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デスストランディング ネタバレ感想(更新中)

- デスストランディングについて、取り留めなく書いていきます
- いまはメモ書き状態。気が向いたらもうちょっとまとめます

#人物別

- アメリ=ブリジット 絶滅体で黒幕。目的は既に決定してるラスト・ストランディングによる生命の消滅を早めること。ラスト・ストランディングはビーチ経由で生命を吹っ飛ばすので、一回世界をつなぎなおす必要があった。ダイハードマンはその目的は知らないがブリジットに忠誠を誓ってるので協力。ヒッグスはアメリに魅入られて絶滅の虜となった。ブリジットは20歳の子宮摘出で(生まれながらだっけ?)肉体と魂が分離。ビーチに残った方がアメリ、肉体は現実でブリジットとして生きる。

- クリフ アメリカ陸軍の軍人。割と背景は普通。妻が脳死になって実験に参加、息子BB=サムに語りかける。息子が犠牲(=カイラル通信の人柱1号)にさせられそうになり、ダイハードマンに言われ逃げようとするが殺される。BBを幸せに出来なかった後悔で、戦場の死者のビーチをもつれさせて戦う。途中、復讐してるっぽく描かれるが、記憶が混濁してBBを取り戻すという意識にとらわれてるだけと明かされる。最後にビーチで記憶を取り戻し、サムの幸せを願い成仏。「おれはいつも崖っぷち(クリフ)だった。お前が本物の橋(サム・ブリッジズ)になれ」

- ダイハードマン=ジョン 黒幕っぽく扱われるが実際は良い人。ブリジットに忠誠を誓ってるので、半分は彼女の絶滅に加担するムーブを(その最終目的は知らずに)行う。具体的にはサムに世界をつなげさせるよう仕向ける。過去クリフに救われたので、クリフを助けようとするけどミスって射殺。これはブリジットの命令だったが、一方BB=サムも殺してしまったのはブリジットも想定外で苦しかった?(泣き崩れた)で、アメリがサムを復活させる→帰還者の能力者になったし育てると言い出す。

- デッドマン 特筆点は無し。一種の人造人間なので「魂」が無くビーチも無い(本人談)。ハートマンの手記で「子宮から生まれないとビーチが無い」的なことが言われてた。「魂のない存在」だが、クリフ世界やサムとの絆でつながりを感じた、というのがテーマ的に重要なところ。ストーリー上で大きな裏表はない。サムを助けようと頑張るナイスガイ。一番いい人。

- フラジャイル 配送大好きお姉さん。能力者。ヒッグスと協力して最初はうまくいってたが裏切られ、時雨の中を歩かされて体が老化、テロリストの汚名を着せられて組織も半壊させられる。モチベはヒッグスへの復讐。サムラブのアプローチが見えて、ラストで「あたしんとこ来ない?」と口説くがフられる。あんなに頑張ったのに。血になる虫が好きなのは瞬間移動の負荷を下げるためとか。

- ヒッグス 最初は配送大好きボーイだったが、アメリとビーチで会って絶滅大好きボーイに洗脳される。テロとかあれこれも結局絶滅のため。傀儡。手記を読んでくと割と憎めない奴。オセロット枠。ピザ大好き。アメリによるひどい被害者のような気がするが、顔が変形するほど殴られる。かわいそう。

- ママー ロックネとの双子だが、ビーチを共有してるとかで魂が繋がってた。ロックネは子宮がなくママーは卵子異常だったので代理母として出産。だがテロで子供は死亡、BT化。この時実は死んでるけど、体がカイラル化して時間が止まり生き延びてた=半分BT状態になってた。この子供との繋がりを断って、新しいロックネとのつながりを確立するところがテーマ的に重要。「アメリとのつながりを断ってBBとのつながりを得る」というラストとも響きあう。

- ハートマン テロで殺された妻と娘の魂を探して心停止を繰り返しビーチを彷徨う。設定が先行してるのは良いが、ちょっと他のキャラクターとの絡みが弱い気が…21分ごとに心停止してAEDを常に身に着けてる、という設定&ビジュアル出オチマンだが、その設定はピカイチなのでやっぱり楽しい。クリア後の手記で「恋人が出来たんだ」とか、おいおい。

#全体概要

- 基本的にはアメリ=ブリジットの意図+デスストランディングの謎を追っていけばOK。人物は、サム-アメリ=ブリジット-クリフの三人が中心。他の人物は操られたり影響されたりはしているけど、基本的に「絶滅」というアメリの目的に対してはサブ的な位置にいる。

