優しさは言葉じゃ足りない(薄情者の気付き)

たまに人の優しさを一気に思い出して泣くことがある。記憶力がないから直近で受けたものだけだけど、走馬灯のように流れる。ちなみに素晴らしい音楽と出会ったときにこの状態になりやすい。情緒不安定か。

わかりやすい優しさはもちろん、何もできず寝たきりになったとき、手持ち無沙汰でぼーっとし続けていたら良い音楽を勧めてくれた。嫌な空気を笑いで溶こうとしてくれた。そんな何気ない優しさも思い出してダバダバ泣く(たぶん相手は優しさでやったわけじゃないけど)(でも皆のために空気を変えるのだって優しさだと思うわけよ)。

そしてふと気づく。このとき思い出す優しさって、すべて行動だ。何かあったとき「大丈夫?」「ゆっくりしてね」と声をかけてくれる人たちのこと、そのときは優しいなあって思ってるはずなのに。心にはあんまり響いてないみたいだ。うん、優しくかけられた言葉なんて全然残ってない(いや、言葉も立派な優しさなんですよ、なんですけどね)。

ここから、優しい言葉は優しくなくて、本当の優しさは行動でしか表せないのかもって仮説を立てた。手一杯になって苦しんでるとき、そこにいないのに「いつでも助けるから声かけてよ」って言う人より、実際に手伝ってくれる人のほうが助かる。体調が悪いとき、「お大事にね」って言葉をかけられるより背中をさすられたほうがいてくれてありがとうって思う。(より自分に手間をかけてくれてるから当たり前といわれればそう)

まとめると、言葉に力はあるけど、結局優しさは行動ともなってこそってことだ。

で、自分が人に優しくしたいときどうしてきたか考えた。だいたい言葉だけだ。「助けがいるなら声かけて」と言って相手からの発信を待ってた。それでいっちょ前に優しくした気でいた。優しさって「あなたが大事です」と伝える手段の一つでもあると思ってる。だからこれまで大事な人に表現してきたつもりだった。全然できてなかった。うわ〜頭抱える。優しくなりたいと考えながら、無意識に「優しい」を適当に扱って生きてきたことに気付いた。いやになるね。

これからは言葉と一緒に行動もしていきたいと思う。荷物待ちましょうか?じゃなくて荷物持ちますよと手を差し出すのだ。本当の優しさを振りまける人間にいつかなれると信じて。

(たまにはキメ顔で締めたかったけど、慣れないからむりやり感否めない)

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