『政治的なものの概念』/カール・シュミット(田中浩・原田武雄訳)
主題…政治を政治たらしめている「政治的なもの」とは何か。シュミットによればそれは「友と敵の区別」なのだという。「友と敵の区別」としての政治という視点に基づき、国家と社会の関係や政治の本質について論じる。
シュミットは「政治的なもの」の定義が積極的になされてこなかったことに着目する。時として「政治的なもの」は「国家的なもの」と並べられるが、この並置では「国家的なもの」を「政治的なもの」と定義することも可能になり、循環論法に陥るという。また、法や行政の実務において用いられる際の「政治」の定義については、定義が限定的であり、一般的な定義として評価しえないのだという。
「政治的なもの」を明確化するにあたり、シュミットはあらゆる物事における「特有の標識」の存在があることを指摘する。あらゆる物事について突き詰めて考察を深めていくと、そのもの特有の区別に突き当たるのだという。例えば、美術の場合は美と醜という区別、道徳の場合は善と悪という区別、経済の場合は利と損という区別が標識として存在することになる。
この観点からシュミットは、「政治的なもの」の標識は「友と敵の区別」にあるのだと主張する。政治的な行動や選択の原因になるものと辿っていくと、この「友と敵の区別」に帰着するということをシュミットは述べている。
シュミットによればここでいう「敵」とは、「他者・異質者」であり、友と敵という区別は、道徳における善と悪や利と害などと結びつくものではなく、相対的に独立した区別なのだという。
またシュミットによれば、「友・敵概念」における「敵」とは、主観的・私的な感情に基づく対立相手ではなく、「現実的・存在論的」な対立相手を指すものとしている。ただ反感を抱き、憎んでいる相手は「敵」とは言えず、「政治的なもの」としての「敵」とは「現実可能性として、抗争している人間の総体」を指すのだという。
そしてこの「敵」との「現実的可能性」を備えた闘争として、現実に起こるのが「戦争」であるという。シュミットによれば、「戦争」という事態は「例外的に生じる」ものであり、その例外としての特徴が政治的なるものとしての友と敵の区別を極限化するのだという。
シュミットはラスキをはじめとする「多元的国家論」の批判を展開する。
多元的国家論者は、国家を一つの政治体として捉え、他の社会的団体と並置させる。しかしシュミットによれば、こうした多元的国家論者の議論は、「政治的なもの」の定義を積極的にしておらず、政治的単位とはいかなるものかについて明確にされていないのだという。そのため、多元的国家論者の間でも社会的単位や政治的単位についての理解に差異が生じているという。
国家間での友と敵の区別が現れる「戦争」において、その根拠となるのはその国家に帰属する「交戦権」にあるとシュミットは述べる。「交戦権」は国家間の関係において誰が敵であり、誰が友であるかを判別し、それを行使することで「戦争」が行われる。
また国家は対外的な「交戦権」のみならず、対内的な「内敵宣言の権能」をも有している。「内敵宣言の権能」が行使されることで、国家の内部の社会における敵と判定される。そしてその敵に対する生殺与奪を決定することもできるのだという。こうした国家の機能から、シュミットは社会に対する国家の優位性を指摘している。
終盤でシュミットは自由主義的思考の問題点について論じている。
シュミットによれば自由主義的思考は、自由の価値を尊重し経済や倫理を中心に論じることで、国家や政治による機能を暴力とみなす側面があった。
しかしシュミットは、国家と距離をとり非政治的なものを追求したとしても、非政治的世界に到達することは決してないと考える。経済的対立も終局的には「政治的なもの」へと帰結するということは運命的なのだという。
一行抜粋…人々が、あらゆる美的ないし経済的な生産性を断念することによって、世界を、たとえば純道徳性の状態に移行させうるなどということは、誰一人可能だとは思うまい。しかし、はるかにそれ以上に、一国民が、あらゆる政治的決定を放棄することによって、人類の純道徳的ないし純経済的な状態を招来することなどはありえないのである。一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないしは意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、意気地のない一国民が消え失せるだけに過ぎないのである。(61頁)
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