- デス・ストランディングは意図とかではなく一種自動的に起きるもの。これまでの5回の絶滅がそうだったように、定期的に起きる。「絶滅体」 という存在が生まれてきて、ビーチ=霊魂の世界を束ねる上位ビーチを操ることで魂の世界に方向性を与えて絶滅へ。具体的にはビーチ側の反物質を送って現実の物質と対消滅させてドッカンする。

- アメリ=ブリジットは、ずっと世界の絶滅のビジョンを見続けており、それが回避不可能であることを知っていた。絶滅体としての自分の運命も分かっていたが、一応未来は確定していないので可能性は残っていた。
- 選択を迫る… ①一緒に絶滅を見届けよう ②アメリのビーチを閉ざす(つながりを絶つ)ことでラスト・ストランディングを防ぐ。どっちにせよデス・ストランディングは回避できない。必ず滅びはやってくるが、それまでの延命的な生だけどそれを生きる。

- 基本的なテーマは、孤立していたけど、アメリという過去のたった一つのつながりを持ってたサムが、結局アメリとの絆を断ち切るが、代わりにBBとの新しいつながりを得て、世界とまたつながるという話。もっと抽象的に言えば、死者(過去)とのつながりを愛しながらも断ち切り、生者(未来)とのつながりを手に入れる、という話。ママーのシナリオがコンパクトに体現してる。

#要素別

- 一つの要素で判別できないが、ゲームという媒体全体として一つの体験を作り出そうとしているので、それぞれの要素の総合的なところで考えるべき。 ①ストーリー ②システム ③映像 ④体験

- ①ストーリーは、それぞれの要素はどこかで見たことがあるし、「絶滅」当たりのアメリのモチベーションが若干弱い感じがある。また、メタルギアシリーズがなんだかんだで「戦争」モチーフで現実世界・社会をバックグラウンドにしていた=「社会」やリアリティの入る雑味が多かった一方、今回はブリジットという大統領が登場したものの既に人類が孤絶し個々で分立しているせいで、ほとんどアメリ-サムの物語、というところに回収され、絶滅か否か、という一種セカイ系みたいなところに落ち込んでいくのが違和感。
- 今あるものを守るため社会に準じたザ・ボスと、既に壊れてしまった社会をつなぎなおそうとするデスストの間には大きな隔たりがある。もちろん現実社会を見たとき、ネット時代における人々のフィーリングは孤立した存在、後者に近いのは言うまでもないが、その個というところにストーリー自体が捉えられてしまっている感じはある。
- 一方で時雨とBTの存在や、死者が放っておくと爆発する状況、人々が雨を避けるためシェルターで暮らしている世界観、孤絶したアメリカをゼロ時間通信でつなぐ、といった設定は非常に魅力的だし、それは最高のグラフィックで表現されたとき強烈な説得力を持つ。→③映像
- そして当然この要素はオープンワールドにおける要素と密接にかかわっている →②システム
- まずメタルギアにおけるスパイ要素は「社会」についての物語が好きな人は辛い点数をつけるだろうし、SFの面白さとしては尻すぼみ(というかスケールがどんどん増大して君と僕に回収される感じ)は否めない。とはいえ、SF的ストーリーとしても十分以上な面白さではあると思うし、「驚き」は強烈ではなかったけど十分に良くまとまって面白かったとは思う。「絶滅」という状況をガンガン引いて来る辺りもとてもSF的。
- 付け加えると、モチーフもかなり「おいしい」というか、微妙に違和感を持たされるようなものが多いのが良い。「胎児」と「死体」のモチーフが一番。

- ②システムは単体で取り出すと一番辛い点数がつきそうで、それはとにかく「移動が苦痛」という話に尽きる。ただしこの苦痛はかなり意図的に与えられたもので、特にそれによるプレイヤーへの内心との対話とか、サムという主人公を内面化する時間として与えられる。
- オープンワールドのゲーム、そしてRPG的なゲームにおける主人公の内面化、という問題はゲームというジャンルにおける大きなテーマだったと思う。映画や小説は、たとえそれが主観・一人称視点であったとしても、基本的に視聴者と主人公の距離は主体ー客体の関係を出ない。ところがゲームだけは主人公をプレイヤーが「操作」することで物語が紡がれる。マルチエンディングは当然そうだが、ただここでどの武器を選んでどうやって攻撃するか、という細かな分岐を考えるとそれは誇張無しに無限に近づく。小説や映画が幾度再生・読書しなおそうと、本質的には唯一であるのとは全く異なる。そこで主人公存在は一種特別な存在となるが、それゆえに主人公の内面を描くには困難が伴う。描きすぎればそれだけプレイヤーから離れていくし、描かなければ物語に絡みづらく、また成長も感じられない。
- 今回のストーリーの中でのキモはサムという孤独・孤立した存在が世界をつなぐ中で、自分もまた世界とつながっていく、というもの。しかし主人公の安易な心変わり、お涙長大的な「つながるってやっぱりいいなあ」みたいな成長物語は許されないし、さらにそれをプレイヤーのものとしてもらうには、体験の中でしかそれを得ることはできない。
- このあたり、メタルギア5でスネークがヴェノム=プレイヤーとなった辺りと響くものがある。
- 大きなポイントは、「スネーク」はキャラクターだったが、サムはそうではないということ。俳優のモデルがいるということもそうだが、エンディングで彼の名前が隠され「1配達人」であったことが示唆されるのも大きい。彼は本当の意味で英雄ではない。(まあスネークも「名もない英雄」というポジだったが)

