『人間の条件』/ハンナ・アレント(志水速雄訳)

主題…アレントによれば人間は「労働」「仕事」「活動」により条件づけられている。アレントはこの3つのうち「活動」こそが人間を人間たらしめると考えたが、近代以降、「活動」は軽視され「労働」の価値が追求されてきた。人間の「複数性」に目を向け、その「現れ」を問う。

1章では人間を条件づける3つの行動について、その歴史上での解釈などが論じられている。
人間はさまざまな条件によって規定されている。アレントは「活動的生活」という行動によって人間は条件づけられていると考えている。
そしてアレントはこの「活動的生活」を「労働」「仕事」「活動」の3つにわけ、これらの行動によって世界の中の存在者としての人間は規定されていると考えている。「労働」は生命の必要性によって生存を支えるための行動をさし、「仕事」は自然に働きかけて「世界」の構成物を工作することを指す。「活動」は他者と共同して言論と行為により、他者の前に現れる行動を指す。
アレントによればこの「人間の条件」は「人間の本性」とは異なるものなのだという。「人間の本性」とされているものを論じてもそれが「人間の条件」を表しているとは言うことができず、「人間の本性」はそれぞれの個人が「誰であるか」という問いに対応することができないため、「人間の条件」とは根本から異なるのだという。

2章では本書の核となる「公的領域」と「私的領域」の分離について論じられる。ここでは近代への以降の中で、この2つの空間の間に「社会的領域」が発生したことが意味することについて論じられている。
アレントは古代ギリシャのポリスとオイコスの関係から、「活動」を「公的領域」における行動として位置付け、「仕事」と「労働」を「私的領域」における行動として位置付けた。アレントによれば、生命の持続ための必要性によって駆り立てられる「労働」は、人間にとって「非世界的」な行動であり、奴隷労働などの暴力も正当化されうるのだという。
他方でアレントは言論と行為によって他者によって「見られ、聞かれる」ことを指す「活動」は、「世界」のリアリティを生じさせるための行動であるとしている。またアレントによれば「活動」を行うことで、各々の人間に備わっている差異や「複数性」が現れ、それを人々が認識することで、「共通世界」の認識へと導かれるのだという。
アレントはこのように、生命の必要性によって「主観的」な世界に閉じこもる「労働」を行う「私的領域」と世界の「客観的」なリアリティを成立させる「活動」が行われる「公的領域」を対置させた。そしてアレントは、この2つの領域の間に「社会的領域」が生じるようになったことを指摘している。近代以降、近代産業の成立に伴い、労働が組織化されていくことにより、「労働」が「公的領域」で問われるようになることで、「社会的領域」が形成されるようになったのだという。

3章では「労働」について、詳細に論じられている。
アレントは「労働」を生命の必要性によってなされる行動として説明する。アレントによればこうした「労働」はもはや「必要性の奴隷」なのであり、「世界性」と結びつく「活動」や「仕事」とは異なり、「労働」は「世界性」とは一切結びつき得ないのだという。「労働」は知的労働・肉体労働などの違いや、熟練・非熟練などの違いを問わず、いかなる場合でも「活動」や「仕事」よりも定位に置かれるとされている。
近代以降に「労働」の地位が上昇したのは、ロックやスミスによる労働価値説の影響があるのだという。その中でも決定的に影響を与えたのがマルクスの理論であったとアレントは指摘している。アレントによれば、マルクスの労働価値説は、「労働」を「自然過程」の動きと対応させる側面があったことから、無限的に労働と消費を繰り返す運動の中に「幸福」を見出すことを可能にしたのだという。
またアレントは産業革命以降、消費と生産が連続的に繰り返されるようになることで、工作人が労働者となる流れがあったことを指摘している。

4章は「仕事」について論じられている。
人間は自然物に手を加えて、世界の構成物を作り出す。アレントはこれを「仕事」と呼び、世界の中で永続する作品を作り出す営みとして位置付けた。アレントによれば、「工作」によって作られた「工作物」は「使用」の対象になるものもあるが、「使用」は「労働」によって作られたものを用いる「消費」とは異なり、「解体」を必然的に伴っていないものを指すという。
「労働」と「仕事」の違いの一つとして、アレントは「仕事」における始まりと終わりの存在を挙げている。自然過程に沿って生産と消費を続ける「労働」とは異なり、「仕事」には作製の中で始まりと終わりがあるという点で「労働」と「仕事」は異なるのだという。
またアレントは「仕事」による「工作物」のうち、「芸術作品」には他の工作物とは異なる位置付けが与えられている。アレントによれば、工作人の思考の物化である「芸術作品」には「永続性」が備わっており、「使用」の対象にはならないという。そして「芸術作品」の中でも特に「」は他の物とは独立した存在なのだという。

5章では「活動」について論じられている。
「活動」は言論と行為によって他者の前に現れる行動を指す。人間は「活動」を通して、人々の間の「差異性」が具体化されることとなる。アレントによれば、この「差異性」の現実化こそが、人間の網の目の中で人間を人間たらしめるものなのであり、「活動」を通して人々は「何者であるか」を明らかにするのだという。
アレントは「活動」を「権力」と関連づけて論を展開する。アレントは「権力」を「活動」によって実現する「現出」や人々の共生を存続させるためのエネルギーとして捉えている。アレントによれば人々が「活動」を通し、差異を現す「公的領域」の成立に伴い、「権力」は発生するのだという。
一般的に「権力」は、特定の実体が有するパワーとして認識されるが、アレントはこうした権力観を退けている。アレントによればこうした権力観は暴政の一種なのであり、この暴力はむしろ「権力」による「活動」の存続を妨げるものなのだという。
これらの「活動」についての議論を踏まえ、アレントは再び「労働」の批判を行なっている。「活動」が人々の間で言論と行為を通して「共通感覚」を共有することでリアリティを生じさせる行動であったのに対し、「労働」は肉体的必要性によって結びつけられた行動であり、他者や世界性、共通感覚などを必要としない営みであった。そのため、自然過程の中で消費と生産を繰り返す「労働」は人間的な「活動」とはかけ離れた行動であるということができる。そしてアレントは、「<労働する動物>」としての人間を支えているものは「複数性」と対にある「同一性」なのであると主張している。

6章は近代における観照や活動的生について論が展開されている。

一行抜粋…完全に私的な生活を送るということは、何よりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」ということを意味する。すなわち、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、物の共通世界の介在によって他人と結びきつが分離されていることから生じる他人との「客観的」関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていることなどを意味する。(87頁)

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