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『ブラッドミュージック』グレッグ・ベア ◆SF100冊ノック#13◆

■あらすじ

 現代、あるいは近未来のアメリカ。バイオ・エレクトロニクスの時代が来た。カリフォルニアでは、シリコン・ヴァレーの次の時代として、エンザイム(酵素)・ヴァレーでのバイオ・チップの生産が盛んだ。ヴァージル・ウラムもそうした研究員の一人だが、彼はいつか独立するため、個人的な研究を進めていた。それは―一つ一つが思考するような細胞。
 その研究が上司にばれてしまい首になるウラム。研究結果も全て破棄しなければならない。しかし、ウラムはただ一箇所、彼のバイオAIを保存しておける場所を思いついた―彼自身の血液の中だ。
  仕事をやめてから、彼の人生は好調だった。体調は良いし、素敵なガールフレンドも出来た。しかし、やがてウラムの身体には奇妙な変化が起こりはじめる。友人の医師、エドワードに検査を依頼するが、その時には既に、引き返せないところにまで来ていた。頭に響く血液の音楽<ブラッド・ミュージック>

   1983年に発表の本作、分子生物学SFの先駆けだそう。日本だと瀬名秀明のパラサイト・イヴとか? 「SF」と言えば、宇宙や物理、工学系のイメージが強いので、第五冊目『地球の長い午後』の植物や、本書のような「生物」あるいは「医学」分野のSFは珍しく感じて楽しい。時折出てくるRNAだのリンパだのの表記をうまく無視していくと、パニック小説のような驚きから、さらに驚愕のラストへ続くセンス・オブ・ワンダーを味わえる。

■2 群体

 SFはどうして「超人間的存在」を描きたがるのか―この辺りでレポートやら論文を書けそうだけど、80年代に入った段階でもこの傾向はあって、これまで読んだ中では『幼年期の終わり』と『火星年代記』がそうだった。こう「精神体」みたいな、人間の1段上の群体=個人が全体であるような存在、みたいなものが描かれると、アプローチは違ってもちょっと食傷気味になってしまう。今回は過去の人間の姿を取ってくれたり、とサービス精神も旺盛だ。最初の宿主を「造物主」みたいに感じるとか、レトロな感覚もある。

 一方、この小説のオリジナルなところは、「観測」することが「物理法則」に影響を与える、という視点。言ってみれば、歴史学や考古学を物理法則にまで応用したものにも見える。例えば、新しく発見された証拠によって、「事実」とされているものが揺らいでいくこと。つまり、シュリーマンが発見することで、トロイヤは初めて「存在」することになった。鎌倉幕府成立の年代も日々変化する。これと同様に、ニュートンが発見して初めて万有引力が「存在しはじめた」というか、もやもやしていた物理法則がそこで「確定」した、というような見方。このアイディアは面白いんだけど、小説の中では後景に引いている。

 他に、この知的ナノ生命体たち、色々話しかけたりもしてくるのだけど、僕としてはイマイチ魅力を感じない。『幼年期の終わり』か、あるいは『2001年宇宙の旅』の超人みたいに、なんかこう、「想像なんてできません!」って言われてるような超越性に見えるからだ。これなら例えば、「クオリアが異なる生命体は異なる価値体系を持つ」として、それを描き切ったゲーム『バルドスカイ』の人工知能群の方がずっと楽しい。

■3 乗れない理由

 これもまた、SF最大の名著、と名高い一冊……なのだけど、個人的には全く乗れない。どうもその理由が、『地球の長い午後』のときと同じような感覚だと感じる。今回は特に、登場人物が典型的なハリウッド型、行動原理があまりにも単純すぎる人物像ばかり、という理由もある。名声を求めるウラム、なにやら湿った過去を開陳してくれるけど、英雄敵なバーナード。アメリカ大陸に残された人々は、まるでテレビドラマのように、大仰な身振りの演技まで浮かんでくる。『幼年期の終わり』と同様、人類のメタモルフォーゼを描くというのに、その人間側がこんなにもデフォルメされていていいのか?

   いや、「植物が支配される世界」が主役であれば。「血流を流れる数千兆の知的生命体との予期せぬコンタクト」が主役であれば、SFは成立する。それでも僕が思うのはこういうこと:こうした作品が「名著」とされ評価されてきたからこそ、伊藤計劃の作品が日本のSFとして、異なる輝きを放っているんじゃないか、と。

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