『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー◆SF100冊ノック#15◆
■1 あらすじ
北極圏を航海する探検家ウォルトンが遭難者を助ける。ヴィクター・フランケンシュタインと名乗るその男は、かつて自分の作り上げた人造人間が引き起こした悲劇について彼に語り始める。
ジュネーヴに育ったヴィクターは、幼いころから学問に興味を持ち、やがて大学で自然科学を学ぶ。鋭い観察と研究の末、無機物に命を宿すことに成功したフランケンシュタイン博士だったが、出来上がったのは醜い怪物だった。思わず目を背けた博士を見て怪物は去る。それから2年の後、悲劇は始まる……
■2 映画
えー、今日はうんちく話をします。みなさん、トトロは好きですか。となりのトットロートットーロ。あの映画のオマージュ作品があるんですねー。オマージュっていうか、僕からしてみるとパクリですねー。いや、外観はそんなに似ていないんですけど、テーマというか、映画の「核」みたいな部分がほんとに一緒なんですねー。その映画こそ、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』なんですねー。インタビューの中で、宮崎駿は「ヤバそうだったので最後まで見られなかった」とか書いてますが絶対全部見ただろコラ、としか言いようがありませんねー。物書きの父と、二人の娘。一人は幼くて、空想と現実の区別がつかないんですねー。メイとサツキそのままですねー。その幼い妹が出あうのが、トトロではなくフランケンシュタインなんですねー。
「(オーディションのカメラ・テストで)“フランケンシュタインって誰だか知ってる?”と聞きました。彼女(アナ・トレント)は“ええ、でもまだ紹介してもらってないの”と言いました(笑)。この返事で彼女の感性に対する疑念は何もなくなりました。彼女はフランケンシュタインを知っていましたが、実在していると信じていましたし、そして、そのことが大切な要素でした」(ビクトル・エリセ)(元:シネマは自由を目指す)
メイとサツキのズレといいますか、幻想世界に住んでいる年代、その中の妖精として描かれるフランケンシュタインなんですねー。科学の粋を凝らした人造人間が再びファンタジーに回収されるんですねー。素晴らしいですねー。僕の卒論のテーマも想像上の存在と子どもということでど真ん中なんですねー。ただ、小説の『フランケンシュタイン』で描かれる「彼」のことを考えてからこの映画を思うと、なんだか泣けてきちゃうんですねー。
その映画の中で流される映画『フランケンシュタイン』が、1931年の映画なんですねー。見てはいないんですが、予告編を見るだけで、小説とはずいぶん違うことが分かるんですね。でも、この作品こそが、おそらく良く知られているフランケンシュタイン像なんですねー。「怪物くん」のあの姿ですねー。wikiのあらすじ見てみましょうか。
その肉体には犯罪者の脳が埋め込まれてしまったため、凶暴な怪物が誕生してしまった。怪物は研究室から脱走し、村で無差別に殺人を犯す。怒れる村人たちに風車小屋に追い詰められた怪物は、燃え盛る小屋諸共崩れ去った。
原作無視もはなはだしいんだよぶっとばすぞ!!!!!
■3 悲しい話
フランケンシュタイン"的"なものとして、僕は映画『シザーハンズ』を思い出す。センチメンタルな物語だけど、それでも、いまでも、僕のオールタイム・ベストの一作だ。ジョニーデップ主演。人造人間であるシザーハンズは、『フランケンシュタイン』の彼のように雄弁ではない。けれど、抱擁のシーンの愛、そしてクライマックスシーンのあの悲しい瞳は、やはりあの怪物の悲しみと怒りを体現していると感じる。だから、こちらの方がずっと『フランケンシュタイン』なのだ。
「きれいな、きれいな映画ですね きれいな映画といいましても、どこがきれいか? ―愛ですね」
「この映画も、あの化粧品売りのおばさんが、『まあ、かわいそうね』と言ったところで、見事に愛の映画になりましたね」
小説の『フランケンシュタイン』も、愛を求める一人の「人間」の話だった。もしアダムにイブがいなければ……彼はエデンを破壊しただろうか?
■4 さまざまな読み
解説に、この小説は「さまざまな読み」が出来る作品だ、ということがあった。その一つは、今あげたように「愛」をめぐるものだし、当然「科学」についての物語も存分に語られる。ただ、言及したいのは、やはりラスト周辺に重厚に描かれる、「怪物」の独白。さらに「罪」と「悪」の物語。当然、この二つの語はキリスト教と深く結びついている。しかし、人造人間の彼からすれば、「神」の存在は「人」のそれとは異なっている。
「どんな罪もどんな悪事もどんな不幸も、おれのものとは比べものにならぬ。……堕ちた天使は悪辣な悪魔になるのだからな。だが、そんな神と人間の敵にも友はいて、寂しさを慰めてくれるだろう。しかし、おれは一人なのだ」(p.396)
人によって作られた彼は、人の神にすがることが出来ない。いわば、無神論を強制された立場の存在となる。人間の規範に入らない(入ることが許されない)彼にとっては、罪・悪という枠組みが存在しえない。それでも、彼のラストの語りはあまりにも明晰で愛を求めている。彼こそ「悔い改め」ようとし、しかしそれが許されない存在だ。イエスであれば彼にどんな言葉を投げるだろうか。(これほど信仰を持った人を見たことがない!)
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この読み方とはまた別に、より「社会的な」見方が出来るように思う。「怪物」の独白のセリフは、単に悲しみを誘うにしては奇妙に現実的な側面があるように思う。ラストの彼の「雄弁さ」は、人造人間のリアリティを逸脱し、「作者の演説」のようになっている。教育を受けられなかった存在。「生れか育ちか論争」という議論があるが、「怪物」が悲劇的な状況に陥ったのは完全に「生れ」に還元される。読み込みすぎなのを覚悟で書くけれど、ここに何らかの啓蒙主義を見てしまう。悪人はそう生まれたのではなく、愛を注がれなかったのだ、教育を受けることが出来なかったのだ、彼らも被害者なのだ……とはいえ、そうしたモラル的な部分が見えながらも、彼の「悲しみ」と「愛」の物語がそれを包み込んでいることこそ、この小説が名作であることの証だとも感じる。
つい最近、現代によみがえったフランケンシュタイン……という、B級っぽい映画が公開されたのだけど、
僕はこれを見ても嬉しくなってしまった。原作の「怪物」にはあまりにも救いがない。誰一人彼を愛さない。だからこそ、『ミツバチのささやき』でも『シザーハンズ』でも、その彼を別の世界で救おうとする、そうした優しさの試みに勝手に読み替えてしまう。だから、この予告でも「あなたは怪物なんかじゃない」のひと言で、がぜん見たくなってしまったのだ。
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