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感想なんて!

感想なんて!
そんなもの人に晒すもんじゃないと思う。

言葉は自問自答を繰り返すことによってでしか自分のものにならない。

言葉になりきれていない言葉が腹の中でぐるぐる廻る。
矛盾した感情がぶつかる。
揉みに揉まれる。
こうして雑念全てが削ぎ落とされ言葉が言葉としての形を獲得した時、
我々の言葉は初めて外の世界に飛び出し、他者の耳に届き、最後には心を揺さぶる。

一言で言えば言葉は自問自答を経て昇華するのである。

確かに自分の思考、感情を文字におこす行為自体には意味はある。言葉の昇華の過程の一助になるからだ。計算をする時、実際書いてみると頭が整理されてミスなくできるのと少し似ている。可視化という行為には、煩雑な脳内を理路整然とさせ、次の段階まで引っ張り上げてくれる力がある。

しかし感想を不特定多数の人に見せたいという邪な気持ちが出てくる時点でそれはまだ本物の言葉になり切れていないと私は思うのだ。他者という存在を変に意識してしまって私のかいた感想文の大半はどうも嘘くさい。


「これ連載しないの?」
ある友達に言われた一言。

ちょっとした遊び心。
ちょっとした虚栄心。
雑念だらけな二流の感想文だとわかっていたが
自分のお尻に火を付けるためにあえて投稿した留学抱負だった。
留学中ブログを書く気なんて毛頭無かった。


 「感想なんて! まるい卵もきり様ようひとつで立派な四角形になるじゃないか。伏目がちの、おちょぼ口を装うこともできるし、たったいまたかまが原からやって来た原始人そのままの素朴の真似もできるのだ。私にとって、ただ一つ確実なるものは、私自身の肉体である。こうして寝ていて、十指を観る。うごく。右手の人差指。うごく。左の小指。これも、うごく。これを、しばらく、見つめて居ると、『ああ、私は、ほんとうだ。』と思う。他は皆、なんでも一切、千々ちぢにちぎれ飛ぶ雲の思いで、生きて居るのか死んで居るのか、それさえ分明しないのだ。よくも、よくも! 感想だなぞと。
 遠くからこの状態を眺めている男ひとり在りて曰く、『たいへん簡単である。自尊心。これ一つである。』」

(もの思う葦、太宰治より引用)


。。。
自尊心。
そうだよな。
やっぱり感想文を書くなんて馬鹿げてる。
そう思った。


しかしある日、蔦谷書店であるおじさまに出会った。
彼は突然、私にフリーペーパーを手渡しながら
これおすすめですよ、
と言って話しかけてきた。

ありがとうございます、
とだけ言って去ろうとしたら

ここのセクションがねえ、一番面白いんだよ。
と彼は目を輝かせながら言った。

ちょっと色々唐突すぎて戸惑いが隠せなかったが、その後かなり
話し込んでしまった。


感想というのは自分の胸にしまっておくものだと信じていたがどうやらそうでもないらしい。
これ本当に好きだな。誰かと語り合いたい。
幸せを分かち合うことができたら。
結局何事もそういう単純な感情からしか始まらないのも事実である。
声に出さなければ何も始まらない。
言葉になりきれていなくても声を発すれば偶然とも必然とも言える出会いが自然と引き寄せられるのかもしれない。

自分の言葉が、考えが、
己の中の傑作の領域を抜け出すためには誰かとの共鳴が必要だ。

蔦屋書店で出会ったあのおじさまとの会話で感じた興奮。

二流の自分に落胆しつつも、あの時の感動をもう一度経験できるのではないかという期待を抱いて、ぼちぼちと留学体験記を書いていこうと思う。


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