【妄想旅行記②】果ての港

昨日、わたしは最果て島へ行った時の話を書いたが、これはその続きである。散々な目に遭いながらも最果て島に辿り着き、そこで世界の果てを見て孤独な感傷に浸りたいような気分を吹き飛ばされてしまったわたしは、港にもうしばらく滞在することにしたのだ。

宿を見つけ街に出たわたしが最初に向かった場所は街の魚市場だった。港町と言えば魚市場という気持ちもあるにはあったが、なによりわたしはあの島で食べたセキトウウオの味を忘れられずにいたのだ。ここはあの島からほど近い港だからと小さな期待を胸に抱いていったのだが、わたしは大事なことを失念していた。魚市場の朝は早い。代わりに夜も早いのだ。わたしが市場についた頃には観光客向けの店もほとんど終わってしまっていた。それもそうかと思いつつも落胆を隠し切れなかったのだろう。シャッターの下りた店舗の前で立ち尽くしていると一人の少女が私に声をかけてきた。彼女は「もしかしてご飯食べられるところ探してるの?ならうちのお店においでよ」と大人と子供の間の年ごろ特有のはにかんだ笑顔で誘ってくれた。腹を空かせて食事処をを探していたというよりはセキトウウオを求めてきたというほうが正しいので別段食事は急ぎではなかったのだが、こういう出会いは旅の楽しみだろうとわたしはついていくことにした。

店は魚市場からほど近い路地裏にひっそりと佇んでいた。使い古された言い方をするなら「隠れ家のような店構え」というのがまさに正しいだろう。といっても、最近の小洒落た店というよりは文字通りの隠れ家のような古い店ではあったが。中に入ると店内には何とも言えずいい香りが充満していて、先ほどまで食事は急ぎではないなどと思っていた癖に現金な腹の虫は途端ぐうぐう鳴りだした。少女はわたしを席まで案内すると裏に一度引っ込んで、エプロンと伝票を持って戻ってきた。そして一丁前に「ご注文は?」なんてすました顔で言うものだから、わたしは少し笑ってしまった。しかし聞かれたからには答えねばなるまいとメニューを開くと、個人経営の店らしく品数は多くない。昼時だからなのかもしれないが。しかしそこに載っていたのはどれも見たことも聞いたこともない魚料理ばかりでわたしは思わず少女の顔を見上げてしまった。それがあまりに間抜け面だったのか、彼女はくすくす笑ってから説明をしてくれた。イトトリウオは子持ちシシャモに似た魚で素揚げでからっとあげている、ギョニンギョの肉はまるで哺乳類のそれでうちではカツにしている、シャクリムシは虫とは言うけど魚類でお刺身が一番おいしいなど楽しそうに話す彼女を見ていると、子供の頃に夢を語っていた自分を少しだけ思い出した。「せっかくなのでおすすめを」と言うと彼女は「じゃあせっかくだしいろいろ出してあげる」と笑って奥に引っ込んでいった。彼女はどうして見ず知らずのこんな旅人に優しくしてくれるのだろうか。最初に船に乗せてくれた彼といい、この港の人は親切な人が多いようだ。しかしまあ、最初の彼も優しかったは優しかったが船は転覆したし、これでぼったくりだったら綺麗にオチがつくのだが。台所から聞こえてくる包丁や火を使う音を聞きながらそんなことを考えつつしばらく待っていると、彼女が手にお盆を持って再び姿を現した。「わたしの特製定食だよ」と彼女が差し出したそれを覗くと、カツに素揚げに刺身と盛りだくさんだ。というかこれはさっき説明を受けたもの全て乗っているのではないだろうか。「いいの?」と尋ねると「いいの」と笑って返された。この純粋な笑顔の裏に先ほど懸念したようなものが隠れていないことを祈るばかりだ。

腹の虫がやかましかったので、わたしはさっそく箸を割った。「いただきます」と手を合わせると少女は嬉しそうに「召し上がれ」と言う。まずは刺身から、と箸を伸ばして身を掴んで驚いた。盛り付けられているときは薄い桃色に見えた身が持ち上げると透明になったではないか。正確には非常に薄く切られているため薄桃色がさらに薄まって透明に見えるようだ。刺身醤油につけて口の中に放り込むと、あの薄い切り身からは想像できないほどしっかりとした歯ごたえがあり、しかし噛めば噛むほど身が甘くとろけてくるのだ。最初に手を付けた刺身があまりにもおいしかったので、俄然他のメニューに対しても期待が膨らんだ。次は素揚げにした魚だ。素揚げというのだから衣などはつけていないはずなのに表面の皮がきつね色にぱりっと揚がっていて口元に近付けただけで香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。一口噛めば、ぱりぱりになった表皮の中から魚とは思えないうまみの詰まった汁が口いっぱいに広がった。味付けはシンプルに塩だけのようだが魚のうまみと香ばしさだけで十分いける。なんだか日本酒が欲しくなってしまったが昼間から酒を煽るのはなんだか少し気が引けた。ここまで来たからには最後の品、カツに手を付けない訳にはいかない。奇妙な名前の魚だったような気がしたが、見た目は普通のとんかつと大差ない。本当にこれは魚なのか?と疑問に思いつつソースをかけて一口齧る。するとどうだろう、それは口の中であっという間に溶けていってしまったではないか。こんなもの、哺乳類の肉なんてめではない。舌で潰しただけでとろけていくほど柔らかい肉をさくさくの衣でコーティングすることでそれを崩壊から守っているような、そんな気持ちになる。味の系統としては鶏肉に近いが、柔らかさはこんにゃくのそれに似ていると思った。かといって脂っこいのかと言われればそうではなく、あっさりとしたシンプルな味でソースとよく合った。…つまり何が言いたいかと言うと、彼女の作った料理はとにかくうますぎたのだ。わたしは我を忘れたようにそれを貪り食った。

「ね、おいしいでしょう」わたしの反応を見た彼女はそう言って笑っていた。思えばこの子は何が楽しいのかずっと笑っている。接客業なのだから愛想がいいのだと言ってしまえばそれまでだが、彼女はわたしと会ってからこっち心底楽しそうにしていた。少なくともわたしにはそう見えた。わたしは彼女に食事への賛辞を送りながら「でも君は一体どうしてそんなに楽しそうなの」と尋ねてみた。すると彼女は今日一番の飛び切りな笑顔で「わたし、人とお話しするのが大好きなの」と言った。その笑顔の意味はわたしにはいまいち分からなかったが、彼女が楽しそうにしていることがなんだかとてもうれしかった。

食事を終えたわたしは彼女の店を後にした。食事の代金は普通の定食程度でぼったくられなかったことに心の中で小さく安堵した。彼女は店の外まで出てきてくれてわたしが見えなくなるまで手を振っていた。その手の白さがなんだか妙に記憶に残った。

わたしはその後もここにニ、三日滞在したが、その間彼女の店には行かなかった。帰る前ににもう一度寄ろうと思っていたからというのもあるが、やはりせっかく来たのだからあれこれ試してみたいという思いもあった。そうやって古い街並みを満喫して、食を満喫しているうちに、いつしかわたしは彼女の店のことを忘れてしまっていた。あんな強烈な体験をどうして忘れてしまっていたのか自分でも分からない。あの店のことを思い出したのはこうして自宅に戻ってこの旅行記をつけ始めてからだった。不思議なこともあるものだとは思ったが、あの果ての街ならそういうこともあるのだろう。これだから旅というのは面白いのだと、わたしは次の旅の予定を立てながらそう思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?