『迷走する民主主義』/森政稔

主題…民主主義は政治における価値ないしは原理の一つである。しかしその定義は多様であり、その評価は時代によって大きく異なっている。特にここ四半世紀の間は、民主主義は迷走とも言える変容を遂げてきた。その変容の過程を辿り、民主主義についての考察を深める。

1章は「民主主義の終焉」と「民主主義の過剰」をめぐる反する2つの言説について論じられている。
「民主主義の終焉」とは、政治的平等や政治参加の実現を念頭に置いた民主主義の瓦解を問題視する言説を指している。この言説は主に社会民主主義の立場から採用され、「民主主義の終焉」言説は、過度な資本主義の成長や市場原理による不平等の拡大が、民主主義の前提となる政治的平等を解体したということを批判する。とりわけ「民主主義の終焉」言説が批判するのは、1980年代頃から隆盛した「新自由主義」である。「新自由主義」の台頭により、雇用形態の変容に加え、人々の思考の前提となる価値観を部分的に変容させていったと「民主主義の終焉」言説は考えるのである。
他方で「民主主義の過剰」言説は、民主主義の乏しさではなく、民主主義の価値が過剰に評価されることによる弊害を批判する。この言説は、私的利益の追求に関心を寄せる大衆が民主主義の名の下に決定権を行使することを主に批判対象とする。こうした批判は民主主義の歴史の中で古くからなされてきたものであり、私的利益を求める大衆ではなく、徳に基づく公的な善の追求を理想とする共和主義の回帰を主張する論に結びつきやすいとされている。
森氏は両者を説明した上で、共通点と相違点に言及している。森氏によれば、両者は資本主義の過度な成長や私的利益の追求を問題視する点は共通しているが、「平等」の捉え方には相違があるのだという。

2章では政治における対立軸の多様さについて述べられている。
政治の対立軸として保守とリベラルが一般的であるが、その定義は複雑なものとされている。その理由は、アメリカとヨーロッパにおける保守とリベラルの捉え方に違いがあるからである。また、政治哲学におけるリベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムといった軸についても、現実政治における保守とリベラルとは完全には一致しないのだという。

3章はリーマンショック後の政治の変容について論じられている。
2008年のリーマンショックは各国にこれまでの新自由主義的な政策の限界を知らしめるものであり、政治の方向性を揺るがすものであったという。2009年のオバマ政権の確立や日本での民主党への政権交代はその流れの中に位置付けられると森氏は指摘している。
またリーマンショックは金融のグローバル化の帰結を明らかにしたものだったという。リーマンショック後のグローバル金融市場の動揺は、一国の金融政策によって統制できるものではもはやなくなっていることを示していたという。
森氏はこうしたリーマンショックの影響は、政治における「独裁的なリーダーシップ」の要請の流れに結びついたと主張する。政府によるグローバル化の統制の困難さが明らかになると、他国に排外的な態度を示すことで大衆の支持の獲得を試みる指導者が台頭したのだという。こうしたポピュリズム的な戦略をとる指導者は、リーマンショック後の大衆の閉塞感を汲み取ることで、独裁的なリーダーシップの定着を図ったと森氏は主張している。

4章は55年体制から2009年の民主党への政権交代までの日本政治の流れについて説明がなされている。冷戦終焉や小泉政権の確立などが契機となり、日本政治は変容してきたということが述べられている。

5章では政権交代がなされた時の政治に対する人々の展望などが紹介されている。
2008年のリーマンショックにより、従来の新自由主義的な政策に批判が寄せられるようになった。そして自民党による経済政策への失望とオルタナティブとしての民主党への期待が向けられるようになり、2009年に政権交代が実現することとなった。この当時は民主党の経済政策への期待に加え、「政治主導」のスタイルへの期待も相まっていたと森氏は指摘する。政権交代以前の自民党の決められない政治への決別という側面が政権交代にはあったという。

6章は政権交代後の民主党の失敗について、「政策」と「権力」という見地から考察を深めている。森氏によれば、民主党の失敗は「政策」と「権力」の接合性の悪さが根幹にあるのだという。
まず「政策」の点から民主党の失敗について分析がなされている。森氏によれば、「政策」における民主党の失敗は、第1に「生活」を支える関係性への想像力が欠如していた点を挙げている。民主党による高速道路無料化政策の失敗や弊害はまさにこれにあたるのだという。第2に経済リスクに備えた介入の際の配慮の欠如を森氏は指摘している。これ以外にも、民主党の「政策」はマイノリティ政策などにも失敗の側面が確認できるのだという。
加えて「権力」の側面についても検討がなされている。民主党による首相主導や党主導には、却って政治主導を瓦解してしまうという傾向性があったと森氏は指摘している。

7章では政治思想が扱ってきた「<政治的なもの>」として、「決定」「熟議」「調整」「統治の合理性」「公と私の区別と分離」「参加と抵抗」に焦点を当てて民主主義の分析がなされている。

8章は1960・70年代以降の潮流としての「ポスト物質主義」を中心に、現代の政治の変容について論じられている。
60・70年代以降に浸透した「ポスト物質主義」とは、財などの物質を希求する価値観とは異なり、生活の質や環境などの非物質的な価値を追求する考え方を指す。経済成長の結果、環境破壊が問題視されると同時に、非物質的な価値を主張する社会運動なども見られるようになることで、「ポスト物質主義」の時代が訪れたとされている。
森氏はこの「ポスト物質主義」の限界に着目する。森氏によれば、「ポスト物質主義」的な言説が人口に膾炙したことで、企業側が「ポスト物質主義」的な価値観をマーケティングや広告に用いるようになり、却って消費を煽る物質主義に回帰する傾向があったのだという。消費社会を批判する「ポスト物質主義」的なフレ=ずが、むしろ消費中心の産業やビジネスの温床になってしまったということである。

9章は民主主義と「」の関係について論じられている。
政治と「知」は分かち難い関係にあるとされており、「専門知」や「政治学としての知」、「政治哲学的な知」など、政治と「知」は密接に結びついているのだという。しかし冷戦期には政治は実務のための学としてのみ認識されており、市民が政治を学ぶものとして理解するようになるのは冷戦期以降なのだという。
そして新自由主義が台頭することで、新たな知と政治の結びつきが確認できると森氏は指摘している。それは「ガヴァナンス」のための知であるという。新自由主義により、公的なアクターが社会的領域から撤退し、民間レベルでのガヴァナンスが要請されることで、「説明責任」のための政治的な知の必要性が認識されるようになったのだという。
森氏はこうした現実を踏まえ、市民レベルでの知としての「実践知」の必要性を主張している。この複雑な社会において民主主義を機能させるためには、市民レベルでの「実践知」の涵養が求められるのだという。

10章では、グローバル化が進む社会における「有限性」の認識について論が展開されている。

一行抜粋…人間の社会もまた、ある意味では自然界に似て、通常は意識しないものも含めて数限りない相互依存関係からできあがっている。その巨大でしかし有限な人間社会が、さまざまな不幸や不正義を含みながらも、なお社会として成り立っていることの方が奇跡と呼ばれるべきかもしれない。生態学的世界と同様、人間の相互依存する社会も、壊れやすいものである。それらを何とか守っていき、そして将来世代に手渡していくということは、何もせずにたんに保守するということにはとどまらず、必要な作為を加えることを要請している。今の民主主義はいろいろな意味で先が見通せなくなっているが、長期的にはそういう営みとしての民主主義の意味を見失わないようにしたいと思う。(338頁)

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