『<私>時代のデモクラシー』/宇野重規

主題…現代は「私」のあり方を自ら自覚的に形成しなければならない時代であるとされている。そうした「<私>時代」において、個人は社会とどのように向き合えばよいのか。「<私>時代」における他者との協働やデモクラシーのあり方について考える。

1章では「<私>時代」の「平等意識」について論じられている。
宇野氏は、絶対的な価値や理念からの解放を目指した「近代」の延長としての現代は、自分自身のあり方を自覚的に築き上げなければならない時代であることから、現代を「<私>時代」と呼ぶ。
宇野氏によれば、この「<私>時代」においては、人々が追求する「平等意識」が先鋭化するのだという。特にこの「平等意識」は、他者と平等な関係にありながらも、「オンリーワン」としての自分を求めるという点に特徴があるとされている。こうした「オンリーワン」としての「平等意識」の活性化は、グローバル化の流れに伴い、世界各国で見られる現象なのだという。
この「<私>時代」の「平等意識」の先鋭化について、宇野氏はアレクシスド・トクヴィルの「平等化」論をもとに説明している。トクヴィルによれば、近代化が進み、他者との間の壁が希薄化することで、他者との間の「平等意識」が活性化し、その意識が既存の秩序の動揺につながるエネルギーになるのだという。トクヴィルの言う平等に対する「意識」の先鋭化が、現代の社会でも確認できると宇野氏は主張している。
「<私>時代」の「平等意識」は、中間集団の解体により起きたとされている。日本にはヨーロッパの身分制のような中間集団は存在しなかったが、宇野氏によれば、日本にも教育や社会保障の面でそういった中間集団的な役割を担う存在があったのだという。そしてそうした中間集団が解体されたにも関わらず、個人間での「連帯」の術を知らないことが、現代的な不安へと繋がっているとされている。
また宇野氏は、「平等意識」の変容について、短期的な「いま・この瞬間」の平等意識が強まっていったことを確認する。家族の機能の変化や、世代間対立をめぐる議論などは、こうした「いま・この瞬間」に対する不平等の意識が現れた証拠なのだという。

2章は「<私>時代」における個人主義の姿について論じられている。
90年代以降、一つの潮流として指摘されてきたのが、社会問題の「個人化」であるとされる。社会的、経済的不平等の問題などを、社会の問題としてではなく、「個人の問題」として人々が認識するようなことが確認されている。宇野氏は特に、この「個人化」が「脆弱さ」の表れとして語られることに注目する。こうした「否定的な個人主義」こそが「<私>時代」の個人主義の姿の一つなのだという。
また「<私>時代」の個人主義の特徴として、「私自身であること」を一つの価値と見做す傾向がある。他者からの価値観の押し付けや強制を排除し、「私自身であること」をめぐる議論が活発になされている。その中でも、宇野氏はチャールズ・テイラーの論に注目する。テイラーは「自分自身であること」に忠実であることを重視したという。その上でテイラーは自分自身を問うために、他者や社会のあり方を問う必要があると主張した。こうした「問いの地平」の形成が、自分自身のあり方の追求を、社会のあり方の追及へと繋ぎかえる役割を担うのだという。
2章終盤では、自己のあり方をめぐる現代の人々の志向性から、その問題点について指摘がなされている。昨今の自己啓発本ブームや、オーディット文化、セラピー文化に共通している点は、自己の能力や業績を評価し、それをもとに自己をコントロールしようとする点であると宇野氏は述べる。
こうした自己を知り、自己を統制するという手法は、その過程で短期的な時間換算することを前提としている。宇野氏は、そうした長期的視点の捨象が現代の個人のあり方の問題であると主張する。人格の形成や人生への意味づけなどは、長期的な「時間の溜め」が必要なのであり、短期的に決断を下そうとする「ノーロングターム」は、人生の意味づけの喪失にも繋がりうるのだという。

3章は2000年以降の日本政治において、政治家も国民も政治的問題を「<私>」の問題として捉えようとする傾向があったことについて論じられている。

4章ではこれまでの議論を踏まえ、「<私>時代のデモクラシー」のあり方について論じられている。
宇野氏はデモクラシーを模索するにあたり、「<私>時代」における「社会」の意義について明確化する。ドラッカー、ブルデュー、ハージらの「社会」と個人の関係についての議論は、「社会」は個人に対して「役割」や「承認」人生の「意味」などを供給する軸であるとしている。そのため、「<私>」を自覚的に形成しなければならない現代においては、「社会」を問う視点は一層不可欠であり、デモクラシーを問うためにも「社会」と国家の関係を考えることは重要なのだという。
そして宇野氏は再びトクヴィルを引用し、「<私>」時代の個人の心性について言及する。トクヴィルは「平等化」社会においては、個人は伝統的な人間関係から解放はなされたが、その反面個人は、周囲の他者に対して羨望や関心を高めていくとしている。
こうした他者に対する意識は、今日では顕著な現象であり、宇野氏はこうした現代人的な心性から、他者との「リスペクト」の意義を主張する。「<私>時代」は「オンリーワン」の自分を追求する反面、他者の存在を意識してしまうという両義的な時代である。そのため、「<私>」と「<私たち>」との接続点を作るためにも「リスペクト」という視点は問われなければならないのだという。
そして宇野氏は本書終盤において、近時のデモクラシーをめぐる議論を紹介した上で、「<私>時代のデモクラシー」について結論を下している。「<私>」の存在について誰もが不安を抱え、それを追求しなければいけない時代だからこそ、「<私>」にとって不可欠な「社会」のあり方を問い、「<私>」が「<私>」であることを認識するための選択として、デモクラシーが必要なのだという。

一行抜粋…「答えのない時代」を正面から受けとめ、まさにそのことを自律と自己反省の契機とすること、静的で自己完結的な安定性ではなく、動的な自己抑制と自己変革を目指すこと、そのために必要な他者を見出し、その他者とともに議論し続けるための場をつくりつづけること、これこそ<私>時代のデモクラシーの課題にほかなりません。

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