- もう一つのポイントはオープンワールドゲームにおける問題。最初は世界を歩くのを楽しむが、やがてそれは弱まり、ファストトラベルを誰もが使うようになる。ただこのゲームにおいて、ファストトラベルは存在しているのにほとんど使われないという奇妙な状況が訪れる。荷物は送れないが、荷物を送ることそれ自体がゲームの目的なので。
- 面白いのは、歩くのが苦痛になってくるので、どうにかこれを回避しようと様々な移動方法にシフトしていく、その工夫を楽しめること。最初は徒歩→バイク移動→国道を作ればもっと早い! →トラック運送で大量の荷物を運ぼう →今度は山奥でまた歩かなくちゃいけない→ジップライン敷設…と、移動にしてもやることが状況ごとに代わる。これによって移動に使う時間が割と体験として現れてくる。もちろん歩くことが苦痛、というのがあるんだけど、この辺りは割とやってて楽しいところではある。ものすごい快楽かといえばそうではなく、スルメっぽい楽しみ方だけど。革命的!とは言えないけど、やめられなくなる程度には楽しい。ただし飽きるという意見もよくわかる。素材を集めて国道を作るのとか、悪くはないけど、例えばメタルギアで潜入してアドレナリンどばどば出てる感じと比べると地味。

- つらいのはBTを避けたり、ミュールから逃げる辺り。メタルギアだと、敵の排除についてステルスゲームの、相手の位置を把握して気づかれないようにする、という戦略に様々な方法がある。位置を覚えるとか、麻酔も良いし、侵入の経路をいろいろと考えるのも楽しいし、隠れ場所を探したりも面白い。いっぽうでBTを避けるのはとにかく相手の位置を探ってそろそろと歩いて逃げるだけ。ステルスしてゆっくりと移動するイライラ、という点では同じだが、前者が見つかるかもしれない、逃げるか、戦うか? という緊張が面白いのに対し、デスストの場合は最初から最後までBTを避けるムーブがとても似ており、これを楽しめるのは最初の数回のみ。BTとのかかわりあいにもっとバリエーションが必要だった。そしてBTにつかまるのが嫌なのでどうしてもその場所を避け、結果自然と対峙しなければいけなくなるのがつらい。
- すごく単純にというか、凡庸っぽい書き方をすると、孤独に歩き続けることで、自分を見つめる時間を作ってください、というのがこの「歩く」「歩かせる」ことへの目的という気がする。
- 「歩く」という行為は、実際とても楽しいことだろうと思う。僕たちがあちこち旅行して何してるのかって、街を延々歩いて、ときどき建物に入ったりして、という体験に他ならない。そもそもオープンワールドというもの自体が、そうした「世界を自由に旅する」という、現実の体験にずっと寄せたゲームデザイン、少なくともその可能性があるものだったはず。

- ソーシャル・ストランド・システムに関して言うと、確かにすごく嬉しい瞬間というのはあった。絶妙な場所にロープやはしごがかけられていたり、危険な場所に看板が立ってたり。「ここにこれがあるのは神!」と感謝し、ついいいねを押してしまう、という瞬間が何度かある…のだが、これもやはり数回程度で飽きてしまうというか、だんだん他者の助けが当たり前のようになっていく感じがあった…それに自分で気づいて絶望するまでがワンセット、という話もあります。

