ガキにはガキの熟れた柿

みなさん、熟成してますか~~

桃栗3年柿8年ワイ氏23年と言いますように、今の自分が熟成されるまで23年も年月を要したんですよね~ 長いな~

しかし人間は熟れきったらそこから腐っていくなんてことはなく、その瞬間それぞれが熟成した成果だと思ってるんですよね

だから80歳には80歳の、8歳には8歳なりの熟れというものがある、そんな気がしています。

この間親戚の子供の面倒を見に行ったんですけども、それはもう、生意気を具現化したような子供で。親をおっさん呼ばわりするわ、暴れるわちんぽはすぐ出すわ、そのくせ耳かきは泣くほど嫌うわ、制御不能の怪異ですね。しかしそれもなんだか愛らしくて、見ていて本当に飽きない。

そんな彼とlineを交換しているのですが(もうそんな時代ですよ)、かまってほしい時にはスタンプ連打で何としてでもコンタクトを取ろうとします。なんだスタ連って。こんな懐かしすぎるガキっぽいワードをこの年齢になって書くと思ってなかった。

大学が休みの日は昼まで寝ているので、たまにそれで起こされたりすると少々気分が悪い。しかし断るのも悪いので気が向いた時には一応電話をしてあげたりします。

大人が意見の違いでガヤガヤしている時には、蚊帳の外でゲームしながら「やれやれ、これだから大人は☺」とナメた顔。自分が子供であることを十分理解した上でこういう事を言うもんだから、傍から見ていると非常に皮肉っぽくて面白い。

子供らしさを存分に謳歌して毎日適当に生きる様には、なんだか子供としての完成形を見てしまいました。8歳の存在から得られる真理はこの無邪気さであり、これは未発達であるとか、未熟だとか大人の側から言えるものではないなと。

経過によって人はその様態を変えて大人と呼ばれるものとなり、流動する世界に対する指向をあちらこちらへと向けます。その地点で向けることができる情報にアクセスし、時には過ぎ去った子供の頃の思い出にも意識を当てて、自身を反駁し、制御し、内省することで新たな自己規定をします。ただそれが、段々と完成形に近づくというわけではなく、その瞬間それぞれが全て熟成された自分なんだと、そう考えるわけです。

あ~なんか堅苦しくなってきただなもね。弥生石器を押し売りするだなも。50000ベルだなも。あ~買えない?なんだなも?てめぇの両親を担保にしてでも買うだなも。今すぐ買うだなも。

(これは悪徳商法のたぬきに指向をむけた23歳の自分)

しかし今年は柿食べなかったな。あ~まだ売ってるかな

それではまた。あいあいお~~


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