『リベラルという病』/山口真由
主題…多様性や寛容を追求する「リベラル」。「保守」の対抗軸として、少数者の排除や抑圧を告発してきた「リベラル」であるが、「リベラル」は特定の条件や状況と結びつくことで、「リベラル」の本質とはかけ離れた手に負えないものとなる。それはいかなる場合なのかについて探求する。
1章は本来ならば宗教的に寛容である「リベラル」が特定の条件と結びつくことで、宗教的な側面を持つ場合があることについて論じられている。
アメリカにおける「保守」はキリスト教の信仰を重視し、時として厳格な教義の解釈を求める。それに対して「リベラル」は宗教的に寛容であり、キリスト教の教義に触れる法制度の問題についても広く自由を認める傾向にある。
こうした理解が一般的であるが、「リベラル」も時として宗教的な部分を持つ場合があると山口氏は述べる。信仰としての「リベラル」とは信仰対象として「人間の平等」を掲げるものを指す。寛容の精神に基づき、人種や性別の差別に対して、「リベラル」はその不平等を告発するのである。山口氏はこうした「リベラル」の動きに、近年取り上げられるようになった「ポリティカルコレクトネス」が結びつくことで、「リベラル」は宗教的な側面を見せるようになると指摘する。「ポリティカルコレクトネス」とは少数者に対する排除や抑圧を表すかのような表現を控える風潮を指す。この「ポリティカルコレクトネス」と「人間の平等」を信仰する「リベラル」が結びつくことで、ありとあらゆる差を指摘する言説が不用意に告発・糾弾されるようになるのだという。
2章は米国の「リベラル」と連邦最高裁判所について述べられている。
米国の最高裁は日本とは違い、最高裁判事の政治性が判決に反映されやすいという。その最たる例が「ウォーレン・コート」と呼ばれる時期である。ウォーレン判事が最高裁に就いていた期間は、米国で珍しいほどにリベラルな判決が連発されたという。その一つの例が「ブラウン判決」である。「ブラウン判決」は黒人と白人の差別についての「分離すれども平等」という考え方を違憲とした判決である。この判決は米国の判決の中でもリベラルなものとして知られている。
山口氏は最高裁の任務とリベラルな判決の関係に異議を投げかける。「ブラウン判決」を始め、リベラルな判決は判断過程にどうしても少数者に対する「心情」が入り込みやすく、厳格であるべき「法律論」が軽視される傾向にあるという。最高裁判事は国民によって選ばれた者ではないがためにも、リベラルな判事が「理想的」な判決を下すことは民主主義との関係からも問題があると指摘する。
3章は米国の「家族」のあり方について保革の視点から論じる。
米国は「家族」のあり方が固定的であり、伝統的に形成された模範的モデルが最高裁判決に影響を及ぼすほど定着している。それはいわゆる「核家族」モデルであり、米国の家族像は一般的に「核家族」が想起されると言われている。この点から「家族」のあり方は保守的な見方が強く根付いているが、近年、「家族」を認定するものとして「意志」や「機能」も部分的に認められるようになってきており、「リベラル」に向かう傾向もあるという。
4章では日本の「リベラル」と「保守」について、米国との相違がまとめられている。
日本の政党における「リベラル」も「保守」もいずれも思想的な「核」がないということを山口氏は指摘する。米国の共和党と民主党は「保守」や「リベラル」といった理念を党是とし、一貫した行動をとる。しかし日本の場合、与野党ともに政党がそうした「核」に基づいて行動をとっていないという。
また、日本における「小さな政府」の定着しづらさについても指摘している。保守側が掲げる「小さな政府」であるが、他国に比べて日本の「小さな政府」は不徹底であったという。それは日本には元から「小さな政府」が根付きづらい政治慣習があったからであると述べている。
一行抜粋…とにかく自民党に反対することがリベラルではない。とにかく敵失を誘うことがリベラルではない。意見の違いを許さない不寛容さではなく、異なる意見の尊重こそを、アメリカのリベラリズムは理想としたのだ。
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