見出し画像

『宇宙飛行士オモン・ラー』ヴィクトル・ペレーヴィン◆SF100冊ノック#21◆

■1 あらすじ

 ソヴィエト・ロシアに生まれた少年オモンは、親友ミチョークと共に、いつか宇宙ロケットに乗ることを夢見る少年だった。ソヴィエトの輝かしい発展。しかし冷戦は激しさを増し始める。文中の「7月15日の会議により戦前となった」という語は、プラハの春―チェコ事件で、共産主義国家と西側の争いがまた明確化した場面だろう。
 オモンとミチョークは宇宙への強いあこがれを語り、飛行機学校へ入学する。しかしすぐに、彼らだけがそこから連れ出され、秘密の月探査のミッションに参加することを告げられる。歓びに顔を輝かせるオモンだったが、その次に告げられた言葉に彼は表情を失う……

 作中に登場する「ルノホート計画」は実在してて、たぶんきっと月にもたどり着いている。現物はこの下に。かわいい。あらすじを読んで、わくわくボーイ・ミーツ・スペースなロケットもの……と思うと肩透かしどころかバランスを失って倒れたところをトカレフで頭を吹き飛ばされるので注意。まあ、それはそれで楽しい読書体験。

 ところでみなさんにお勧めなのは、ぜひともピンク・フロイドの『狂気』原題「Dark Side of the Moon」を聴きつつ本作を読んでいただくこと。

■2 虚構と現実

「俺もこの世も、ぜんぶだれかの想念にすぎない」

 ネタバレですが、本作は「虚構」を幾層にも巡らせた小説で、オモンの月探査船は、対外的には「無人」と発表されるのだけど、動力やら技術が足りないために、行ったきり帰れないオモンのような人間を「動力」として用いている、というもの。しかしそれさえも虚構で、有名な「アポロ陰謀論」と同様に、ロケットは発射されておらず、すべてはスタジオで撮影された作り物に過ぎない。最後の数ページで、そのスタジオからも逃げ出したオモンが、地上の地下鉄に乗るシーンがあるが、こうなるとこの現実の方がよほど「虚構」に思えてくる。

 この読後感、いつも引用しまくってるけど、またも安倍公房の『方舟さくら丸』を思い出させる。核兵器の恐怖におびえてシェルターに引きこもった主人公が、ラストで日常の町に戻るのだけど、そのとき世界の全てが透明になって見える―


 月探査の犠牲となったオモンの話は奇妙だが「物語」だ。それされもスタジオの録画だと知るとき、それは壮大なブラック・コメディとなる。僕は喫茶店でこれを読み、思わず声を出して驚いていた。運命に翻弄され転がり落ちる、壮大なほら吹き話。しかし彼が現実に這い出して、冷たい街を歩くとき―最初、僕はラストシーンを勘違いしていた。彼は眠っている間に「現実」―つまり、ペレーヴィンがこれを書いた1992年か、あるいはそれがいつでも「現代」のロシアに―たどり着いたのではないか。すべては「現代」に彼が見ていた夢だったとして……じっくりと読み返してみてもそんな描写は無かった。モスクワの地下鉄網は、ルノホート計画の際には既にあった。けれども、それでも、それはそう、『田園に死す』のラストシーンで、幻想世界の恐山と現実の新宿がつながるように、僕のいる現実の側が、唐突にこの薄い本のリアリティに飲み込まれてしまうような感覚―

 あるいは、共産主義の滑稽さと真面目さ、という点で、エミール・クストリッツァ監督の超名作『アンダーグラウンド』と響きあうところもあるだろう。エンデは「ユーモアとは、神の前に厳粛な気持ちで立つことと、滑稽な笑いをとることを同時にすること」と定義して、これはユダヤ人が発明した、と言っているのだけど、つまりそれは―故国を失い彷徨う存在、ということだろう。崩壊したユーゴスラヴィア、あるいはオモン・ラーの世界では崩れゆくソヴィエト・ロシア。狂騒―

■3 犠牲

 ウルチャーギンは読むようにと、日本人が書いた本をくれた。第二次大戦で特攻隊員だった人が書いたものだ。僕は自分の状況とその人の書いている状況とがあまりにもよく似ていることに驚いた。

 「国家の栄光のために犠牲になる」ことを望まれるオモン。もちろんこの小説の各所では、非常に滑稽で、あまりにももの悲しい、虚栄に満ちたロシアの姿―作者が言うようにその内面の姿―が描かれている。アポロ計画の陰謀論のように、僕らはそれを苦笑しながら読んでいく。本作が書かれたのは冷戦が終結した1992年。人間個々人を犠牲にしてしまう全体主義を嗤いながら―読むほどにそこへの価値を見つけ出してもしまう。

「オモン、覚えておきなさい、もちろん人にはいかなる魂もないが、魂とはそれぞれがみな世界だ。これぞ弁証法だ。そしてわれわれの事業が生き、勝利している魂がひとつでもあるかぎり、その事業が消えてなくなることはない。なぜなら全世界はそこを中心として存在しつづけるからだ……」
「わが国が宇宙開発において世界の頂点を極めるには、ただひとつの純粋で誠実な魂があれば十分だ。月の空に社会主義の勝利の赤旗をはためかせるには、そうした魂がひとつあればいい。だがともかくもひとつ、一瞬でもそうした魂が存在しなくてはならない。なぜならその旗はその魂の中にこそはためくのだから……」

   特攻、全体主義、あるいは自爆テロ―これらは人間の最後の日まで全面肯定はされないだろう。だが、けれど……(いや、そこに留保を挟むそのことにさえ何か許されないようなものを感じつつ)そのすべてに意味がない、ということが出来ない、とこの小説を読むと思わされる。犠牲とは、ルネ・ジラールが言うように、人間の本質的部分に関わっているものだと、再び思わされる。トンネルの中をさまようオモンの姿は、冷戦を抜け出して、世界の中へと飛び出し戸惑う世界の姿に思える。しかし、地上に出て地下鉄に乗った彼はもはや英雄でも、一個の個人でもなく―ポストモダンと呼ばれる世界を生きる一つの風景の染みのような、名前を自らはく奪してしまったような、リアリティの無い存在に見える。僕らはまだ風景になっていないだろうか。自信がない。

#宇宙飛行士オモン・ラー  #ペレーヴィン ロシア小説 ロケット

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?