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「東京2020」と「Tokyo in 2020」ーーアイドル/オリンピック/都市計画

 2020年の東京、これには二種類あるとおもう。一つ目は、「東京2020」で、これは誰でも知っているように、2020年に東京で開催されるオリンピックを意味している。しかし二つ目もあって、これは「Tokyo in 2020」と表現できるものであり、詳しいことはまた後で説明するが、一言でいえばあるアイドルグループを意味している。この文章では、オリンピックというテーマを導きの糸として、アイドルと都市(東京)の関係について書いてみたい。このことはもちろん、「・・・・・・・・・」(「ドッツ」とか「dotstokyo」とか呼ばれることが多い。以下では「ドッツ」で統一)というアイドルの「アイドル×都市」というコンセプトの背景を少しだけ掘り下げてみるということでもある。

 ところで「アイドルとオリンピック」と聞いたとき、どんなことがおもいうかんでくるだろうか。たぶん一番多いのは、オリンピックの開会式のことだろう。すなわち、オリンピックの開会式にAKB48が出るのではないか、いや、それはいくらなんでもまずい、出すならPerfumeにしてくれ、いや、そもそも開会式にアイドルとかいらんし…みたいなことであり、そういえばオリンピックの東京開催が決まった後はしばらく、こんな話題がある程度世間を賑わせていたように記憶している。

 もちろんこの文章で書いてみたいのは、今述べたようなこととはぜんぜん関係ない。もっと別様なアイドルとオリンピックあるいはそれが開催される都市との関係について書きたい。で、結論としてはドッツはこうした別様のアイドルと都市との関係を提示している、ということになる。言いかえると、「アイドル×都市」というコンセプトは、2020年の東京オリンピックという文脈を踏まえることでより理解されやすくなるはずなのだ。このことを示すためにまずは、「東京2020」に対するとある(アイドルではない)グループの対応を紹介してみたい。そのグループの名前は、(「DOTS」ではなく)「PLANETS」という。

 PLANETSとは、批評家の宇野常寛が主宰している企画ユニットであり、雑誌を始めとした様々なコンテンツの提供を行っている。またここでは詳述しないが、ドッツのコンセプトは宇野からの影響が多分に見受けられる。このPLANETSが2015年に出版した「PLANETS vol.9」のタイトルは、「東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」となっている。ここではまさに、「東京2020」とは別様の計画(=オルタナティブ・プロジェクト)を立てることが試みられている。

 ドッツのコンセプトとの関連を考えるとき、この「PLANETS vol.9」に収録された文章の中でまず目につくのは、白井宏昌による「五輪は都市をどう変えてきたか」だろう。これはそのタイトルが示す通り、オリンピックとそれに伴う都市の再編との関係、すなわちオリンピックと都市計画との関係について論じている。なぜこの文章がドッツのコンセプトとの関連を想起させるのかといえば、それはドッツの試みが「都市計画としてのアイドル」と表現されたことがあるからだ(この表現は2017年2月のドッツ運営陣による大学での講義において使われていた)。2014年の時点でドッツのコンセプト担当である古村雪は、「アイドルと公共性」というテーマをはっきりと意識していたことが確認できる(これについては、古村雪「ポストスーパーフラット・アートスクール成果展ファン投票最優秀作品『会いに行け アイドル(2035年)』作者解説」を参照)。そして古村はこの「PLANETS vol.9」を読んでいたことは、ドッツのコンセプトの宇野からの影響を考えれば確実であるし、そのとき「アイドル×公共性」の公共性の部分に都市が代入されたということもまた、十分にありうることだろう。

 さらに興味深いことに、「PLANETS vol.9」の(全部でAからDまであるうちの)Cパートでは、「アイドル都市TOKYO」という記事がある。そこでは、2020年の東京を訪れた外国人観光客をアイドルたちが「おもてなし」するというプランが披露されている(余談になるが、この記事で実際に「おもてなし」のシミュレーションを行っているのは、宇野の友人でもある濱野智史が当時プロデュースしていたアイドルグループ「PIP」のメンバー6名であった)。そしてこの「アイドル都市TOKYO」というドッツヲタクなら胸騒ぎがするに違いないタイトルから、ドッツのコンセプトとの関連を予想したくなるし、実際古村に何らかのインスピレーションくらいは与えただろう。

 しかしこの「おもてなし」プランについては、容易にその限界も指摘できるとおもう。というのも、このプランにはアイドルが「おもてなし」をすることの必然性を見出すことがあまりできないからだ。別にアイドルがやってもいいが、アイドルでなくても全然いい気がする。もっとアイドルと都市とが密接に関わるような仕方がないものだろうか。ドッツのコンセプトはこの問いに対する一つの答えになっているだろう。

