『営繕かるかや怪異譚 その弐』読後感想

あらすじ

両親と妻が鬼籍に入り、かつて花街だったという古い町並みにある町屋の実家に戻ってきた貴樹。彼が書斎として定めた部屋の書棚に立てかけられた鏡をずらしてみると、柱と壁の深い隙間の向こうに芸妓のような三味線を抱えて坐る儚げな着物姿の人影が見えた……(「芙蓉忌」)。夕暮れの闇が迫る中、背戸に立つ袴を着た鬼が、逃げようとする佐代の肩を掴み──(「関守」)。城下町の情緒が漂う怪談、全6篇。解説・織守きょうや
『営繕かるかや怪異譚 その弐』
著 小野不由美
角川文庫


「芙蓉忌」

「壁の向こう」の芸妓の女に入れ込むが、その女はこの世の者ではなくて──という話。タイトルの通り、本編中に芙蓉の花の描写が何度か出てきます。

 わたしは小野不由美先生のファンすぎる全肯定オタクですが、その中でも自然物の描写と「そこにいる」モノの描写が大好きです。

 その様子はなぜか貴樹に芙蓉の花を思い出させた。退紅というのだろうか、少し褪せたようにくすんだ薄紅色の花。儚く哀しげに思えるのは、芙蓉の花が朝に咲いて夕には萎む一日花のせいか、それとも近所の墓地にある大樹の印象が強いせいだろうか。

 動植物への造詣が浅いので、いちいち検索しながら読み進めていくことが多いのですが、芙蓉の花の画像一覧をズラッと見ても、自分では「綺麗なピンクだなぁ、白もあるんだ。少し濃いめの赤も……これが退紅かな……」という殊更に浅い感想しか持てず。

 でも、描写で分かるのは美しさだけじゃなくて、貴樹が壁の向こうの女に何を感じているかなんですよね。
 褪せて見える。儚く哀しげに見える。翳った狭い部屋にいる女を一日花に喩える。
 特に「翳った」は朝でも晴れでも部屋が暗ければ使うんでしょうけど、どことなく、日が差さない曇天の、今にも雨の降りそうな午後を想起させる気がします。

 貴樹は無意識に「女」の寿命が幾許もないような気でもって彼女を見ている。死んでいるとはつゆほど思わないうちから、死相による翳りを見ている。そんな気がするし、そんなふうに読まされている気がして好きです。

 通して読み終わったあとに思うことですが、庭師は「傍観者」なのか「当事者」なのかを妄想したり、テーマとして「情死」が置かれているので当時の情死についても詳しく調べたくなったりするんですよね。数珠繋ぎ的に作中人物の背景だったり時代背景だったりが知りたくなるので、小野先生の小説はカロリー使うなあといつも思います。

 そして、読んでハッと気付かされたのは

 拾い上げたその封筒には宛名も切手もない。封を切って中身を取り出すと、紙が一枚。その紙には拙い鉛筆の筆跡で「あいにきて下さい」とだけ書いてあった。
(中略)ただ耳を当てているしかない貴樹のもとには、今日も拙い手蹟の手紙が舞い込んでいる。

 ここの最後のシーン。
 ああ、書いていたのは「この手紙」だったんだ。情死を求めて目を合わせてきた女はひたすら「あいにきて下さい」と懇願していたんだ……。
 あれ……? じゃあ、「女」は泣きながら何を読んでいたんだろう。

 そう何も分からないまま終わるんですが、わたしは異界とこの世が「うまく接続されていない感」が好きで怪異譚やら妖怪譚やらホラーやらを読むんですね。連綿と繋がっていく、根拠があるお話よりも、足場も時間の流れも危うくて、磁場や電場が歪んでいるような感覚が走るお話が好きです。
「芙蓉忌」にはそれを感じました。一緒に死んでくれる相手を探し求めて、でも見つかったからといって消えるわけでもなくまた誰かを求め続けて……。じゃあ、引っ張られた弟が死んだ瞬間は「女」は一緒に死んだんでしょうか。死ぬことはあいにいくことではないんでしょうか……。
 どう考えてもうまく接続されない、ズレた感じを味わいつつ、感想は終わりです。


「関守」

「関守」の話がめちゃくちゃ好きです。こいつなんでも好き好き言ってんな──は間違いではないですが特にめちゃくちゃ好きです。

「山に棲む天狗」「鬼」「神社の番人」に極め付けが「童歌の発祥地とそのエピソード」なので好きじゃないわけがなかったです。

「……わたし、守ってもらったんだ……」
尾端は眼を細めて微笑む。
「猿田彦命は天孫降臨の際、邇邇芸尊を道案内したと言われる神様です。それで道の神ともされるんです」
「道の神様……」
「修験道とも縁が深い。……あなたが間違いなく帰れるよう、導いてくれたのかもしれませんね」
※「邇」は作中では簡易体を使用

