原武史『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波書店、2019年)

主題…平成という一つの時代が終わった。平成時代において、天皇昭仁と皇后美智子はどのように平成の天皇のあり方を築いていったのか。天皇の「おことば」や地方を訪問する行幸啓の分析を通して、「平成」の天皇の姿を明らかにする。

1章では、昭仁上皇による「おことば」を踏まえた上で、退位や象徴としての務めについて議論がなされている。
天皇の自主的な退位は飛鳥時代から江戸時代にかけては決して珍しいことではないという。そして、原氏によれば、昭仁上皇は式年祭の際に歴代天皇の退位について講義を受けていたことから、生前の退位が珍しいことではないという事実を知っていた可能性が高いのだという。
原氏は、「おことば」の注目すべき点として、天皇の「象徴としての務め」に言及している点を挙げる。天皇は「おことば」の中で、「務め」として、「宮中祭祀」と「行幸」を挙げている。このように「務め」のあり方が明示された点が特徴的なのだという。
その中でも原氏は、「行幸」のあり方に着目する。上皇・上皇后は、皇太子・皇太子妃時代から「行幸」のあり方を模索し、実践してきたのだという。原氏によれば、かつての行幸とは異なり、上皇・上皇后の行幸啓は、抽象的な臣民ではなく、一人一人の顔が見える国民に語りかける形でなされてきた点がかつてと異なるのだという。
しかし、「おことば」には問題点もあるとされている。政治的権限が否定されているにもかかわらず、「退位」についての政策決定の主体となりえてしまった点などが問題として挙げられている。

2章では、昭和時代に皇太子・皇太子妃だった際の「行啓」に焦点を当てることで、そこに「平成流」の胚胎を見出している。
上皇・上皇后が皇太子・皇太子妃だった頃から「平成流」に通じる行啓のあり方が模索されていたと原氏は指摘する。大正・昭和天皇の時代とは異なり、国民一人一人の顔が見れるような形での行幸がなされていたのだという。とりわけ原氏は、市民と顔を合わせる際の状況に注目する。原氏によれば、皇太子・皇太子妃は、地元の有力者だけではなく、無名の若者との同じ姿勢での対話を1970年代まで実践していたのだという。70年後半以降、無名の若者との対話はなされなくなったものの、「懇談」という形で国民と同じ姿勢を保つ距離のとり方は実践されてきたのだという。

3章では、平成時代に入り、平成流の天皇としてのあり方がいかに確立されたか述べられている。
平成に入ると、天皇としての行幸啓の回数も増え、国民と対面する機会が増えたとされる。そして、60年代から行われてきた国民目線で膝を突きながら対話をする形は、震災の際の被災地訪問の場面でも行われ、昭和時代に胚胎した天皇のあり方が徐々に確立していったとされている。
3章後半では、現天皇の皇太子・皇太子妃時代の行啓や、天皇のモデルについて説明がなされている。

4章ではポスト平成時代における天皇・継承・祭祀・退位のあり方について議論がなされている。

一行抜粋…皇太子夫妻が懇談会で見ていたのは、抽象的な「国民」や「みんな」ではなく、顔の見える一人ひとりの個人でした。地元の有力者でない、無名の青年たちとの度重なる懇談会を通して、昭仁と美智子は東京と地方の格差、地方ごとの気候や風土の違い、東京と地方の青年の生き方の違いなどを実感していったのです(100頁)。

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