『政治神学』/カール・シュミット (田中浩 原田武雄訳)

主題…政治のあり方を最終的に決める主権は国民に属すると社会科では教えられる。しかし歴史を辿れば、国民の意思に反して国家が戦争行動をとってきたという事実が存在することがわかる。カール・シュミットは「国家主権」を擁護した論客として知られている。シュミットはいかにして「国家主権」を擁護したのか、「例外状況」における「決定」という視点から考察する。

シュミットは本書の冒頭にて、「主権者とは、例外状況にかんして決定を下す者をいう」と主張している。国家の存立や公共的な安全が危ぶまれ、危機的な状況にあると言える「例外状況」に陥った場合に、「決定」を下すこととが主権の行使にあたるとシュミットは考えている。
シュミットによれば、主権の行使とは「例外状況」における「決定」であることから、主権をめぐる論争は「例外状況」において、誰が「決定」を下すことが可能であるかという主権主体の問題が重要なのだという。他方で主権を対象としてきた法治国家主義的な研究は、「例外状況」における「決定」という側面、すなわち主権の行使の場面を排除する傾向にあるということを指摘している。
法治国家的研究が軽視する主権における「決定」という要素は、ジャン・ボダンが主権論を最初に提唱した時点から見受けられることができるのだという。シュミットは、ボダンが主権概念に「決定」という要素を持ち込んだことこそがボダンの学問的業績であると評価している。
次にシュミットは、法と秩序の機能の側面から、主権が属する主体について論を展開する。
シュミットによれば、国家の存立や公共の安全が危ぶまれる「例外状況」においては、法や秩序はすべて機能を停止するのだという。しかし法や秩序は後退する一方で、国家は依然として存続するとシュミットは述べる。このことからシュミットは、法規範に対して国家は常に優位にあるということを指摘する。「例外状況」において「決定」はあらゆる規範から独立した存在になるのだという。
そして正常な秩序を形成するための「決定」を下すのが「究極的決定の専有者」としての主権者である。そしてここでいう主権者とは、国家を指し、シュミットは「国家主権」を擁護したのである。
またシュミットは、近代の主権論の研究について「決定」の側面に注意を向けながら分析を加えている。

後半では「例外状況」と「神学」の関係について論が展開されている。
シュミットによれば、法律学における「例外状況」とは、「神学」における「奇跡」と類似した関係にあるのだという。そのため、法学にも「神学」的な側面や「有神論」の視点を欠いてはならないのだという。
しかし18、19世紀の法治国家思想や合理主義は、神学的概念を除去する傾向にあるのだという。すなわち18、19世紀の理念は「例外状況」の否定をも意味しているということになるとシュミットは述べている。
ホッブス以降、神学的側面は取り払われるようになり、主権概念の正当化のために「民衆」という要素が用いられるようになった。こうした主権概念は「決定主義」や「人格主義」を消失しているとして、シュミットは批判を加えてている。

またシュミットはメーストル、ボナール、ドノソ・コステルなどの「反革命的国家哲学」を検討し、彼らの右翼的反革命的な理論をもとに、シュミットが批判対象とした法治主義や自由主義に対する、「神話」や「独裁」「決定」
関わる理論を評価している。

一行抜粋…例外事例は、国家的権威の本質をもっとも明瞭にあらわす。ここにおいて、決定は、法規範から分離し、かつ、法を作り出すために法を所有する必要がない、ということが権威を立証するのである。(21頁)

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