子さんが言っていることがよくわからなかった。そんなことできるはずがない。だってナワの中であれだけすごいパフォーマンスをするだけでも奇跡みたいなものなのに、そこから更にバク宙をするなんてそんなことできるはずがない。
「本当にそんなことできるの」
「初心者には無理ね。でも、ある程度練習すればできるわよ」
おれは半信半疑であったが、せっかくなので見せてもらうことにした。
「じゃあ、三年生にターナーやってもらおうか」
桑嶋さんは一つ下の後輩をターナーに指名して、ナワを回させた。よくよく考えたら、桑嶋さんの格好は運動するようの格好じゃない。Tシャツは問題ないが、ジーパンでは動きづらいだろう。
「いくぞ」
    桑嶋さんはストレッチをしてから、ギャラリーの床でぴょんぴょん跳ねて、ナワの方に体を向けた。すると、信じられないことが起こった。
    桑嶋さんはゆっくりとナワの回る中に体操選手のように飛び込んで、そしてうまくナワの隙間を通り抜け、空中で器用に一回転して綺麗な円を描き、そして着地した。ギャラリーで拍手が起こった。おれは目の前で起きたことがよくわからなかった。魔法でも使ったのかと思った。ナワとナワの微妙な隙間をすり抜けてバク宙をしたのである。そんなこと、もはや別次元の話だと信じてやまなかった。しかし、ナワの中を抜けたのである。しかもバク宙で。
    おれはこの二日で奇跡を見せられすぎて、目眩がしていた。現実離れしたことが起こりすぎてよくわからなくなってしまった。情報が追いつかない。
「おいっぼーっとするなよ。メロス」
「坊っちゃんですって」
本当に適当な人だ。人の名前を覚えない。こんな人が目の前で奇跡を起こしたなんて信じられない。
「桑嶋さんすごい」
梨子さんは拍手して喜んでいた。ほかのダッチ部員も同様に喜んでいた。
「すごい。やっぱレジェンドは違うなぁ」
おれもすごいということに関しては同感だった。
  その後も桑嶋さんは性格の適当さとは裏腹に、いろんなすごい技を披露してくれた。アクロバティックな動きはもちろん、昨日ハーフの大が見せてくれたような技も見せてくれた。おれが一番驚いたのは、リリース技だった。 
     桑嶋さんは三年生の先輩とナワを回していた。綺麗な回し方をする人だと思った。ナワを自分の体の一部のように操って、全くリズムを崩さずに回し続けるのだ。それについていく三年生も十分にうまくターナーをこなすが、桑嶋さんは繊細にナワを操っていた。
「坊っちゃん、見てろよ。すごいもの見せるから」
桑嶋さんはナワを回しながらおれにこう言って来た。やっと坊っちゃんと呼んでもらえたな、なんてことを思っていると、桑嶋さんはナワを手から離してもう一人のターナーの方に飛ばした。それに呼応するように、桑嶋さんの相方もナワを飛ばして、お互いのナワを持ち替えた。一瞬、何が起こったのかわからなかった。大縄跳びでは自分のナワを手から離すなんてこと、考えたこともなかった。
「すみません、桑嶋さん」
「どした」
「今のは、一体」
「これはリリース技と言ってだな、ターナー二人の息が合わないとできない技だ。お互いが同じタイミングでナワを手から離して相手の方に自分の持っていたナワを飛ばし、ナワを持ち帰る。ま、素人には無理な技さ」
驚愕だ。おれはひどく興奮していた。ダブルダッチは昨日見たものも十分驚かせてくれたが、今日桑嶋さんが見せてくれたのはそれ以上だった。
「やっぱ、奥が深いなぁ」
「坊っちゃん。人生って面白いことたくさん転がってるんだ。なんでもやってみることよ。勉強ばかりの青春なんてつまらんもんさ。恋も部活も生徒会も、たくさん失敗しながらそれでも自分を信じて前に進むのが、青春ってもんだよ」
桑嶋さんが言うと妙に言葉に説得力がついた。その通り、なのかもしれないな。
「胸に刻んどきます」
「おう。二度と忘れないようにしとけ」
この二日間、僕の人生にとって激動の二日間と言わざるを得ない。こんな世界観があるなんて知らなかった。おれはますますもってダブルダッチが好きになった。
「りょーくん」
「はいはい」
梨子さんがおれを呼んだ。
「あなたも跳ばない?ナワ回してあげる」
「ぜひ」
    その日は日が暮れるまで、ダブルダッチの宴に興じた。こんなにエキサイトなスポーツがほかにあるだろうか。バスケ部の時も、何度も楽しいと思って来たけれど、ダブルダッチはその比じゃないくらい楽しい。
「青春は、バカやったもん勝ちだよ」
二宮さんがずっと前におれに言ってくれたことを思い出した。そうだ、今を楽しまなきゃ。青春は一度きりなのだから。
(続く)

〈桑島直寛プロフィール〉
松本深高校卒業。高校在学中には、応援団管理委員会と落語研究会に所属しながら作家を目指して創作活動に取り組む。『涙色のラピス』で長野県文芸コンクール佳作受賞。文化祭にてダブルダッチ部のパフォーマンスに魅了され、小説『青春ダブルダッチ』を執筆する。現在は明治大学に在学している。

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