『教養としての<まんが・アニメ>』/大塚英志、ササキバラ・ゴウ


主題…日本のまんがやアニメは海外からも高い評価を受けており、一つの文化として確立している。そうしたまんがやアニメは、日本の戦後の社会の進展とともに成長してきたことになるが、まんがやアニメは戦後の日本社会に何を訴えかけ、そして読み手は何を受け取ってきたのか。戦後のまんが・アニメの展開を「教養」として紐解くことで、まんが・アニメが何に向き合ってきたかを考察する。

1章では戦後まんが史の原点になったとされる手塚治虫の作品の位置づけについて論じられている。
 本書で扱われる戦後まんがの原点には、手塚治虫作品があるとされる。そして大塚氏によれば、手塚治虫は、日本の戦後まんが史に通底して共有された命題を提示していたのだという。手塚治虫は、自らの作品を「記号的」であることを自覚しており、作品における「写実」とは距離がとられていたという。しかし大塚氏は手塚治虫による『勝利の日まで』という作品に着目し、手塚治虫が「記号的」な手法を用いながらも、人間の「」を写実的に描いていたという点を指摘する。手塚治虫は、まんがによる「記号的」手法で死ぬ身体を描いたのだという。
 また、大塚氏は手塚治虫が戦後まんが史に残した一つの命題として、「成熟の困難」を挙げている。手塚治虫は鉄腕アトムの中でこの「成熟の困難」に触れており、日本社会が抱えたこの問題を提示していたのだという。大塚氏はこの問題を「アトムの命題」と呼び、戦後まんが史が取り組んできたテーマであったと主張している。

2章では梶原一騎による手塚治虫の主題の継承について論じられている。
 『巨人の星』や『あしたのジョー』の作者、原案者である梶原一騎は、手塚治虫が提示した「アトムの命題」を作品の中で継承していたと大塚氏は指摘する。父一徹により成長を強いられ、破滅の道へ進むことになる『巨人の星』のシナリオや、成長に抗い、信念を貫いた『あしたのジョー』のシナリオは、手塚治虫の「アトムの命題」の同一線上にあるのだという。

3章は、萩尾望都ら24年組による表現の開拓について論じられている。
 1970年代初期から少女漫画の台頭を切り開いた24年組と呼ばれる女性漫画家たちは、少女漫画の中でまんがの新たな表現技法を開拓したとされている。萩尾望都の作品などは、吹き出しの外にセリフを挿入することで、登場人物の「内面」を描くことを可能にしていたという。こうした「<内面の発見>」は、心の葛藤の狭間で苦しむ登場人物を鮮明に描くという表現を定着させていったと大塚氏は指摘する。そして萩尾望都は、この技法を洗練化させ、女性の「」を描くことを精緻化させていたという。

4章では、吾妻ひでおによる「おたく」表現の確立について取り上げられている。
 大塚氏は、吾妻ひでおが手塚治虫的な「記号的」表現を用いて、「」を表現したことに着目する。この「記号的」表現による「性」の描写は、おたく表現の出発点であり、「記号的」な表現の新たな可能性を拓いたとされる。他方で吾妻ひでおが、「記号的」な「性」との結びつきの不可能性にも触れていたことに大塚氏は着目している。

5章では24年組の後継者ともされる岡崎京子のまんがと80年代消費社会の姿について論じられている。
 大塚氏は、岡崎京子は「アトム命題」と正面から向き合いながらも、「80年代消費社会」の中で生きる人間を精緻に描いた漫画家であると評価している。岡崎京子は、『pink』の中で、80年代消費社会における記号に戯れる登場人物が「死」や痛みから目を背ける様子を描いたという。それは消費社会における「成熟の困難さ」の問題に共振しており、岡崎京子は確かに手塚治虫が投げかけた主題に向き合っていたと大塚氏は述べている。

6章は、アニメブームの展開と宮崎駿・高畑勲作品の位置づけについて論じられている。

7章では、出崎統による表現の特徴について論じられている。
 出崎統はアニメ版の『あしたのジョー』の製作を担当していた。ササキバラ氏によれば、出崎統の『あしたのジョー』は、その「ドラマ性」に最大の特徴があり、視聴者からの高い支持を得たのだという。出崎統の『あしたのジョー』は静止画を用いた登場人物の「主観」を描く表現技法や、登場人物同士の関係性を巧妙に配置するなどにより、「ドラマ性」を際立たせていたとササキバラ氏は述べている。

8章はガンダムシリーズの生みの親である冨野由悠季作品のスタイルについて論じられている。
 富野由悠季の初期の監督作品に『海のトリトン』がある。ササキバラ氏によれば、この『海のトリトン』の最終回は、正義・善と悪といった従来のアニメにおける構図を相対化するように描かれていたという。更に富野由悠季が監督した『ザンボット3』というロボットアニメは、従来のロボットアニメのお約束を全て拒否し、希望を与え続けてきた従来のロボットアニメに対する強烈なアンチテーゼを突き付けたという。こうした富野の作風は、大人がつくった社会に対する懐疑心や、その世界の中での無力感を描くものであり、「思春期」的なメンタリティが強いとササキバラ氏は主張している。

9章ではガイナックス、10章では石ノ森章太郎の作品について考察がなされている。

一行抜粋…だから戦後まんが史がその始まりの前から「記号的身体」と「生身の身体」の狭間でナショナリズムとは違う形での「アトムの命題」にまつわる解答をずっと模索し続けていたことははっきりと主張しようと思います。その思考錯誤の過程を追いかけ、そして共有することこそが高度情報化社会を生きる僕たちの「教養」であり、そしてその一点のみにおいてならぼくはサブカルチャーでしかないまんがやアニメが「教養」であると宣言しても一向に構わないとさえ思うのです。胸を張って。(131頁)

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