『ケインズとハイエク 貨幣と市場への問い』/松原隆一郎

主題…20世紀の経済学におけるビッグネームである「ケインズ」と「ハイエク」2人は20世紀の経済学を対立する立場から先導してきた。2人の経済理論・経済思想はどのように論じられ、展開されてきたのか。対立軸と背景を辿り、2人の議論に迫る。

1章ではケインズとハイエクの2人の生涯について取り上げられている。2人は互いに論戦を張りながらも、評価を重ねてきていたという。

2章はケインズとハイエクの主要著書の中での議論の紹介がなされている。
ケインズの『貨幣改革論』では、物価水準の安定を図るためにも、当時イギリスが採用していた「金本位体制」を廃止するべきであると主張している。
ハイエクの『貨幣理論と景気循環』では、「景気循環」を達成するメカニズムについて記述されている。ハイエクによれば、「景気循環」は市場に流通する通貨による「信用創造」が果たす役割が多いという。このハイエクの理論は市場における通貨量を銀行間における「創造」に任せるものであり、管理通貨制度を評価していたケインズとこの当時から対照的であったという。
また、ケインズの『貨幣論』では物価水準の安定を図るために中央銀行が行うべき政策について論じられている。ケインズによれば、物価水準の安定は「市場利子率」を「自然利子率」に近づけなければならないため、中央銀行は「市場利子率」を「自然利子率」に近づける政策をとらなければならないとしている。
中央銀行の政策により物価水準の安定を図ることができると考えるケインズに対し、ハイエクはこうした見方を退ける。ハイエクは『価格と生産』の中で、景気変動のシステムを取り上げ、物価水準の安定に影響を与える要素を浮き彫りにしている。ハイエクは、「本源的生産手段」から「消費生産量」までの商品がつくられる過程が長いほど景気が回復すると考えた。こうした「迂回生産」による考え方は、景気変動を左右する「相対価格」という要素に注目したものであり、その「相対価格」は中央銀行の政策のみならず、信用創造などによっても影響が与えられるのだという。

3章はケインズが執筆した『貨幣論』の書評をめぐり、ハイエクとケインズがなした論争について取り上げられている。
ハイエクはケインズの『貨幣論』に対し、ケインズが捉える資本の循環性は
時間の流れ」と矛盾しているということを指摘する。しかしケインズはハイエクの一連の批判をほとんど相手にせず、門前払いしたという。

4章は書評論争以後のケインズとハイエクの議論の展開について取り上げられている。
松原氏はケインズは『貨幣論』から『雇用利子及び貨幣の一般理論』までの間で、作風が大きく変わったという点を指摘する。ケインズはこの時期に、確実性を唱える経済学のあり方に不満を抱いており、徹底的に「不確実性」を重視する傾向へと向かっていったのだという。
そうした前提のまた著された『一般理論』は、古典派が唱えた非自発的失業のメカニズムを論駁することを目的としていた。古典派は失業率は賃金の高低によって定まると主張し、失業率の上昇は賃金の低下を如実に表していると考えた。これに対してケインズは、非自発的失業の増減は賃金によってのみ決められるものではなく、「有効需要」が大きな影響を与えていると考えた。ケインズは、人々が投資や消費を抑制するのは、人々が将来に対して明るい展望を抱いない時であると考える。そうした時は「有効需要」が低下するために、結果として非自発的失業の増加へと繋がるのだという。これをケインズは「流動性の罠」と呼び、古典派の理論に代替するものとして評価された。
他方でハイエクは「設計主義」に対する批判を理論の中心に据えた研究に取り組むようになった。ハイエクは市場には「「時と場」により商品の属性を変える機能」と「商品を分類する機能」があることに着目し、市場における機能は「自生的」に形成されることを力説した。そしてこうした性質がある市場に対して、中央政府が人為的に政策により介入することは市場の機能を歪めるとして、「設計主義」の考え方を正面から否定している。
ここではケインズとハイエクの信念の共通点について言及されている。あらゆる側面で論戦を張っていたケインズとハイエクであったが、2人には共通している姿勢があったとされる。それは「計量的経済学の否定」である。ケインズとハイエクは2人とも、方程式的に答えを出そうとするマクロ経済学や計量分析に基づく経済学を徹底的に糾弾している。

5章は社会思想家としてのハイエクの「自由論」について取り上げられている。
ハイエクは市場が個人的自由によって形成されるということを主張しただけではなく、規範的な社会のあり方についても自由の視点から論を展開している。ハイエクは、人々には無意識的・潜在的に従っている規範があり、そうした「感覚秩序」と呼ばれるものが人を統制するという前提の下、そうした「感覚秩序」を意識化されたものが「慣習法」であり、それが人々の自由を保障すると考える。「慣習法」になるためには「裁判」を経る必要があり、ハイエクは「裁判」を通して「発見された法」こそが自由な社会を形成すると主張する。
ハイエクは大きな政府の状態で「設計的合理主義」に基づいた統制を行うことに批判的であり、「自生的秩序」の均衡がとれた状態が最善であると考えている。

6章は通貨機構についての2人の論争について取り上げられている。
ケインズは資本の国外流出を問題視した。そしてケインズは資本の国外流出を防ぐためにも、「国家的支給」が必要であると考えた。この発想を明らかにした「国家的支給」というケインズの論文は、『一般理論』が国際経済的側面を捨象していたことから、それを補うものとして働いていると松原氏は指摘している。

7章は後期ハイエクの議論において「分類」と「複雑性」がキーコンセプトになっていたということについて論じられている。

8章はケインズとハイエクの「保守主義」との距離のとり方について述べられている。

一行抜粋…ただし彼らの思想は不思議なほど対立したし、ときには関係の修復が不可能かと思われるほど激しい論争を交わした。けれどもその照準は的確であり、現代にも適用するものであった。

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