「かるかや」シリーズは、尾端の造詣の深さと優しさが大好きです。尾端、優しいですよね……。解説にて織守さんも書いてましたが、尾端自身に特別な力があるわけでないのに、現れると「来てくれた!」ってホッとするし心強いし、もう大丈夫なんだなって気持ちになります。

 猿田彦命も、神社に畏怖の念を持ちながらも正直に話して入れてもらおうとする子供に信仰心を感じて道案内を名乗り出たのかと思うとめちゃくちゃイイ……しかも強面。どう見ても鬼か天狗な顔をして、人を惑わすどころか正しいところへ帰そうとしてくれるなんて……!と、尾端にも猿田彦命にもキュンと来てしまいました。
 平和な話で良かったです。好きでした。


「まつとし聞かば」

「たち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む」

たとえば、飼っていた猫が行方不明になった時、おばあさんなどが、この歌を短冊に書いて、猫の皿を伏せてその下に置いておくのを見たことがありませんか?
この歌は、別れを惜しむ歌ですが、一方でいなくなった人や動物が戻ってくるように願う、おまじないの歌でもあります。
https://ogurasansou.jp.net
長岡京小倉山荘 京都せんべいおかき専門店
「読み物」ページより

 おせんべい屋さんの読み物ページですが、今回の話にぴったりだったため解釈を引用させてもらいました。

「誰かに戻ってきてほしい」という感情は、叶うこともあれば叶わないこともあります。そもそも「戻ってきて」と願う時点でなんらかの離別が発生したのは間違いないので、この願いは叶うも叶わないも半々くらいなんじゃないかと思います。恋人や友人との些細な喧嘩による離別や、愛する人との死別やと、要因は多岐様々でしょうけど。

 作中では、皆が皆「戻ってきてほしい」の想いを少なからず抱えているような感じでした。

 俊弘は病気になった母親を。
 俊弘の息子の航は、飼っていたが行方不明になってしまった猫の小春と、入院している祖母を。
 俊弘の元妻の両親は、死んでしまった娘の形見としてなのか、航本人を。
 そして、隣の家の「猫婆」が体調を崩して入院してしまったことで死んでしまったたくさんのペットたちが、猫婆を。

 みんなが何かを望んで、望んだまま動けない状態で止まっている。膠着状態をつくったのは、俊弘でもあり違うものでもありました。それでも皆が止まってしまっていた。

「……小春は帰ってこない。この隣に埋まっているから」
(中略)
「酷いよ。ぼく、小春にお別れ、言えなかった」
(中略)
「おばあちゃんも、本当は死んじゃったの? だからいつまで経っても帰ってこないの?」
「いいや」と俊弘は首を振った。「お祖母ちゃんは具合が良くない。ずっと意識がないんだ。お医者さんは懸命に治療してくれているし、きっとお祖母ちゃんだって頑張ってる。でも、いつになったら戻れるのかは分からないんだ」

 隠し通すのを観念してやっと俊弘が航に伝えた内容は、航が持っていた二つの望みのうち、小春が戻ってくるという望みを断ち切り、祖母が戻ってくるという望みを先へ繋ぎました。

「ぼく、おばあちゃんはぼくのことが嫌いになって帰ってこないんだと思ってた」
 航は、ぽつりと呟く。
「お母さんみたいに出て行ったんだって」
 ──理解していたのか、と思った。
「おばあちゃんの馬鹿、って思ってた……」
 呟いて、航はもう一度泣き出した。

 理解していたのか、からは俊弘が航を甘く見ていた様子が分かります。死を理解出来るのか、理解してしまったら辛いんじゃないか、と先延ばしにして。母親のことには触れずに死に目からも遠ざけて育てて。それでも「理解していたのか」と思う俊弘は勝手ですが人間味があるな、と思いました。

 夜に航に寄り添って寝る「何か」の重い足音も、俊弘が警戒を解くと次第に「小春の足音」のような軽やかな足音に変わっていきました。
 祖母の意識も同じ頃回復しました。
 時間が動き出すのには、「時間が止まっている」という逆説的な認識が必要なのかもしれないですね。「死」を認め、「死後」も認め、「死に向かう緩やかな時間」も認めることで、現状が「回復」に向かう時間も動き始める気がします。

 かるかやは「怪異」メインというよりも「心」に焦点を当てたとき、そばに怪異があるときもあるというスタンスの話があります。
 個人的には怖い話が好きですが、自分でお話を書くときにすごく参考にしたいのはこんな話だよな〜、と思いました。「心」を大事に。



 全部で6篇ありますが、全部書くと文字数が多くなりすぎるので、後編としてまとめます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?