『憲法の理性』/長谷部恭男

主題…「立憲主義」は社会における価値観・世界観が「比較不能」であるという事実を前提として、比較不能な諸価値の自由な追求を認める領域と、人々が理性的な議論を通して決定を行う領域とを分断した。こうした「立憲主義」を前提として平和主義、個人と国家の関係、立法過程などを論じる時にはいかなる視点に立てばよいのか。「立憲主義」という理念に立ち返り、検討を深める。

1章では平和主義と立憲主義をめぐる考察がなされている。
憲法9条2項の解釈について、自衛のための武力保持は9条2項に反するため違憲であると主張する違憲論と、合憲とする合憲論の立場がある。長谷部氏は本章で違憲論がどのような前提から違憲を主張しているかを検討する。違憲論の立場は、憲法9条を「原理」ではなく「準則」であると捉えているという。「原理」は特定の諸価値について衝突する場合のあるものを指すのに対し、「準則」は条文の文言を一義的に解釈し、決断を下すものとする。違憲論は9条を「準則」と捉えた上で、理由づけをしているのだという。違憲論が提示する理由として「チキン・ゲーム」として戦争を評価するものと、非暴力不服従を理論として提示するものがあるとされる。

2章ではホッブスに対するルソーの批判について取り上げられている。
ルソーはホッブスの「自然状態」の設定に疑義を投げかける。そのうえルソーは、ホッブスが国内の「自然状態」を危機的状況と捉えたのに対し、むしろ国家間の「自然状態」の方がより際限のない破壊につながると考え、国内の「自然状態」よりも深刻であると主張した。一つの肉体からなる個人よりも、人間の構成物である国家の方が、無限定に拡張的になりうるのだという。
そしてルソーが考えた戦争状態を解決する策について紹介がなされている。長谷部氏は、ルソーの策のうち特に「社会契約の解消」を評価している。国家間の戦争の究極的な目的は主権への攻撃であることから、国家を形成している社会契約を消滅させることで、危機を回避することができるのだという。

3章ではロックの「抵抗権」について理論とその正当化の議論をする。
ロックは政府が信託の条件に反した行動をとった場合、人民は政府に対して「抵抗権」を行使することができると考えた。ここで問題になるのが、「抵抗権」の行使を正当化することで、無政府状態における反乱を許容することに帰結しうるのではないかという論点である。この点についてロックは、「抵抗権」の行使による反乱の恐れを正面から否定している。ロックは抵抗権に関わる議論の前提に「hedonisticな人間観と神の存在」を想定していた。そして政府に対する「抵抗権」の行使が正義に適っているか否かは神によって決されると考え、正義に適っている場合に限り、人民は「抵抗権」を行使するのだという。そのため反乱につながりうる正義に反した「抵抗権」の行使はそもそも行われ得ず、正義に敵う「抵抗権」の行使が反乱に結びつくということはないのだという。

4章は憲法の視点から見た冷戦の図式について議論がなされる。
長谷部氏によれば、あらゆる戦争は相手国の憲法を破壊することを目的としてきたのだという。国家の基本構成である憲法を攻撃し、憲法を自国の理念に合う形で書き換えさせることが、国家間の戦争の究極的目的とされる。こうした視点に立つことで、冷戦も西側と東側の憲法の理念をめぐった対立であったということができる。
戦争を憲法の対立と捉えたとき、国家対立と立憲主義の関係も見えてくるのだという。第二次世界大戦はリベラル・共産主義とファシズムが対立するという形で展開され、冷戦はリベラルと共産主義が対立する形で展開された。すなわち「立憲主義」を掲げるリベラル陣営は、その本質である「公私の分離」を2つの戦争で対立させる形で守り続けてきたということを確認することができる。

5章では憲法上の権利の制約原理である「公共の福祉」の検討がなされている。
憲法上の権利の制約原理に関する通説は「一元的内在制約説」であるとされる。長谷部氏はこの通説につき、「公共の福祉」の理解と人権の限界に疑義を掲げている。
長谷部氏は第一に「公共の福祉」が国家の権威の正当性の根拠として働きうるかを検討する。この点につき、長谷部氏は国家の権威の正当性は内在的に決定されるものであると結論を下している。
次に人権の限界については、憲法上の人権を2つに分けることで議論を精緻化している。長谷部氏によれば、憲法上の権利は「切り札としての権利」と「公共財の保障としての憲法上の権利」という複合的な性格によるものなのだという。そして前者の「切り札としての権利」とは自律的に生きるために必要となる、多数意思に反してでも必要となる権利を指し、「切り札としての権利」は公共の福祉に基づく国法の権威を覆す「切り札」として機能するのだという。

6章はマスメディアの規制と「切り札としての権利」の更なる検討がなされている。
長谷部氏はテレビへの放送規制について、「切り札としての権利」の考え方を基底に置いた部分的規制論を主張していた。しかしこの理論展開に対して芦部信喜教授は批判的であり、説得力のあるものとして評価しなかったという。長谷部氏はこの点について、「切り札としての権利」をより精緻化することで、芦部氏の人権論と「切り札としての権利」が親和的であるということを主張している。
また立憲主義を基本理念とする近代憲法において、「切り札としての権利」は「リベラルデモクラシー」の実現のためにもベースラインになるべきであるということについて、論が展開されている。

7章では「切り札としての権利」に対する批判と長谷部氏によるその反論が取り上げられている。

8章は「外国人の人権」の議論がなされている。
普遍的に保障されると考えられている人権ではあるが、外国人の場合は在留制度の枠内に限り人権が保障されるものとしている。普遍性を掲げながらも、制限がまかり通っているこうしたパラドックスの解消に対し、長谷部氏は「調整問題」の視点からアプローチすることが可能であると考える。日本人と外国人を分けるものとしての国籍は、普遍的たりうる人権をより実効的に保障する「調整問題」的な制度であり、正当化の根拠として認めることも可能なのだという。

9章では3種類の「国家からの自由」が論じられている。

10章では憲法上の「教育」に関わる議論について、私事性と公共性という2つの視点から論じることができることが説明されている。
教育の目的を社会秩序形成のための市民教育と捉える「共和主義」の立場に立てば、教育に「私事性」は許容されえないことになる。また「共和主義」は政教分離も厳格な分離を求めており、社会と個人の関係も密接なものとなる。
他方で社会の価値や道徳については個人の自律性に委ねるものとする「多元的自由主義」の立場に立てば、政教分離は相対的なものに限り許容される。またバウチャー制度や学校選択の自由、教師の自由と結びつきやすいのだという。

11章は憲法の視点から見た生命倫理について取り上げられている。

12章は議会制民主主義の理解について、シュミット、ケルゼン、宮澤俊義の論が紹介されている。議会制民主主義の評価に関わる議論は、民主主義の決定の正しさを測る基準の有無と、その基準の認識が可能か否かという点で分類することができるのだという。

13章は民主主義における「多数決」の正当化根拠について論じられている。
自己決定、幸福最大化、コンドルセの定理などがあるが、いずれも決定について「正解」があるという前提に立っている。そのため憲法との適合性の問題については、別の慎重な検討が必要なのだという。

一行抜粋…激烈な価値の対立の中から社会全体の利益について理性的に審議し決定する場である公共空間を切り分け、それと裏腹に、各自が選び構想する価値観・世界観に従って自律的に生きる空間を保障することで安定したリベラル・デモクラシーを構築するためには、二つの生活空間を切り分ける主要な境界標識として「切り札としての人権」を保障することが最低限必要になる。(99頁)

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