『リトル・ピープルの時代』/宇野常寛

主題…社会や世界を捉えるための「想像力」を文学作品は提示してきた。村上春樹は特にその一人とされており、彼はそうした「想像力」を時代に合わせて更新してきた。しかし現代の社会や世界は、とてつもなく大きいものに覆われており、その巨大さに合わせた新たな「想像力」が必要となる。宇野氏によれば、その「想像力」は日本のポップカルチャー、特に「リトル・ピープル」としての「仮面ライダー」が提示してくれているのだという。

序章では本書の主題となる、村上春樹の「物語的想像力」について説明がなされている。
東日本大震災が2011年3月11日に起こり、私たちはその時にとてつもなく大きいものに対峙せざるを得なくなった。そのため、私たちはそうしたとてつもなく大きいものに対する「想像力」を持たなければならない。また、それだけではなく私たちは常日頃から、グローバル資本主義の巨大さに対しても想像力を働かせる必要がある。宇野氏によれば、現代の日本人にはそうした「大きなもの」を捉える「想像力」が必要であり、今の私たちにはそうした「想像力」が欠如している状態にあるという。
しかしこうした状況を早く察知し、「大きなもの」に対する「想像力」を更新し続けてきた日本人作家が一人いる。それが「村上春樹」であるという。村上春樹はその文学の中で、時代状況に合わせた「物語的想像力」の展開を行なってきた。村上春樹こそが日本人の「想像力」の在り方を示し続けたのだという。
村上春樹の80年代ごろまでの特徴は「デタッチメント」にあるとされる。一個人としての「」が巨大なシステムとしての「」と向き合う時、その「卵」さえも残酷な形で「壁」に加担しているという共犯関係を村上春樹は作品の中で提示し、作品の中の主人公はその共犯関係から「デタッチメント」するという作風がとられていたという。そこで「壁」は悪の体現としての「ビッグ・ブラザー」として描かれており、「デタッチメント」の時代の作品は「ビッグ・ブラザー」との距離感をもとに描かれているという。
宇野氏は、95年以降の村上春樹の作品は「想像力」の転換を示すために、「卵」と「壁」の関係性を異なるものとしたと指摘する。宇野氏によれば、とりわけ『1Q84』では、「卵」と「壁」は共犯関係にあるのではなく、それらは明確に分離することができるとした上で、主人公が悪との対面に「コミットメント」するようになったという。また「悪」の描き方については、外部から圧倒的な存在感を示す「ビッグ・ブラザー」ではなく、社会のあらゆる内部から湧き上がってくる「リトル・ピープル」として描かれるようになったと宇野氏は述べている。
宇野氏はこうした村上春樹の「想像力」の提示の転換について、現代の「大きいもの」を捉えるための「想像力」としては不十分であり、失敗していると指摘したうえで、本書の議論を展開するものとしている。

