『ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗』/円谷英明

主題…ウルトラマンシリーズを世に生み出した円谷プロ。ウルトラマンを生み出した円谷プロは、これまでいかなる経営をしてきたのか。また、なぜ「ウルトラマンが泣いている」なのか。円谷プロの栄華と失敗を辿る。

1章では、円谷プロの特撮技術へのこだわりや、「ウルトラマン」がヒットした経緯などが述べられている。
円谷氏によれば、円谷プロの原点は特撮技術への徹底的なこだわりにあったのだという。そうした特撮技術へのこだわりは、初代社長の円谷英二氏による思い入れの強さによるものなのだという。
1970年代に入り、「ウルトラマン」のヒットをはじめ、円谷プロは軌道に乗り始めたという。しかし、大胆な特撮技術を売りにしていたため、基本的に円谷プロは赤字体質であったと円谷氏は指摘する。そして、円谷氏によれば、円谷氏の父円谷一死の死を契機として、円谷プロの経営は安定性を欠いたものになるのだという。

2章では70年代から80年代にかけての円谷プロの経営について論じられている。とりわけ、ウルトラマンのテレビ放送に関わる一連の流れが取り上げられている。
1章でも述べられていたように、円谷プロは赤字体質であり、資金繰りに苦戦していたとされる。そんな中で、60年代末あたりから、怪獣などのキャラクターを商品化する「キャラクタービジネス」が商法として確立したという。そして、この「キャラクタービジネス」の確立が、70年代の「怪獣ブーム」に相まって、この時期は資金繰りが順調であったと円谷氏は述べている。
円谷氏は、ウルトラマンのテレビ放送にかんして、80年代のTBSとの関係に焦点を当てる。円谷氏によれば、ウルトラマンのテレビ放送は、TBSとの協力関係に依るところが大きかったという。そして、80年代にTBSとの関係が悪化する出来事が生じた結果として、ウルトラマンのテレビ放送からの撤退を余儀なくされたのだという。

3章では、80年代・90年代において円谷プロの経営が先細っていく経緯が述べられている。
80年代には、それまでの「キャラクタービジネス」が盛況しなくなったり、TBSへの権利譲渡による収入の減少などによって、経営の先細りが見えていたとされている。また、90年代頭には「ウルトラマンパワード」という海外進出を目指したウルトラマンシリーズを企画するものの、日本と文化が異なる海外では、定着することなく、撤退を余儀なくされたという。さらに、90年代にはこれまで円谷プロと関係が深かった東宝との距離も離れ、経営に陰りが見えてくるようになったという。

4章では、円谷プロの「最大の失敗」について述べられている。
円谷氏によれば、円谷プロの「最大の失敗」とは、ウルトラマンシリーズにおけるテーマやポリシー、コンセプトの一貫性よりも、流行や視聴者が好むものに合わせて、ウルトラマンの見せ方を変えてきたことにあるのだという。円谷氏によれば、円谷プロは、初期ウルトラマンが大事にしたテーマやコンセプトを貫くことなく、流行や視聴者の好みを重視したが故に、往年のファンがウルトラマンから離れていったのだという。このような、往年のファンや初期コンセプトの軽視は、作品を愛するファンとともに歩んできたガンダムなどとの違いであると、円谷氏は述べている。

5章では、ウルトラマンと玩具販売について述べられている。

6章では、英明氏が社長に就任して以降の円谷プロの経営について述べられている。
円谷氏が社長に就任してすぐに明らかになったことは、それまでの円谷プロの経営のずさんさであったという。ここでは、就任以前の円谷プロの経理のずさんさや私的流用、責任の曖昧さなどの問題が挙げられている。

7章では、資金繰りの悪化の結果、円谷プロが他の企業の傘下に入り、円谷一族が経営から外されるまでの流れが説明されている。

一行抜粋…しかし、その実、我々はウルトラマンにあまりにも依存し過ぎたのではないか、実はウルトラマンに甘えていたのではないかという悔悟の思いもあります。過去の栄光にとらわれ、ウルトラマンを酷使するうちに、いつのまにか、みすぼらしくさせてしまったのです。ウルトラマンが泣いている。今にして思えば、現実の世界でウルトラマンを悲劇のヒーローにしてしまったのは、我々円谷一族の独善か、驕りだったのでしょう。(190)

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