- ③映像 基本的には相当神というか、キャラクターの周りはほとんど実写で、そんじょそこらのドラマを凌駕し映画に近づく。色んなスーパーSF映画を思い出してもよいけど、そうした世界観をゲームの中で描き切っている。それだけのクオリティで、たぶん全体で10時間はありそうなムービーシーンを再現し、なおかつ普通のプレイシーンも風景はじめとても美しい、というのもよい。
- ただし、映画・ドラマとは違うのが、それがまたゲーム体験と結びついてくるというところ。すぐに思うのは「主観視点」つまりサムの視点のショットが多いので、サムへの感情移入を軸に話が進んでいく。ここはシステムともかかわってて、プレイヤーは自分の動かす分身=サムを延々と動かすことで、物語を自分のものへと引き付けられるようになる。この主観の話は、BB視点のクリフパートの一種の叙述トリック(BBの映像かと思ったらサム=自分の主観記憶だった)にもかかわる。
- ゲーム性という辺りともかかわるけど、ムービーシーンも全てではないが、自分である程度コントロールできる、というのもゲームの面白いところ。

- 全体的に演出は面白い。過去世界でクリフの状況を見ることができるところとか。

- ④体験 では、どうしてオープンワールドをそんなにも歩かせたいのか、というかどうしてそもそもオープンワールドのゲームがこんなに増えていってるのか、という問題がある。そもそもオープンワールド形式の走りはどこにあったのか? シェンムーやグラセフ、フォールアウトがあげられてるが、それ以上にオンラインゲームのことが思い出される。ネトゲこそ、オープンワールド世界の「意味」を大きく感じさせる。もっと操作性を細かくして、自然とのインタラクトを楽しむ、という点で考えるとメタルギアやデスストが入ってくる。

- 大作がオープンワールド形式にこだわるのは、それを「体験」にしたいから、だという気がする。一種の「旅」にしたいということ。なぜか? 同じ物語の中でそれはゲームにしかできないから。この点において、ゲームはほかのコンテンツを圧倒的に上回る。私がその足で(実際はコントローラーを操作する指だが、それはやがてVRへと変化する。例えばデスストランディングこそ、実際に「歩く」感覚を得られる水準のVRになったとしたら、とは考える。というか既にVR的なものである、と言えるかもしれない。VRよりも。ストーリーを語る以上のもの、を相手に与えようとすること。小説も一種こうしたことをやっている気はするけれど、例えばデスストの比ではない。そうすると、FF15は友人たちとダベる時間を、デスストは一人きりで静かに歩く時間をプレイヤーに与えるゲームともいえる。単純に瞑想させたいのではなく、そうやって物語を受け止めさせる時間を作っているということ。そうした体験によって、プレイヤーにストーリーを体験してほしいということ。キーフレーズ的に言えばそうやって「つながる」こと。

- ストーリー自体もこうした観点を基に組み立てられてる気がする。ママーのイベントや、ハートマンのシーンなんかがそうで、おおよそ ①感情を揺さぶる要素 ②世界の現象や物語の謎 が印象を優先に提示されて、次の配達で歩きながらそれについて半分考えながら、思い出しながら、考察しながら、さらに自分の体験に合わせてフィードバックしながら歩いていく。次第にストーリーへの考えから、現実での思考が混ざり始めていく。この「歩きながら思いを巡らせる」という体験こそがデス・ストランディングの「キモ」のように思う。この体験が主人公サムを生きさせるのであり、例えばラストシーンで、実際にサムがBBを助け出すよりも先に、自分が手を伸ばしそうになるような、感情のシンクロを起こさせる、ということ。その前のシーンでアメリを撃たせるのも悪趣味に思えるが。ただこれもまた、メタルギア5の「死して」につながるところでもある。
- ボタンを押すということは既に選択であるということ。映画において、どうしても誰かを殺さないといけないというときでも画面は止まらない。ボタンを押さなければ先に進めないとしたら? それはサンデルのトロッコ問題を思わせる。

- **まとめ**

- この「体験させる」「思い巡らす」という辺りがまず最初にゲームが組み立てられている。逆に言えば、ゲームは映像作品や小説とは違うところを目指せるし、そこを目指すべきだ、という意識が感じられる。私が次第にゲームと同化していく、という状況は、例えばFF14もそうだけど、アクション要素や戦術が次第に自分のものとなっていくような、身体的な感覚が一つだが、FF15やデスストの場合はオープンワールドの移動という要素にそれをかけている。この物語は ①ムービーと ②考える時間 の二つから成り立っている。そしてその思いを巡らせた体験はムービーという共通要素とは違って、プレイヤーにとっての個別のもの=体験となる。

