『永遠のドストエフスキー 病いという才能』/中村健之介

主題…ロシア文学の巨塔として知られるドストエフスキー。彼の作品は、人間の「病い」を表現し、その「病い」という観点から人間の本質を巧みに描いたとされている。ドストエフスキーにおける「病い」に着目し、彼の著作の作風や理念に触れる。

1章ではドストエフスキーの作品に見られる「病い」の位置付けとその意図について論じられている。
中村氏によれば、ドストエフスキーは自身の作品の中で「病い」を丹念に描いてきたという。ドストエフスキー作品に出てくる登場人物は、病理的な「病い」や社会的な「病い」を抱えた人々が多くを占めている。ドストエフスキーは、こうした「病い」を抱えた人々の行動や言動を極めて精緻に描いたとされている。
ドストエフスキーによる「病い」の描写は、人間の根源的な弱さや残酷さの反映であると中村氏は指摘している。中村氏によれば、ドストエフスキーが描く「病い」は特定の個人に限らず、人間誰しも苦しめられる類のものであり、その「病い」の描写は、人間の弱さや残酷さを人間誰しも必ず共有しているということを知らしめる効果を持つものなのだという。
またドストエフスキー作品の登場人物の特徴として、その「受動的」な性格が挙げられている。ドストエフスキー作品の登場人物は、自らの意志を信じたり、信念に基づいて貫徹した行動をとろうとはせず、他者に行動や判断を委ねたりする「受動的」な傾向が目立つとされている。また登場人物が頻繁に「夢想」することもまた、意志が確立していない「受動性」の表れなのだという。中村氏によれば、ドストエフスキーが「受動的」な人物を描いた理由は、ドストエフスキーが理想とする人間の関係性にあるのだという。ドストエフスキーは他者に自身を委ねることで成り立つ「共なる一体感」を一つの理想的な価値として志向しており、その「共なる一体感」の実現という理念のもと、「受動的」な人間を描いているのだという。

2章は、ドストエフスキーがアンナ・グリゴーリエヴナに向けて書いた手紙から伺えるドストエフスキーの性格が論じられいてる。
中村氏によれば、ドストエフスキーが妻のアンナ・グリゴーリエヴナに向けて書いた手紙は、作品の中では見せないドストエフスキーの人間的な側面が垣間見られる貴重な資料なのだという。特にドストエフスキーがアンナに向けた手紙から、ドストエフスキーの病的なほどの「心配性」が確認されるという。ドストエフスキーはアンナに対して、自信の身近なことや妻のこと、子どものことなどのあらゆる不安を吐露しており、その「心配」の程度は妄想的なものだったとされている。
こうしたドストエフスキーの異常なほどの「心配性」は、ドストエフスキー自身の「想像力」の高さの証左であると中村氏は指摘している。ドストエフスキーはあらゆる物事に対して不安になり、極度に心配しているが、実際に事件や事故が起きた時は冷静な態度を保っていたという。すなわちドストエフスキーの「心配」は彼の「想像力」の範囲内にとどまっていたがゆえに、それが実現したとしても「心配」していたほどのリアクションはとらなかったのだという。このことから、ドストエフスキーは自身に起こりうることを想起し、追体験するほどの「想像力」を備えていたことが分かると中村氏は指摘している。

3章ではドストエフスキー作品の暴力と「犠牲者」の描写について取り上げられている。
ドストエフスキー作品には、抵抗をしない子どもなどの弱者に対する、一方的な暴力が描写されることがある。そうした描写は、加害者による一方的な暴力として描かれ、犠牲者の側はそれに抵抗することなく、暴力を受け入れているように表現されているのだという。そうした「抵抗しない犠牲者」と加害者の関係性は、ドストエフスキー作品の一つの主題であると中村氏は指摘する。中村氏によれば、こうした加害者による暴力という場面における加害者は、背後に「孤独」や虚しさを抱えた存在であり、他方で「犠牲者」の側はその「孤独」を理解し、暴力を受け入れる存在なのだという。そしてこの関係性により、「孤独」を抱える存在、すなわち「死産児」を救済することこそ、ドストエフスキーの作品の主題の一つであると中村氏は主張している。

4章はドストエフスキーにおける「現実」の描写や「統合失調症」の表現について論じられている。

5章では「博愛主義者」としてのドストエフスキーの言動に矛盾すると評されているドストエフスキーの「反ユダヤ主義」的な側面に言及している。
ドストエフスキーはユートピア的な理想社会の実現をかねてより標榜しており、彼の言動の中からそうした側面が頻繁に指摘されてきた。しかし小説ではなく、社会評論の中でドストエフスキーは「反ユダヤ主義」論を展開していることから、その矛盾がドストエフスキー理解の論点とされてきた。
中村氏もドストエフスキーの小説における卓越した「人間理解」と、社会評論におけるステレオタイプ的な社会理解の対比を問題視している。しかしドストエフスキーを反ユダヤ主義者として一面的に理解することは許容されえないと中村氏は考えている。ドストエフスキーはユダヤ人に対しては広く共有されていた理解に拘泥していたが、それは小説ではなく「評論」という書体の特質や、ロシア的な歴史理解によるところが大きいと中村氏は指摘している。またドストエフスキーは〇〇人といった人種に囚われず、「人間」としての本質を描くことを追求した作者であったことから、ドストエフスキーを一面的に反ユダヤ主義者と捉えるのは問題があるとしている。

一行抜粋…人間は、冷静に自分と周囲の人の事実を見ればすぐわかるように、「欠陥者」と見える者は自分を筆頭としてたくさんいて、ときには過半がそうであって、そしてそれぞれ互いに異なっており、その一人一人もまた常に矛盾の集合として生きている、その不完全不斉一こそわれわれの事実だというはっきりした異者共生感覚が、ドストエフスキーにはあった。(208頁)

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