波とともに来るトキ

「ニナ、ゴミ出しお願い出来るかな?」
「は〜い、おまかせあれ〜」
海辺に佇む1軒の純喫茶。カランと店を出ると、朝の潮風がエプロン姿の私を迎える。

今日の波は私を穏やかにさせる。とてもうららか。いつもの日本海は切り立った岸壁を刻む勢いで押し寄せるけど、気まぐれにこんな日もあるみたい。私は風を受けながらゴミ捨て場に向かう。

「すまん、ニナ、これも頼めるか?」
突然の聞き慣れた声。振り返ると、太陽みたいな眼差しで、私を見つめる。トキだ。私の唯一のお姉ちゃん。
ビアンキに跨ったポニーテールのトキは、本当にコバルトブルーが似合う。防波堤を背に、自転車を押して私に向かう。
「トキ、、、?帰ってきたの?」
「おうよ、まだ道半ばだけどね」
トキは空のペットボトルを手に持って私に差し出した。昔と変わらない、少し日焼けした、薬指の長い手。

私はこの手を見るたびに思い出す。海岸を毎日散歩したときのこと、堤防に沿って一緒に帰ったこと、サーフィンを教えてくれたこと。
私はこの海の町で待っていた。トキがすぐに帰ってくることを。
この2年、トキがいないと心細かったんだ。

大学に進学したっきり、本当に全く姿を見せなかったトキは、ただ1通の手紙だけを送ったきり、凪のように返事がなかった。その手紙には日本一周を夢見るトキの思いが綴られていた。だから、大学からここに来るときにはもしかしたら会えるかもって、そんな風に待ってたんだ。
私には、何かを夢見るなんて、そんな自信ないな。本当に、トキがうらやましい。
彼女の手を見ながら、私はペットボトルを受け取る。

「悪いね、せっかくここまで来たもんだから、どうしてるかなと思ってさ」
「私は、あいも変わらず叔父さんのお手伝い。」
「そうか。少しは板に付いたか?あんた、昔からそそっかしくて敵わないからな。伝票の書き方は覚えたか?」
「心配しないでよね、もう何年働いたと思ってるんだか、、、」
「あんたの粗相は根っからの性分だからな。数年で変わるもんかね」
「ちょっとぉ、本当に失礼しちゃう」
私の頭をわしわし撫でるトキ。私はこの手にいつも救われてきた。私はトキが居ないと、何にもならないんだ。
「実は少しこの先で諸用があるんで、またすぐに行かなきゃなんないんだ」
「もう行っちゃうの、、、?」
「あんたは仕事あるし、アタシばっかりに構う訳にもいかないだろ?すぐ帰って来るんだから、安心しな」
「本当だよ、絶対すぐだよ?」
「まかせなって、明日というわけにはいかないけど」
ハイタッチをして彼女は去る。自転車の荷台に積んだキャンプ用具が左右に小刻みに揺れながら、私を見送る。

私がここにいる間、彼女は一体何を得て来たのだろう。この日本を巡りつづけるトキを思うと、トキが潮に連れ去られて、水平線の向こうに行ってしまうような気になる。

ぼーっと新聞を読むおじさんのお客を眺めていると、カランとドアが開く。
「悪い、ただいま」
「えっ?」
なんと、トキは今日中に帰ってきた。

聞くと、どうやらタイヤに限界が来ていたようだった。修理する手立てもなく、知り合いの修理屋には連絡がつかない。田舎のネットワークは、肝心なときに限って機能しないのだ。
「トキ、予定は大丈夫なの?」
「まぁ、良いんだ。あはは、弱ったねぇ」
そう言いながら、特段彼女は焦る様子でも無かった。落ち着き払って
「今晩だけ泊めてもらえるか?」
私にそう伝えた。

「そう、それでね、若狭で出会った兄ちゃんがそれはもう血気盛んでね、、、」
かすかに聞こえる渚の音。布団を敷いた部屋の窓からは、月影がかすかに海面でゆらめいて見えた。
「で、そのあとどうなったの?」
「そりゃあもうおっさんは怒髪天よ。周りの人も必死になって止めるんだけどさ、するとそこで、、、」
私はトキの土産話を聞く度に心が踊った。私の知らない人。この町にないもの。この場所にアンカーを落としたみたいにとどまり続けている私には、知る由もない世界。本当に羨ましいと思った。私が得られないものを、トキはなんでも知っている。

「やっぱり昔からかっこいいなぁ、トキって。何だか私がちっぽけにみえるな」

「いや、私にはね」

少しトキが言いよどむ。

「結局、何も無いんだよ」
「そんなことない、だってトキは」
トキは、私をゆっくり見つめる。私は口をつぐんだ。

「そりゃ、この地元であんたにいろんなこと教えてさ、私だって何でも出来るって思い込んでたんだ。見栄だって堂々張ったよ。でも環境が変わって、私が見てたもの全てが井の中での出来事だって気づいたときには、もう、どこにも踏み出せなくなっていたんだ」

まどろみの目で、ニナは足先を眺める。

「気づいたら、私には何も残ってなくて。周りの誰もが他人でさ、ニナもおばぁもおじさんも、他の同期もいない場所で、いつの間にか、私は何の形もないただの女になってた」
また、ゆっくり私の方を向き直す。
「正直、何に向かってペダルを漕いでるのかもわからないんだ。今日ここで立ち止まらなかったら、結局ただひたすらに進むだけになっていたんだと思う」
そんな風に、トキのことを思ったことがなかった。前向きで何の淀みもないと思っていた。

初めて見たトキの表情。お姉ちゃんとしてではなく、ただ一介の他人としての顔を見てしまったような気がした。

私は、何を、伝えればいい?私は、

「でもね、私にとっては、トキは、トキしか居ないから」

私は、とにかく続ける。

「同じ様な道を辿った人が他にいたって、私にとっては、1人だよ。あのとき見たすべてが、私の心の中にあるかぎり、絶対、あなたは、かっこよくて、永遠のお姉ちゃんなんだから」
「本当に、そう思ってくれるか?」
「ほんとに、本当だよ」
私達は見合わせた。そして、おもむろに指を交わした。さざめく波とともに。
他の誰だって、この時間を共有できない。
私達にとっての唯一の波の音。唯一の時間。

昼時に見たトキの顔は、紛れもないお姉ちゃんだった。また背中を見送る私の目には、それはちゃんと、淀みのない、コバルトブルーのお姉ちゃんに見えた。大丈夫。私はいつでも待ってるからね、トキ。

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