#SF的な話から

- テーマ的には「つながり」あるいは「個と社会」ということで一貫しているのだけど、後半に「絶滅体」という要素を持ち出してしまったせいで、かなり前後半で乖離が起きてしまっているのが痛い。前半はとにかく「接触」とかつながりに関する象徴的なところで話が進んでいたのに、「絶滅体」の設定は確かにアメリという存在に託されてはいたもののかなりマテリアルというか自動的なもので、「設定」としか言えない。もっというと現象、自然災害的なもので、ウェットな話は一方でクリフ側に託され、それはそれで割と普通の話になった。
- 前半は「人は人とつながらなければ(生きて)いけないのか」のテーマに話が割り振られていたのに、後半は、「どうせ絶滅するなら、それは今日でも一万年後でも同じだ」という話に変わってしまう、このズレがストーリー的な瑕疵。もちろんそこには、サムがそれを否定するためには旅を通して「つながり」を得なければならないよね、という話ではあるが、それでもズレは感じる。ヒッグスと殴り合ってるとき、なんでこんな話になったんだっけ? と首をひねることしばしば。サムがアメリを「愛しているんでしょう?」とフラジャイルに訊かれるが、これもあまり実感できない辺りがきつい。もちろんこれも全てを説明する必要はないということではある…のは分かるけど、という実に微妙な感覚を受ける。
- 「常に胎児を抱えて旅をする」「物質としての遺体を意識させる」「体液が敵への武器となる」といった、一種ウェットなもの、人間のナマの生に関わるものが全面に出ていること。このイメージはとてもオリジナルだし、それが強烈なイメージ喚起になっていることが大きい。クジラが打ちあがり、大量の魚が生まれ、タール的なイメージと死者、ただ死者の扱い方がウェット過ぎず絶妙でもある。ラストの大クジラも、「まだやらせんのかよ…」と思いつつ、戦っているとただでっかいクジラが空を飛んでる景色に割と感動したりするので強い。
- 「ビーチ」の設定も、それ自体は様々な作品で出てるとは思うがやはりイメージがよい。映像と演出。


#エピソード

00. OP。フラジャイルと衝突、雨宿り、ノットK1へ荷物運び、死体の運搬、対消滅爆発、BB28受取
01. ブリジットの依頼。帰還後、キャピタルノットでアメリ救出依頼、ブリジッド死体運搬
02. アメリとのブリーフィング後、奪還を引き受ける。ひたすら配送。大BT撃退。

03. フラジャイルの船で移動しマップ2。ひたすら配送。核爆弾配送、対ヒッグス、フラジャイルの過去
04. クリフ戦。サウスノットK6出たところで嵐に。第一次大戦
05. ママ―と子BTに会う、マウンテンK7へ向かい追い返され、ロックネにママーを配送。
06. デッドマン関連。BB故障。マウンテン周辺へ配送。デッドマンと小屋で落ち合う。大吹雪。
07. クリフ戦。デッドマンも飛ばされる。第二次大戦。ママー遺体をハートマンへ届ける
08. ハートマンの話。3人の学者へ配送。エッジノットへ向かう。BTを出現させ建物上を進みアメリ発見

09. ヒッグス対決。エッジノットに到達し巨人BTを撃退。フラジャイルがビーチへ搬送、ヒッグスと殴合
10. ダイハードマンの過去。レイクノットへ戻る。町の前で嵐に遭遇。
11. クリフ戦。ベトナム戦争。サムを息子と認めドッグタグを渡す
12. キャピタルノット前でクジラBT撃破。
13. 再度ジャンプしてビーチへ。円陣。アメリを見つける。スタッフロール。ビーチに閉じ込められる。
14. 帰還。大統領就任演説。ジョンの告白。フラジャイルとの別れ。BB廃棄へ。クリフの過去。ルイーズ


--- (過去)エピソード3くらいまで ---

- なお、最初ちょっとマイナスに聞こえる感じではじまりますが、全体的には「世紀の大傑作」だと感じてます。

強すぎるシンボリックなモチーフとテーマ性

- おおよそ10時間程度プレイして、感想を言うことがとても難しい。①ストーリーやテーマ的なもの ②ゲームシステム の両方に、自分の中で賛否=面白いと思うところと、不満に思えることの両方があり、そしてそれらは正反対というよりもリンクしてる。

- 一番最初に違和感を覚えるのは、特に「接触」「繋がり」という単語がそうなんだけど、出てくるモチーフ、SF設定なんかの全てがあまりにも象徴的過ぎるということ。サムの接触恐怖症、BTという謎存在が「手形」をこちらにつけて触れようとすること。もちろん冒頭の「なわ」もそう。

- メタルギアの4-5がそうでなかったか、と言われると、5なんかは冒頭シオランの引用ではじまり、「言葉」というかコミュニケーションにまつわるシンボライズは強かったのだけど、それでも「戦争」という非常に現実的かつ具体的な営みにパッケージされている。敵も超能力者あり、巨大ロボットあり、という世界ではあるんだけど、それでもそうしたSF的な要素はボス戦なんかに集中され、全体的な世界観はアサルトライフと麻酔銃とスナイパーライフルと装甲車とあと馬とかがそこら中にある、「地続き」のモチーフが大量にあるわけで、物語が象徴的になりそうなところに、ある意味雑味として入り込み薄めてくれる。

