戦時中にラジオを聴いていた方の回想記

※本稿は『月刊短波』1981年2月・3月号に掲載された佐藤純一氏(掲載当時、民間放送局技師)の回想記「戦時中に知ったラジオを聞くことの面白さ」からの抜粋です。

(概要:佐藤氏は家にあった電蓄(レコードプレーヤー)に付属したラジオで放送受信にのめり込み、その後中学二年生になった昭和18年、学校の先輩から「内緒だぞ」と、短波受信機製作の手ほどきを受け、短波ラジオを自作。当時、短波放送受信が禁じられている中、隠れるように海外の放送を受信していた。)

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『講習会を受け将来を決める』 開戦当時優勢であった日本軍も、昭和18年に入ると、しだいに劣勢に追いやられているようだった。日本の大本営発表では、日本軍は連戦連勝している。しかし、アメリカのKGEIの日本語放送を聞くと、戦況はどうもアメリカ軍に傾いているように思えた。 今から考えるとKGEIのほうが正しかったわけだが、当時の私は、いわば軍国少年といえた。私に限らず、級友の多くは学校で連日「日本は神国。米英などに負けるはずがない」と叩き込まれ、多かれ少なかれ軍国色に染め上げられていた。私はKGEIの放送はデマだと信じた。 話はちょっと戻るが、昭和18年の12月に、大阪府が府下の中学生を対象に通信技術講座を開いたことがある。私はこれを受講し、ここで通信に関する多くの理論と実践を学んだ。また、大阪中央放送局の放送会館(現在のNHK大阪放送局)や送信所を見学し、多数の短波受信機、水冷式の巨大な真空管、超特大のバリコンに驚き、圧倒された。そして、「よし、おれの将来の職場は何が何でも放送局にする」と、固く心に決めた。そして事実そのとおりになった。

『大本営発表とKGEIニュースの差』 昭和19年になると戦況は日本にとって一層不利になってきた。7月には日本軍はインド東北部のインパール作戦に失敗、多数の戦死者を出して撤退し、同じ7月にはテニアン島、グアム島も陥ちた。 日本の大本営発表では、これらは単に作戦上の都合による撤退と発表していたが、KGEIのニュースでは、日本軍の各方面での敗走を克明に伝えていた。これでは、いかに軍国少年でもたまらない。あるいはKGIEのほうが正しいのではないか・・・・・ふと、そんな疑念がチラつきはじめていた。 翌20年になると戦況はますます悪化。3月には硫黄島が玉砕し、これと前後して、サイパン島からはB29による大空襲が始まった。大阪も3月中旬の夜間大空襲で市の半分を焼失した。 同じ頃、VOAの日本語番組とAFRS(Armed Forces Radio Service)を中心に増強され、朝から夜まで短波帯のどのバンドでも、VOAの日本語とAFRSの英語番組が強力に入感するようになった。二つの放送は同時に、サイパン島からKSAIというコールで、中波(※一般にAM放送といわれているもの)1010KHzでも中継されていた。 日本政府はこのVOA日本語放送にジャミング(※妨害電波)を掛け、電波妨害を始めた。しかし、私は短波で直接サンフランシスコを受信していたので、べつに支障はなかった。 4月には沖縄も米軍の手に陥ち、日本はいよいよピンチに追い込まれた。5月にはベルリンが陥落してドイツが無条件降伏した。それと同時に、上海のドイツ系のXGRSが放送を停止して受からなくなった。そのころ、すでにFFZもXMHAも放送を停止していた。これで、それまで1日中受信可能だった欧米系の上海局がすべてなくなったわけで、上海局で育ったような私にとっては大変なショックだった。

一方、戦況の方は、サイパン島を航空基地にしたアメリカ軍の空襲が一層烈しさを増してきた。大阪も3月に続いて6月にも焼夷弾による大空襲を受け、市街はほとんど焼野原となった。私の住んでいた大阪府豊中市は幸運にも被害は少なくてホッとしたものの、市街地に住む級友たちの安否を思って、見渡す限りの焼野原を半ば呆然と見ていたものである。

