『「デモ」とは何か 変貌する直接民主主義』/五野井郁夫

主題…主要な政治表現として認識されている「デモ」の姿は、画一的なものでは決してなく、時代や社会に応じて変容を遂げてきた。日本では過激的・暴力的なイメージから敬遠されてきた歴史もあるが、現代的な「デモ」のあり方はそのイメージを払拭するものとなりつつある。「デモ」のイメージ定着の歴史や現代的な可能性について考える。

序章では現代的なデモの態様について素描が示されている。
五野井氏は、現代的なデモにおける現象の一つとして、「一時的自主管理空間(TAZ)」の形成を指摘している。この「一時的自主管理空間」とは、特定の空間内部において公的な権力や秩序が一時的に停止され、その内部にて新たなる秩序が形成されていることを指している。五野井氏によれば、アメリカのオキュパイ・ウォール・ストリートデモなどは、この「一時的自主管理空間」が形成された最たる例であるとしている。
また現代的なデモの姿としての「社会運動のクラウド化」に言及している。SNSやメディアテクノロジーの隆盛により、デモや社会運動は従来の形とは異なる「クラウド化」の様相を示していると五野井氏は主張する。今日のデモにおいては、SNSを通したデモや社会運動の情報共有や情報のアーカイブが可能になったことから、柔軟かつ流動的なデモの実現の回路が開かれたとされている。こうした「社会運動のクラウド化」により、公権力と正面から対峙するかつてのデモとは異なり、公権力に対して流動的かつ効果的に主張を示すデモが主流になったと五野井氏は述べている。

1章ではアメリカのオキュパイ・ウォール・ストリートデモの様子が説明されている。
2011年に開始されたオキュパイ・ウォール・ストリートデモは、経済格差やローン地獄に苦しむ99%の層が、1%の富裕層に対する富の独占に対して行われたデモとして知られている。オキュパイ・ウォール・ストリートデモの特徴として、五野井氏は「リーダーの不在」と「非暴力」を挙げている。特定のリーダーを持たず、議論や精緻化された手続きを通して協働して主張を行っていたという点がオキュパイ・ウォール・ストリートデモの特徴であり、成功の要因であったとしている。またかつての闘争的なデモとは異なり、デモ全体を通しても「非暴力」が貫かれていたという。
さらに五野井氏は、デモが一時終了した後の動向に注目する。オキュパイ・ウォール・ストリートデモは、公園の整備などの「ジェントリフィケーション」により、中断を余儀なくされた。しかしオキュパイ・ウォール・ストリートデモは、その中枢をリアルから、ネット上へと移動することで、見事に存命が実現したのだという。五野井氏はこうした潮流は、リアルとネットを掛け合わせた「逃げつつ、戦う」デモの現れであり、「クラウド化する社会運動」の例であると主張している。

2章では、日本のデモの歴史を辿り、日本人とデモの距離感覚の考察が展開されている。
五野井氏は日本のデモの歴史における、イメージの定着に焦点を当てている。日本のデモの歴史は、米騒動を出発点としているが、近代以降の日本人とデモの関係性を考える上で特に示唆的なものとして、60年の安保闘争が挙げられている。この安保闘争は、メディアを通して「デモ=暴力」というイメージが形成される契機となったとされている。デモは議会中心の「院内政治」に対する「院外政治」としての可能性が期待されていたが、60年安保を機に「暴力性」がイメージとして定着してしまったという。そしてこの「暴力」との結びつきは、68年の学生闘争で更に再生産がなされ、「デモ=暴力」が日本人のデモに対する意識として固着していったという。
さらに70年代に消費社会の気風が生じ、「政治の季節」が終焉することに相まって、「院外政治」としてのデモの可能性が希薄化していったという。

3章は「院外政治」が途絶えていたと認識される80年代における政治表現の発露について論じられている。
70年代の「政治の季節」の終焉に加え、中曽根首相による新保守主義的政策により、デモなどの「院外政治」の基盤は切り崩されたとされている。そのため、80年代は政治的なものが途絶えていたと認識されているが、五野井氏によれば、80年代にも「院外」における政治表現は確実に存在していたという。生協の取り組みやコムデギャルソンなどの「日常の中の政治」こそがその例であるとしている。

4章では、90年代における社会の変容とそれに応じたデモの変容について述べられている。
五野井氏は湾岸戦争などの90年代の姿を「スペクタクルな社会」と表象している。90年代は、受動的な客体に対する欲望形成がなされる社会であったのだという。こうした時代診断に対して、デモの態様も変化したと五野井氏は指摘する。90年代から2000年代以降に至るまでのデモは、かつての暴力性を一切捨象したものであり、「非暴力」を徹底するものになっていったという。それに加えて、デモは「祝祭」としての性質を内包するようになり、多様な表現で主張を行う「サウンドデモ」などが行われるようになったと五野井氏は着目する。90年代を契機として、デモの参加主体の拡大やイメージの変化が生じたのだという。

終章では、2011年に日本で行われた反原発デモの態様や性質について説明が加えられている。これまで検討してきたデモの歴史の上に反原発デモをのせ、デモの可能性と課題について考察がなされている。

一行抜粋…2000年代から2010年代で、とくに311以降で、日本のデモは暴力から祝祭へとそのイメージを転換させることに成功したのだった。そして、本書でここまで見てきた歴史的な継続を振り返れば分かるように、この311以降の日本各地でのデモの隆盛とは、日本における「社会運動社会」の遅ればせの到来というよりも60年安保時に寸断されかかった「院外」の政治の継続なのである。私達には、選挙以外にもデモを始めとする直接民主主義の表現によって政治を変える力がある。(209頁)

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