- なにしろメタルギアという作品自体が、ジョン・ル・カレ的な冷戦スパイ小説のカラーの延長にある。対してデスストは思い切りSF小説のカラーが前面に出てくる。

- ただ、今回はポスト・アポカリティックな世界で、そうした人間的な「環境」がぐぐっと後ろにさがったせいで、そうした「現実世界」の雑味が失われて、象徴的なものにモチーフもストーリーも埋め尽くされて、物語全体が現実から遠ざかってしまってるような感覚がある。メタルギアは2-3-5をプレイ(4はプレイ動画と小説を読んだ)したけれど、自分にとっての魅力は、そうした「現実」を感じさせる政治・軍事的・社会的な背景あってのものなので、デスストランディングについてはとても「面白い」と思いつつも、どこかで「知っているSFの面白さ」の枠に入って来てるように思ってしまった。

- 具体的に言えば、ル=グウィン『幻影の都市』、『少女週末旅行』、『われもまたアルカディアにあり』、『ケムリクサ』、『風の谷のナウシカ』、『地球の長い午後』、『ニーア・オートマタ』といった作品群。

死してなおも輝く

- と、違和感を抱きながらプレイを始めたけれど、開始3時間程度のところで非常に印象的なシーンに出会う。主人公サムの育ての親、アメリカ最後の大統領ブリジッドが最期の瞬間に「アメリカの再建」をサムに託し息絶える。この世界では死体は48時間程度放っておくと「ネクローシス」という謎現象で、その街周辺を核爆発的に吹っ飛ばしてしまう。そこでサムはいま死に別れたばかりの母親の亡骸を背負って、焼却場まで運んでいくことになる。

- ここでメタルギア5の話をしたいのだけど、この作品の後半に「死してなおも輝く」という非常に印象的ーというか、これまでゲームをしてきた中でも一度も感じたことのない気持ちにさせられる章がある。ごく簡単に言えば、プレイヤーが、寄生虫に侵された自分の部隊の部下たちを自らの手で射殺する必要があるシーンだ。もっとさかのぼればFF7でエアリスを殺すシーンに通じるのだけど、この「仲間を殺す」瞬間は、ほとんどのメディアコンテンツの中でゲームのみが与えられる「自分の手が強烈に関与する」体験になる。映画やドラマであれば当然私たち「観客」が何もしなくても物語は進むし、小説は例えばページをめくる手を止めることは出来るが、それでも「ボタンを押す」という能動的な関わりとは比較にならない。そして、メタルギア5のこの章の恐ろしいところは、部下を苦しませないで一発で殺すためには、確実に頭を撃ち抜く―ヘッドショットを決めるために、しっかりと相手の顔をエイムしなければならないこと。このとき、死にゆく部下たちが恐れたり、あるいは自分に向かって敬礼する、そうした顔に出会うことになる。いわゆるFPS/TPSゲームで、息を吸うように自然に行う「エイム」「ヘッドショット」のはずが、ボタンを押す指が凍り付くように動かなくなる。PS4のコントローラーを握り、銃を撃つボタンは右人差し指のLボタン。まるで銃のトリガーを引くような指の形になる。主人公はその後、死んだ彼らの遺灰を自らの顔に塗り、ダイアモンドに加工する。

- 思えばこのときから、小島監督はゲームの中の「死」というものを、何か知らの形で特別化しようとしてたように思う。棒(による攻撃)ではなく、なわ(による繋がり)を軸にしたゲームを、と語る言葉が思い出される。ただそれだけれなく、死を描いたあとに、それがとても物質・マテリアルとしての肉体を出してくるのが面白い。育ての母ブリジットの死体は、メタルギアにも登場し、あるいは時折メディアでもみることになる「死体袋」のようなものに入れられ、「運び屋」であるサムはその遺体を担いで謎の敵の只中を、「母親の死体を燃やす」ために歩いていく。焼却場では、死体袋が自動的な装置によって炎に包まれる場面さえ描き出す。

