『ゲンロン0 観光客の哲学』/東浩紀

主題…グローバル化により国家の相対化が進むとされる今日において、私たちは国家や世界に対し、どのような視点から思考し、行動をすればいいのか。東氏によれば、21世紀の主体のあり方を探るヒントは「観光客」にあるのだという。

1章では本書で「観光客」を取り上げる理由や、近代における「観光」の位置付け、本書の構成について説明がなされている。
東氏の認識によれば、従来の観光学研究は「観光」の外部を中心に扱ってきたため、「観光客」そのものが意味するものについて研究が十分に深められていないのだという。その数少ない研究の中でも「観光客」の位置付けについて、近代の文脈から説明することに成功することができているのがアーリとラースンの『観光のまなざし』なのだという。アーリとラースンは近代の「観光」を大衆産業と消費社会化と結びつけて論を展開し、「観光」と「観光客」を近代社会の文脈に位置付けたのだという。
また東氏は「観光」の位置付けについて、トマス・クックの業績にも注目する。実業家であるトマス・クックは「観光」を大衆産業として初めて規格化した人物であり、現代に連綿と続く観光産業の祖なのだという。クックは、産業としての「観光」を成立させるに際して、「観光」における啓蒙や社会改良の側面に著しく期待をかけていたとされている。このことからも、クックの「観光」の興行化は、アーリとラースンの研究を実体化したものであるとも言えるのだという。
そして東氏はこうした「観光客」について着目する理由として、21世紀は莫大な数の「観光客」が観光を楽しむ「観光客の時代」であるという事実に加え、「観光客」があらゆる場面において「偶然的」で「ふまじめ」であるという点を挙げている。こうした特徴を備えた「観光客」の視点から、グローバル化とフラット化が進む社会を本書で分析するものとしている。

2章では、近代の政治哲学や思想史の中から「観光」を論じる意義について論じられている。
東氏は第一にヴォルテールの『カンディード』に「観光」を論じる意義を見出す。ヴォルテールは『カンディード』の中で、ライプニッツの「最善説」を批判したとされている。ヴォルテールは『カンディード』の中で、社会の間違いを正面から認めることを強調し、それが「最善説」の対抗軸になっているのだという。東氏はこの発想の根源に、『カンディード』の中での「観光」の描写に注目する。東氏によれば、『カンディード』の中での「観光」は「想像力」を拡張させるための契機であり、それがあったために「最善説」の批判が可能になったのだという。
次に東氏はイマニュエル・カントの『永遠平和のために』から「観光」の可能性を確認する。カントは『永遠平和のために』で永遠平和を実現するための3つの条項について言及している。東氏は、この第1と第2条項で実現される平和は今日の世界の実態を考えると、限界に突き当たるとする。それは、カントのいう第1、第2条項による平和は、現代の未成熟な国民による「脆弱国家」の存在を想定していないのだという。そこで東氏は第3条項の「訪問権」に読み替えを加えることで、この限界を乗り越えようとする。東氏によれば、カントの「第1補説」に鑑みると、「訪問権」を商業的な「観光」と読み替えて解釈することも可能なのだという。ここに「観光」の意義、可能性が確認できるということである。
そして東氏は、カール・シュミット、ハンナ・アレント、アレクサンドル・コジェーブの思想を踏まえ、「観光客」的な振る舞いがもたらす可能性を論じる。
シュミットはヘーゲルの国家観を引き、友と敵を分断する国家のあり方を主張した。そのためシュミットは、こうした国家の認識に基づかない自由主義者の発想を批判の対象とした。同じくヘーゲルの影響下にあるコジェーブは、現代の認識として承認や闘争、歴史性が損なわれた時代であるとした。コジェーブはこうした発想から、即時的な消費を謳歌する動物的な人間のあり方を批判対象とした。そしてアレントは、公的領域における活動に価値を見出し、労働や消費に駆られる生き方を批判した。
東氏はこの3者の共通点は、「国家」を相対化するグローバル化の流れ、および経済的利益の追求を糾弾しようとしている点にあると指摘している。しかし東氏は、この3者の発想はグローバル化が極度に進んだ21世紀では、その説得力に限界があるとしている。そこで、政治や経済、国家や世界に往復的に存在する「観光客」に注目する視点が重要であると主張するのである。

3章は現代の社会に対する認識とそれに対応する分析の視座について検討がなされる。
東氏によれば、現代は「2層構造の時代」なのだという。現代は「ナショナル」や「国家」などの政治的機能を担う「上半身」の部分が国家間で分離しているにもかかわらず、「市場」や「経済」など私的利益や情報により動く「下半身」が接続しているという状態にある。こうした「2層構造」が現代を表す状態であり、ナショナルかグローバルかというのは決定的に分けるのは困難なのだという。
この「2層構造」はネグリ・ハートが『帝国』の中で展開した、「国民国家」と「帝国」の関係と親和的なのだという。そのため、ネグリ・ハートが『帝国』の中で扱った、政治主体としての「マルチチュード」が現代の主体を探る上で有効となるが、東氏はこの点について慎重な姿勢をとる。というのも東氏によれば、ネグリ・ハートの「マルチチュード」論は「否定神学」的であるために、具体的な結論を示すことができていないのだという。そのため、東氏は「マルチチュード」の再編成が必要であるとしている。

4章ではこれまでの議論と近年のネットワーク理論を踏まえ、新たなる主体としての「郵便的マルチチュード」の可能性を模索する。
新しいネットワーク理論は「大きなクラスター係数」と「小さな平均距離」を特徴としたものを提示しているのだという。そしてネットワーク理論は「スモールワールド」「フリースケール」と関係性のあり方を展開させていく。
そして東氏は「スモールワールド」が形成される際の「つなぎかえ」すなわち「誤配」に注目する。東氏によれば21世紀の主体とは、コミュニケーションの「誤配」を通して、連帯を事後的に自覚する「郵便的連帯」を基調に置く「郵便的マルチチュード」すなわち「観光客」なのだという。「誤配」を演じ直すことで、国民国家と帝国の間で抵抗を行うのが21世紀的な主体の姿なのだという。

5章は「観光客」が連帯の拠り所とする存在としての「家族」について論じられている。
東氏は、「家族」について論じるにあたり、情緒的、家父長的な「家族」の価値を追求する論との相違を明確にする。その上で、「家族」の「強制性」「偶然性」「拡張性」という特質について言及する。東氏によれば、「家族」は合理的思考とは交わらない「情愛」の関わりが大きい空間なのだという。

6章ではサイバースペースの「不気味なもの」としての性質が論じられている。

7章はドストエフスキーの『地下室の手記」をもとに、本書の理論との関わりについて説明されている。

一行抜粋…ひとが誰かと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。けれどもあとから振り返ると、なにか連帯らしきものがあったかのような気もしてくる。そしてその錯覚が次の連帯の(失敗の)試みを後押しする。それが、僕が考える観光客=郵便的マルチチュードの連帯の姿である。(159頁)

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