『不平等を考える 政治理論入門』/齋藤純一

主題…経済的「不平等」の問題は、生活資源の乏しさを問題視する格差問題として取り上げられることが多い。しかし「不平等」は人々の生活の側面に影響を与えるだけではなく、市民としての「政治的自由」にも影響を及ぼしている。格差が問題視される現代において、平等な市民として政治に参加する「デモクラシー」のあり方や制度について考察する。

第1部では、市民間の社会的経済的不平等が政治的平等に与える否定的な影響について取り上げられている。
齋藤氏は本書では社会的経済的不平等のうち、「値しない不利」に着目するものとしている。「制度」を共有する「市民」の間に「値しない不利」による不平等が生じた場合、そうした不平等は「制度」によって是正されなければならない。
しかし今日の日本は、そうした「制度」が市民間の不平等を是正するように機能していないと齋藤氏は指摘する。「制度」が経済的不平等を是正することが出来ず、「市民としての平等な立場」を保障することができなくなることで、市民の政治的自由が損なわれているというのが現状なのだという。
また「制度」は不平等の是正に失敗しているだけではなく、制度自体が「自尊の欠如」につながるという事態も現れている。そして近年、経済成長の行き詰まりに加え、国民の「クライアント意識」が相まって、人々の「制度への不信」が高まっているのだという。
それでは「制度」はいかなるものであるべきかという点が問題になる。齋藤氏は、市民が共有する「制度」は「公共的価値」にかなったものでなければならないとしている。「他者も受容しうる理由」の下で、市民たちが正当化可能のものとして判断する価値が「公共的価値」として、「制度」を支えるのだという
後半部では、「制度」を介した「承認の欠如」による自尊心の毀損について論じられている。
日本における「承認の欠如」の特徴的な側面は、労働などの「業績の承認」が制度の下での人格の承認へと転化しやすいという点にあると齋藤氏は指摘する。日本社会では、勤労者としての労働の業績が、その人自身の人間性の評価へと転化される傾向が強い。そのため、非正規雇用など周辺的な労働を強いられている人は「業績の承認」が十分になされず、それが自己否定や自尊心の毀損へと直結してしまうのだという。
この事態に抗するためにも、「承認」のための価値観基準の多元化が見直されなければならないとしている。

第2部では対等の市民の関係を形成するために、生活条件を保障する「社会保障」はいかにあるべきか論じられている。
前半部では「社会保障」における基本的な考え方や視点について説明がなされている。
市民の平等な関係の実現を考えた時、「社会保障」の目的を「財の配分」にとどめるべきではないと齋藤氏は主張する。齋藤氏は、市民間の平等な立場を保障するためにも、「社会保障」は「財の配分」という手続き的な面に終始するべきではなく、「権利の配分」すなわち、財を配分することで市民が結果的にどのような権利行使が可能になるかという点を主眼に置くべきであるとしている。生活条件を改善するためだけの保障ではなく、「支配に抗する保障」という視点が必要なのだという。
「社会保障」は市民相互の負担と受益の関係からなる「社会的連帯」としての制度であると言える。この「社会的連帯」が形成される正当化理由が、市民によって受容されなければならないとされる。齋藤氏は正当化理由として「生の動員」「生のリスク」「生の偶然性」「生の脆弱性」「生の複数性」の5つを挙げている。齋藤氏によれば、「生の動員」以外は市民を依存・従属関係から解放し、対等な関係性を形成するのに寄与しうるという。
次に市民の平等な関係を実現するための「社会保障」について、理論的な部分の説明が加えられている。
齋藤氏は不平等な関係にある市民の他者への依存について言及する。齋藤氏は単純な「他者への依存」は誰しもが経験しているものであることから、問題視しない。しかし脆弱な市民が陥る「他者の意思への依存」は政治的自由の欠損へと繋がることから、「社会保障」の構想は「他者の意思への依存」から自律的になることを想定しなければならないとしている。
そして市民間の平等な関係を実現するための保障については、「事前の保障」を前提として、不平等の防止に主眼を置かなければならないと齋藤氏は述べる。そして生活条件の保障は「生の見通し」に格差が生じないようなものであるべきであり、ロールズのいう「財産所有のデモクラシー」の視点を取り入れる必要があるとしている。
後半部では「社会保障」の具体的な構成について、方向性が示されている。

第3部は市民を政治的に平等な存在として扱う「熟議デモクラシー」を中心に、法や政策を市民が正当化するあり方について論が展開されている。
前半部ではデモクラシーに対する観点や「熟議デモクラシー」の意義について取り上げられている。
デモクラシーは政治的な決定手続きとして、いかなる時代も理想的な形とされてきたわけでは決してなく、20世紀前半には激しい批判に晒されてきた。しかし近年議論がさかんな「熟議デモクラシー」はかつての「数の力」によって法や政策を正当化するデモクラシーとは異なり、「公共の議論を通した理由の交換や検討」により法や政策を正当化するという側面から、政治的決定を「民主的に正統化」することが可能になるのだという。
「熟議デモクラシー」の意義は「専門知」との関係からも論じられている。かつての議会を中心としたデモクラシーが肯定された理由は、問題の専門性による少数者の議論の方が有効な解を出すことができるというものである。しかしそうした「専門知」の考え方は、一部の層にとっての利益拡大を正当化するように働いていた。公共の議論を格とした「熟議デモクラシー」は、多様な視点から問題を吟味することができ、「専門知」の横暴を監視・抑制することも可能であると齋藤氏は指摘している。
また「熟議デモクラシー」による市民間の公共的な議論は、それが直接的に政治的決定に結びつかない場合であっても、デモクラシーの観点から意義があるとされている。それはハーバーマスの「理由のプール」という考え方により説明ができる。人々は公共的な議論を行い、「理由」を相互に交換、検討することで、妥当性が高い「理由」は強い確信として「政治文化」の中に蓄積されていくのだという。こうして蓄積された「理由のプール」は、長期的な視点から法や政策の民主的正統性を高めるように作用するのだという。
後半部では「熟議デモクラシー」の制度化の例や、現代の「マスデモクラシー」における「感情」と熟議について取り上げられてる。
「熟議デモクラシー」の具体的な制度化として取り上げられる「ミニ・パブリックス」の実践は、人々はデモクラシーに関わる能力が足りないのではなく、「機会」が足りてないということを結果として示していたという。

一行抜粋…生活条件の保障をたしかなものにしていくには市民としての政策評価・政策形成に積極的に関与する必要があるが、その生活条件が政治に関わるだけの余裕を与えないものになり、市民はますます守勢に立たされるという悪循環が生じている。組織の一員としては合理的な判断や行動が、市民として判断したり行動するための条件を損なってきたといえる。(168頁)

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