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タイムラインからまた1人

 久しぶりにTwitterに戻ったら友達が1人居なくなっていて凄く悲しかったです。その方にとっての私は友達でも何でもなく,変に絡んで来る厄介な奴程度の認識だったのかも知れませんが。まあ,そうは言っても私だってこの小休止に伴って1つアカウントを一時的にですが削除してました。

 それで少し考えちゃいまして。私って何にもできない人間なんです。絵も上手くないし,面白い訳でもない。ハッキリ言うと居なくなっても良い部類の人物なんです。謙遜とかそういう事じゃなくて明確な事実な訳で,私の代替となり得る方や私の上位互換のような方は万も億もいらっしゃるじゃないですか。何だかそれが興味深くて。

 何というか「その人じゃなきゃダメな訳」って相当詭弁だと思っていて。だってその人が居なくなっても社会は回っていかないとオカシイし,コミュニティだってその人が加わる前から存在していたなら,その人が抜けたって何ら問題はない筈なんですよ。クリエイティブな事でもその人よりも絵だったり表現力だったりが抜きん出ている人はそれこそ腐る程居るし,先人達が同じ題材や趣向をより優れた形で世に送り出している事の方がほとんどで。その人は何かに長けていてもトップ層は走れず,ダヴィンチにもアリストテレスにもコロンブスにもナポレオンにも成れないし,並べないんですよね。

 そうなると「その人じゃなきゃダメな訳」って成立しなくなるんですよ。コレができるから必要,アレが面白いから必要って言説は裏を返せば,それらができなくなればその人は要らなくなるって意味にもなると思うんです。何が言いたいかというとその人というのはつまり私自身の事です。オモロ。

 ここまでグダグダと述べ散らかしてますけど,要は私ってあんま居なくて良いよなぁって事です。ただ,絵や動画やツイートそれ自体といったコンテンツを提供しているので存在を許して欲しい的な気持ちは何処かにあるんだと思います。これが自分自身に対しての保険なのか,周囲の方々に向けての言い訳なのか自分でもイマイチ分かっていません。でも誰にも興味を持たれないし,居ても居なくても変わらない私にはコレしかないんですね。しかも見て貰えれば分かる通りオリジナルと呼べるモノが1つもないんですね。

 名前,アイコン,描く絵,発言する内容,考える事。私にはどれの1つとしてもオリジナルがありません。何かを模倣し,何かの皮を被り,何かの威光を借りて漸くあり得たのが私です。伽藍洞です。空っぽのヒューマンです。その様な事を改めて強く自覚したTwitter小休止期間でした。

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