見出し画像

海辺の小さなまちで

しばらく東京に行っていて、ひさしぶりに帰ってきた。
神戸空港から三ノ宮に着いて、メシ食って、新快速のダイヤがおかしなってたせいで明石で走って、船に間に合った。岸壁を離れると、どっと疲れとともに「ああ帰ってきた」感がこみ上げてくる。

岩屋という天国
淡路島の北端の岩屋というまちに暮らして3年目になる。
このまちでは、ひとは助けあって暮らすという、縄文のころから続く人間集団の原初的かつ当たり前な感覚が今も普通に生きている。
一歩外に出ると、知り合いに会う。風呂屋に行けば「見いへんかったね、どっか行っとったん?」ておかみさんが聞いてくる。プライバシーなんかほぼ皆無な日々だが、それがとても心地いい。

画像1

冷蔵庫の中がなんも無いんで、おばちゃんが道端で売ってる魚を買いに行く。あれがいいこれが旨いとひとしきり客やおばちゃんらと会話して、小ぶりのさばときすごを買う。400円。
さばはきずし(生鮨。関東で言う〆鯖)に、きすご(きす。+ごは古語で魚をさすという)は開いて天ぷらにしよ思てうちで下ごしらえ。
魚を捌くのがだんだんうまくなる。自分でできることは自分でやる。ゆうか自分のできることが増えていくのは、手が上達してゆくんは、単純にうれしい。

画像2

画像3

こんなことやっとるから服作る時間がなくなるんやなと思いながら(そしてこんな文章まで書いているからやなと思いながら)、それも含めての人生やんかと正当化する。


都市の自由
若いころは私も「都市の自由」に惹かれていたが、今はそのような自由、個人主義的な自由は、少なくともいま私の求めている自由ではないと感じている。

もしかしたら、現代の都市が、とくに東京が、「人が出会い、つながる」という機能を失いつつあるのかもしれない。
前世紀の都市は、地方の土着的なしがらみを抜け出した個人が、それまで自分を規定していた共同体内の立ち位置を一時的にしろ棚上げして、真っ白な個人として互いに出会い、新しいことをはじめられるという魅力にあふれていた(気がする)。
しかし現代の東京にそのような可能性はあまり残ってはいない。(まったく無いとは思わない。今回東京であまりにおもしろい人たちに出会ったので。この話はまた別稿。)

経済偏重の新自由主義や国家間の覇権競争&GDP競争の激化が「自由な都市」を窒息させてしまう。・・・そういう時代なのかもしれない。(ざっくりすぎるか。
ほんまにそうなんかまたいずれゆっくり考えてみたい思います。乞ご期待)

画像4

布団干しとるとこがうちです
( noteってキャプションのレイアウトできへんねんな。ま、えーけど)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?