 つまり、「PLANETS vol.9」を読めば、「オリンピック×都市計画」(「五輪は都市をどう変えてきたか」)という視点と「オリンピック×アイドル」(「アイドル都市TOKYO」におけるアイドルによるオリンピック観光客の「おもてなし」)という視点を得ることできる。ここから「アイドル×都市(計画)」が出てくるのは時間の問題だろう。だからドッツの試みは、「東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」のさらなるオルタナティブとしての、「アイドル=東京(都市)」というかたちでの都市計画なのだ。それゆえに、ドッツのワンマンライブや定期公演のタイトルは「Tokyo in ~」というふうに表記される。これと同様に、2020年のドッツは「Tokyo in 2020」と表記されうるし、またこれは「東京2020」のオルタナティブでもある。以下では、「Tokyo in 2020」が「東京2020」のオルタナティブであるということの意味についてもう少し書いてみたい。

 まずは二つの引用から始める。

東京は、あらゆる計画をいつも裏切ったまちだ。それはオリンピックのための計画が完成したいまでも、はっきりいえる。(磯崎新『空間へ』198頁)
都市はそんな「建設的」な大事業だけでできているのではない。ボロや屑のような詰まらない小さな生活圏での出来事が充満している。とるに足りない日常性の破片のなかに、われわれの見知らぬ夢が宿り、そこにはまだ気づかないでいる次の時代が、かたちもない胎児の状態で含まれているかもしれないのである。(多木浩二『都市の政治学』6頁)

一つ目の文章が書かれたのは、1964年。まさに一回目の東京オリンピックが開催された年だ。この箇所では、東京の計画を裏切る部分、すなわち「東京1964」に完全に回収されることのない東京の力が存在しているということが、記されている。そして二つ目の引用は、一つ目に呼応し、それをさらに詳しく説明してくれているような印象さえ与えてくれる。ここでもやはり、オリンピックのような「「建設的」な大事業」あるいはそれに伴う計画よりも、それには回収されえない「小さな生活圏での出来事」に対する視線こそが強調されていると言えるだろう。

 以上のことはもちろん、「東京2020」にもあてはまる。オリンピックに伴ってどれほど緻密な計画が立てられようとも、そこから逃れる部分が、東京には存在し続ける。もちろん2020年7月になれば、かなりの程度東京はオリンピックムードに包まれるだろうし、実際に競技会場へ足を運ぶ人も少なくないだろう。しかし他方でアイドルヲタクたちは、そんな時でも相も変わらず、オリンピックに興味があるとかないとかにかかわらず、休日にあるいは平日の夜に、それぞれの推しを応援するために、ライブハウスへと足を運ぶだろう。そこでの体験は、傍から見れば「ボロや屑のような詰まらない小さな生活圏での出来事」でしかないのかもしれない。でもヲタクにとってそれは、まさに「夢」のような時間に他ならない。とはいえ、アイドル現場以外の日常は「ボロや屑のような」ものであることが多い。そんな「日常性の破片」にも、「われわれの見知らぬ夢」を見出すことができたとしたら。

 このことを可能にするのが、「アイドル=都市」としてのドッツだ。アイドルたちが都市そのものでもある、あるいは、アイドルがどんな計画も裏切る都市の不定形な力のある仕方での表出である、というコンセプトは、アイドルヲタクがアイドル現場以外の「日常性の破片」に、「われわれの見知らぬ夢」を見出すことを可能にする。すなわち、「アイドル=都市」というコンセプトによって、都市における「日常性の破片」がアイドルと接続され、アイドル化され、何となく好きになる。ここには、アイドルに対する極めて私的な好意が、都市そのものへの好意という公共的なレベルへと転じるための仕掛けがある。これこそが、様々な「ボロや屑のような詰まらない小さな生活圏での出来事」のなかに、「われわれの見知らぬ夢」が見出される一つのかたちではないか。

 さて、当初の「東京2020」と「Tokyo in 2020」という対比に戻ろう。ここで改めて、「東京2020」という文字列が、東京オリンピックのことをおもいおこさせることがごくごく当たり前になっているという事実に立ち返るとき、この表現はなんて尊大なものなんだろうとおもわざるを得ない。だって、いくらオリンピックが「国民的」な一大イベントなんだとしても、その開催期間はたかだか半月程度に過ぎない。それにもかかわらず、オリンピックは「2020」という一年間を堂々と代表してしまっているかのようではないか。よく考えるとかなりすごい話だ。しかもさっき述べたように、別に開催期間中でもみんながみんなオリンピックに夢中になるわけでもないし、ある程度夢中になったとしても一日中というわけにもいかないだろう(仕事や学校、そして何よりアイドル現場もあるわけだから)。

 だから「Tokyo in 2020」という表現は、「アイドル=都市」としてのドッツの応援を通じて、2020年においてもなお、オリンピックという大きな計画に回収し尽くされない都市の「日常性の破片」を知覚するということを意味する。別にこれはオリンピックに抵抗するとかそういう大それたことではない。それどころかオリンピックに熱中していたとしても、それと同時にこうした小さな破片を気に掛けることは、ドッツのメンバーである「・ちゃん」が好きならば何も難しいことではない。「・ちゃん」に反応する鋭い五感を備えていれば、「東京2020」のなかに「日常性の破片」を見出すことはたやすい。それはちょうど、いままさにあなたが読んでいるこの「東京2020」という文字列が、結局のところは小さな無数の「点たち」によって構成されているのを想像することと同じくらいには簡単なはずなのだ。

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