1章では1960年代から『1Q84』に至るまでの村上春樹の作品における「想像力」とその限界について取り上げられている。
第一に『1Q84』という作品の特色を説明するところから議論が始められている。『1Q84』は村上春樹作品の中でも、きわめて読みやすい、わかりやすい書き方になっていると宇野氏は指摘する。その理由は、21世紀の「卵」と「壁」の関係にあると宇野氏は述べる。村上春樹の見方によれば、対峙する「壁」による「精神的囲い込み」から「卵」を守ることが21世紀の課題であると考えている。そのため、「精神的囲い込み」に抗する抗体が世間に散布されなければいけなくなる。こうした意識の下で『1Q84』が描かれたのと同時に、『1Q84』自体が抗体なのであり、それを効果的に機能させるためにもわかりやすくある必要があったのだという。
次に1960年代から現代に至るまでの村上春樹の「想像力」について順を追って説明している。
村上春樹がデビューした当時はまさしく「政治の季節」であった。この当時は政治的な二項対立が明確であったころであり、悪としての「ビッグ・ブラザー」が存在していた。上述したように、このころの村上春樹の作品はこうした二項対立から「デタッチメント」して、登場人物は「やれやれ」と口々に言っている。
そして『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、「デタッチメント」の姿勢はさらに強まり、本書で村上春樹はナルシシズムの記述法としての「世界の終わり」と、悪の設定方法としての「ハードボイルドワンダーランド」という2つのテーマを掲げるようになったという。
「ビッグ・ブラザー」との共犯関係から「デタッチメント」するという貫かれてきた姿勢が展開するのが、95年以降に出された『ねじまき鳥クロニクル』であると宇野氏は指摘する。村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』では「リトル・ピープル」という新たなる悪に目を向けられている。また宇野氏によれば、ねじまき鳥以降の作品では「性暴力的構造」が「コミットメント」を成り立たせるものとして機能しており、この構造は2000年代以降も貫かれることになるという。
こうした経過を辿り、『1Q84』では無数にうごめく「リトル・ピープル」との対峙とそれへの積極的な「コミットメント」が中心に据えられているという。宇野氏は『1Q84』での村上春樹の想像力の問題点は、「性暴力的構造」を維持している点にあるとしている。本作ではこの「暴力性」がグロテスクな形で発露しており、ねじまき鳥以降の村上春樹の意図を薄めるものであったという。
宇野氏は「リトル・ピープルの時代」における村上春樹の「父であること」の記述法自体に問題があるという。「リトル・ピープルの時代」では、誰もが膨大な量の情報や技術に囲まれ、無意識の行動のうちに何かにコミットしてしまっている。こうした状況を考えると、村上春樹の提示には限界があるのだという。

2章では村上春樹の提示した「想像力」の限界を代補するものとして、日本のヒーロー系ポップカルチャーの可能性について論じられている。
村上春樹が60年代以降に提示したモデルと並行する形で、日本のヒーローは変化してきたとされる。戦隊ヒーローの雛形とも言える「ウルトラマン」は、ストーリー自体が「政治性」に裏付けられており、巨悪を退治するために超越的な正義を行使するという形がとられていた。こうした「ウルトラマン」は「ビッグ・ブラザー」の存在が可能であったということを意味しているという。
しかし時代の流れに合わせ、「ビッグ・ブラザーの壊死」が進んでいくと、新たなるヒーローが登場することになる。それが「リトル・ピープル」としての「仮面ライダー」である。「仮面ライダー」はその大きさから背景に至るまで、「ウルトラマン」とは対照的に「リトル・ピープル」だったのだという。
また95年の「エヴァンゲリオン」は「ビッグ・ブラザー」を延命する機能があったと宇野氏は指摘する。そして2000年代に入ることで、延命は完全に終わり、真の「リトル・ピープルの時代」に突入するのだという。

次に2000年代以降の「リトル・ピープル」としての「仮面ライダー」の記述方法を探求する。
仮面ライダーアギト」「龍騎」「555」では、登場人物は複数の「リトル・ピープル」として現れ、自己の内部に「徹底的に内在化することで超越となる」という記述がなされているという。「アギト」では超越と非超越の対立でストーリーが展開され、自らの精神的痕跡に苦しむ超越に対して、非超越は自己の内面的な生活に潜り込むことで超越となっていたという。「龍騎」は「正義の複数性」が中心的に取り上げられており、誰もが正義の主体となりうるという時代性を記述していたと宇野氏は述べている。
電王」では、キャラクターの「複数性」に着目されており、入れ替え可能な時代という点に焦点があてられているという。
宇野氏は「ディケイド」と「W」の対概念的な構造に着目し、その構図と村上春樹の想像力の限界の乗り越えの可能性を主張している。「W」と「ディケイド」は対になるストーリーを展開しながらも、「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の統合を成し遂げているのだという。

3章では「リトル・ピープルの時代」における「キャラクターの身体性」について議論が展開されている。

一行抜粋…私たちは誰もが、老いも若きも男も女も、ただそこに存在しているだけで決定者、すなわち小さな「父」として不可避に「機能してしまう」。貨幣と情報を通じて自動的に世界にコミットしてしまうのだ。リトル・ピープルの時代を生きる私たちには、生まれ落ちたその瞬間から小さな「父」なのだ。

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