- メタルギア5での「死」と同じように、ここではゲームシステムによる体験とストーリーが完全に一致させられている。「銃を握って狙いを定め撃つ」というTPSを仲間を犠牲として殺すという体験へ転化したように。背負って運び届けるというデスストランディングの行為、それは他の場面では感謝され、「いいね」をもらい、レベルアップしていく行為なのに、この冒頭のシーンでは、街を救うという名目はありながらも、他の誰一人もいない場所に母を葬りに行かされる。大統領の死は政治的に秘密にされ、誰ともその感情を分かち合えない。一人切りで言葉もなく、母の死体と二人きり、よろよろと転びそうになりなりながら歩くその沈黙の中で、死にまつわる言葉にならない感情を体験させられる。たぶんこれこそが、「内省」というか、体験が自分の内側へと作用していくような、デスストランディングの特異な点であり、小島監督が「これまでのゲームと異なる体験」と語る部分なのだと思う。ただ、それを得るためには、「積極的に感じようとする姿勢」が割と大事な気がして、それはとっても人を選ぶだろうな、とも思わされる。

ところで

- 去年世界中をめぐるバックパッカーをしてて、毎日のように12キロのバックパックを背負って100日間も歩き回ってた経験があるので、そのこと思い出しますね。

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歩くというより散歩ゲー・登坂ゲーの点が楽しい

- 既に「歩く・運ぶ」ことの意味を書いたけど、実際に言えばこの「運ぶ」という行為は実に地味。ただ、やはり小島監督、と思うのはメタルギアにも似たところがあって、あっちも「潜入・ステルス」という行動の中で一種相手に見つからないことが大事。今回も、謎おばけ生物BTとか、承認欲求依存症のミュールとかに見つからないよう、中腰で息を止めてゆっくりゆっくり進んでいく、というのがゲームの基本ムーブの一つとしてある。

- メタルギア5のシステムは、ハードモードなんかにするとほんとちょっとしたことで見つかって捕まったりして、すぐミッション失敗…となって最初からやり直し、になるんだけど、なぜか何十回失敗しても繰り返せる面白さがある。毎回ほんの少しずつ戦略を変えて、覚えて、装備も強くなって、うまくなっていく感覚があるから。

- 対してデスストランディングのこの「ステルス」的な場面は、最初の数回は面白いんだけど、何度も繰り返すとほとんど動きが同じになってきて、繰り返し感が強くなっていく。確かにいろんなルートはとれるんだけど、そのバリエーションが割と単純で、 ①時間はかかるけど楽 ②早くいけるけどリスク大 かその中間、くらいな感じで、メタルギアみたいに戦略の工夫があまり出来ない。荷物も重い⇔軽い くらいで。

- 普通の運搬作業は前述のように「内省」の時間と言うか、なんか「散歩しながらとりとめもないこと考えてしまう」ような時間でこれは楽しい。ちょっとダレるけど割と飽きない。やってないけど、多分誰かとチャットとかしながらやると楽しいのかもしれない。求むチャットフレンド。

- オープンワールドにおいて「移動」の時間にどう意味を与えるのか、というのは割と問題なんだろうな、という気がする。個人的にはFF15が大好き(一般的には評価が低い…)で、あれは移動中に発生する様々な会話によって登場人物たちがすごす「時間」を体験として与えてくる。一番成功してるのは、未プレイなんだけど評判を聞く限りブレス・オブ・ザ・ワイルドなんだろうか。デスストもまた、というかまさにこの「オープンワールドにおける移動」をそのままシステム・テーマにした作品とという気がする。今のところは間接オンライン協力も含めて成功と失敗のそれぞれ両方、という印象

- あとは初めて行く場所に「登坂」するのが実に楽しい。誰かのはしごやロープを見つけて「神か!!」と叫ぶのも良いし、大量にハシゴを用意していって、強引に直線ルートを開拓するのも達成感がある。伝わらないと思うが、ウィザードリィ小説の『風よ、龍に届いているか』というのがあって、これがダンジョン小説なのに、まさかのダンジョン(=塔)に入らず、外壁をひたすら忍者スキルで登っていくクリフハンガー小説なのですが、これを地でいくような面白さ。もっとピッケルとかザイルとかクライミングツール出してほしかった。

SFモチーフ

- 最初にSFとしてはポストアポカリプス的で、「知っている」感じ、的なことを書きましたが、とはいえ設定は超一級のSFの面白さ。小島作品は、メタルギア5の「コードトーカー」設定とかでかなりSF…「虐殺器官」インスパイアに思える「言語」を元にした寄生虫なんかが出て来て、それは中途半端に思えたけど、今回の設定は最近増殖してるネトフリのSF作品群をまとめて吹っ飛ばす巧みさ。

- 特に当たった瞬間だけ時間を進める「時雨」の設定が秀逸。それから、SF小説ファンとしては、小説に比べてゲームもやっぱり「映像作品」なので、前に書いた死体の「マテリアル感」もそうだし、常に胎児を腹に装着する「BB」も強烈。死者とか赤ん坊とかサムの体液とか、命にかかわる「ナマ」っぽいものと、荒廃した世界の何もなさがマッチしてる。