『VOA日本語の予告放送』 7月に入ると、VOA日本語放送が予告放送というか、興味ある放送を始めた。「日本の皆さん、アメリカ軍は日本国民と戦争しているのではなく、日本軍閥と戦っているのです。アメリカ軍は日本軍閥の施設を破壊するために、7月○日、次の都市を爆撃します。親愛なる日本国民の犠牲は望みません。避難してください。爆撃する都市は○、△、×、□です」 空襲は、確かに予告放送どおりに行われた。だが、こういう情報は一般には全く伝わらず、一般市民の多くが犠牲になった。 私はそこで、深刻に悩んだのである。VOAの予告放送を知らせるべきか、知らさざるべきか・・・・・。知らせれば私は軍法会議にかけられて死刑。知らさなければ犠牲者が増える。悩んだ末、幼かった私は結局勇気が持てず、後者の道を選んだ。今から考えて、ザンキに堪えない。

VOAはさらに、ポツダム宣言による日本への無条件降伏の勧告や、広島と長崎への原爆投下のニュースも伝えてきた(原爆投下については予告放送はなかった)。9日にはまた、ソ連参戦のニュースも伝えてきた。一方、日本側のニュースはポツダム宣言については一言も触れず、原爆は新型爆弾と表現していた。また、ソ連の参戦は簡単に伝えただけで、相変わらず「本土決戦で敵を撃滅せよ」との軍のアピールを放送していた。だが、私は幸か不幸かVOAをはじめとする短波放送で戦況の末期的症状を知っており、日本はもはや余命いくばくもないと覚悟を決めていた。

8月11日のVOA放送は「日本はポツダム宣言を条件付で受諾したいと伝えてきた。しかし、連合国側は無条件受諾でなければ応じられない」というコメントを流してきた。その後も、VOAは引き続き無条件降伏を求めるメッセージを流し続けた。いよいよ終結へ向かって動き始めたらしい。受信機を前に、私は息をつめてVOA放送を聞いていた。それと同時にそれまで烈しかった空襲が、まるで嘘のようにピタリと止まった。それは不気味なほど静かで、あるいは助かるのではないかと、私はかすかな希望を抱いた。

『War is over, 戦争は終わりました』 忘れもしない8月14日の夕方、VOA放送は突如、「War is over,戦争は終わりました。日本は無条件降伏しました。世界に再び平和がやってきました」とのニュースを流し始めた。ついに戦争は終わったのだ。しかも、日本の全面降伏という形で。私は予期しなかった敗戦という不安と、命だけは助かったという安堵感が絡み合い、複雑な気持ちを持て余していた。 同時に日本も、「明日正午、重大な発表があるので必ず聞いてください」と、繰り返し放送し続けた。近所の人たちは当然のことながら無条件降伏とはつゆ知らず、明日は天皇陛下の激励の放送でもあるのだろうと、まだ日本の勝利を期待していた。私はむろんのこと、近所の人には放送の内容は伝えられなかった。

翌8月15日正午、ご存知のとおり陛下の玉音放送があり、日本はポツダム宣言の受諾、すなわち無条件降伏ということになった。私は前日のVOA放送、そしてこの日の放送と2回も敗戦の放送を聞くことになり、何やらひたすら疲れ、すっかり消耗していた。 それでも、これで自由に海外の短波放送を聞けるという開放感もあって、大っぴらにダイヤルを回しはじめた。 ところが、9月になって真空管UZ-57がNGとなってしまった。当時はラジオの部品はまず入手困難で、さらに学校の授業も再開され、食糧難にも悩まされ、あれやこれやが重なって、短波をはじめラジオの一切から一時手を引いてしまった。

『ラジオとの出会いが人生を決めた』 思い返してみると、私はある意味では幸せであったと思う。父の買った電蓄が縁でラジオに興味を持ち、ラジオの自作から短波を知り、世界の放送を聞くことで放送そのものに興味を持つようになった。そこで大学も工学部の通信工学科へ進み、卒業後は放送会社へ就職、好きな放送技術の仕事をさせてもらっている。もし電蓄との出会いがなく、あるいは戦後短波との再会がなかったら、私の人生はまったく別のものになっていたかもしれない。人生、何がきっかけになるか分からないものだとつくづく思う。



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