- あと一歩進めば…というか、既に半歩くらい「タブー」の領域に入っているような、こうした「死」とか「赤ん坊」とかのモチーフは、メジャーどころの映画やゲーム、ドラマなんかでも中々できないだろうな、という思いで、その点は「小島監督にしかできない」と言いたくなる。いや、アニメや小説でもそうしたギリギリのところを描くものは確かにあったかもしれないけど、それでもゲームという前述のプレーヤーの「手」が介する構造とか、圧倒的なグラフィックによるイメージとかリアリティを含めると、それはやはり全く異なる体験として来るわけで。

つながる-エヴァ-プラネテス-C†C-バルドスカイそして

- サムが「接触恐怖症」であり、「孤立したまま生きていける」という考えを持つ一人であること。一方で彼の助けを待つアメリやブリッジズという組織の人々が、ちょっと気味悪い(カルト、と実際に言われている)ほどに「わたしたちは繋がっている」と語るこの構図は、さかのぼろうと思えば無限に遡れる「個人と社会」の二項対立のテーマ。

- ネット以前のぎりぎりのところで出たのが、心の壁の象徴としての「ATフィールド」を持ったエヴァで、「ハリネズミのジレンマ」の話があるけれど、「他者とは繋がりたいが繋がれない」少年少女が描かれる。このときのシンジくんの描かれ方は、「そういう子供たちが現れている」という実感が強かったとしてもやはり「新しいこども」であり、マイノリティ的な感覚があったと思う。

- 一方プラネテスのハチマキになると、「この孤独も、苦痛も、不安もおれのものだ」(うろ覚え)と語り、「愛」を基に繋がろうとするタナベの対立となって、孤独に対しての価値は少年的なものだけではなくなっているように見えてくる。

- ずれるけどクロスチャンネル(アダルトゲーム)の場合は、つながるためのコミュニケーション手段は多かれ少なかれナイフによる傷そのもので、あとは「どれだけうまく傷をつけられるか」を問うもので、おそろしく単純化すればその「距離」の取る中で、孤独も、一方でつながりも何かしらを諦めながら他者との「優しい」関係をさぐる話だったと思う。

- バルドスカイ(SF・アダルトゲーム)も、実はデスストと同じく「私たちは繋がっている」というセリフがくどいくらいに繰り返されるゲームで、この世界は脳内のチップが常時無線オンライン接続しているので、ほぼ生まれたときからデータ的に常に「繋がっている」人々の話。

- と、いろいろ挙げてきたけれど、デスストにおけるサムの立ち位置は、これらの話とは全然違って、もう何歩か先に進んでるように見える。ここで語られる「つながり」は、ゲーム内のポイントである「いいね」とも合わせて、SNS、インターネット社会における個と繋がりの在り方を示唆していることは明らかだと思う。

- 脱線、スペシャル対談動画で、ゲーム実況者で日本で最も有名な 2broのメンバーと小島監督が対談しているとき、顔出しをしていない2broメンバーに対して、「これ(顔を隠すイメージ)をもう取りましょ、このゲームはそういうことを言っているんだから」と冗談口調ながらも声をかけたのが印象的だった。

https://www.youtube.com/watch?v=Tj4_aSKsguM

- 脱線の脱線、「顔」といえば、ガンダムF91は仮面と顔の話でしたね。鉄仮面の敵にたいして、最後顔を出したF91が勝つ、という。

- サムの「孤独」であろうという姿は、シンジくんに注がれた眼差しとはまったくちがって、もはやマイノリティとは言い切れない。つながることに疲弊している、という話は自分の体験としても外側のメディアからしても明らかで、ネットによる過剰な繋がりがなければ幸福に生きることの出来た多くの人は容易に想像できる。SF設定・モチーフとこのテーマが強く繋がりながら物語がドライブしてるのはそうだけど、この「孤独」の価値が本当に当たり前のものとして、決して否定できない共感・実感を伴って現れてきている、というところが、ああ、何か新しい社会が(既に始まっていたんだろうけど)来たんだなあ、という思いをさせてくれる。

- と、この辺りでゲームに戻ります。ハードモードでゆっくりやってるので次はちょっと先になるかも。






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小説家・翻訳家・ライター見習い。東京大学教養学部卒(文化人類学・副 表象文化論)高卒後、音楽、執筆、NGOを経て大学へ。作家を目標に、けれど興味はあちこちふらふら。批評とライターも修行しつつ、勉強意欲もまだまだ。児童文学・詩・舞台・芸術全般に興味あり。アニメ・ゲームも。