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シッダールタ(抜粋)

P12
サーマ・ヴェーダの奥義書
《なんじの魂は全世界なり》
13 「最上の賢者のいっさいの知識がこの魔術的なことばの中に集められていた。ミツバチの集めたミツのように純粋に」

51
「覚者仏陀を残し、ゴーヴィンダを残し、林園を去ったとき、シッダールタは、この林園に自分のの今までの生活も残り、自分から離れたのだ、と感じた。自分の心を満たしきっているこの感じを、彼はゆっくりと歩いて行きながら、思いめぐらした。深い水をくぐるように、この感じの底まで沈み、原因のひそんでいるところに及んだ。なぜなら、原因を認識することこそ、まさしく思索だと思われたからである。それによってのみ感情は認識となり、失われることなく、本質的となり、その内に蔵するものを放射し始めるのである」

55
「本を読んで、その意味をさぐろうと欲するとき、人は記号や文字をけいべつせず、それをまやかし、偶然、無価値な殻とは呼ばず、一字一字それを読み、研究し、愛する。ところが、世界の本を、自分自身の本質の本を読もうと欲した自分は、あらかじめ予想した意味のために、記号と文字をけいべつしてきた。現象の世界をまやかしと呼んだ。自分の目と舌を偶然な無価値な現象と呼んだ。いや、それも過去となった。自分は目ざめた。自分はほんとに目ざめた。きょう初めて生まれた」

60
「...昔はそのすべてがシッダールタにとって目の前にかかった無常なまやかしの薄ぎぬにすぎなかった、そして不審の目で見られ、思想で満たされ、それ自体は思想によって無に帰せられる定めであった。それは本質ではなく、本質は目に見えるものののかなたにあったからである」
「世界をそのままに、求めるところなく、単純に、幼児のように観察すると、世界は美しかった。月と星は美しかった。小川と岸は、森と岩は、ヤギとコガネ虫は、花とチョウは美しかった。そういうふうに幼児のように、そのように目覚めて、そのように近いものに心を開いてらそのように疑心なく世界を歩くのは、美しく愛らしかった」

61
「彼の目に光と影が流れこんだ。彼の心臓に星と月が流れこんだ」

73
『愛は、哀願して得ることも、お金で買うことも、贈り物としてもらうことも、小路で見つけることもできるでしょうけど、奪い取ることはできません』

82 『...私のまなざしがいつもあなたの気に入り、いつもあなたから来る幸福が私を迎えてくれますように』

126
『知る必要のあることをすべて自分で味わうのは、よいことだ』『...記憶で知るだけでなく、自分の目で、心で、胃で知っている。自分がそれを知ったのは、しあわせだ!』

134
「ヴァズデーヴァは一言も発しなかったけれど、話者は、相手が自分のことばを静かに胸を開いて待ちつつ摂取してくれるのを、一言も聞きもらさず、一言もせっかちに待ち受けることをせず、賛辞も非難もならべず、ただ傾聴するのを感じた。そういう傾聴者に告白するのは、そういう相手の心の中に自分の生涯。、探究を、苦悩を沈めるのは、どんな幸福であるかを、シッダールタは感じた」

137
「彼は川から絶えず学んだ。何よりも川から傾聴することを学んだ。静かな心で、開かれた待つ心ぇ、執着を持たず、願いを持たず、判断を持たず、意見を持たず聞き入ることを学んだ」

163
「逃げた子どもに対する愛を、傷のように深く心の中に感じた。同時に、この傷は、これをえぐるために、与えられたのではなく、花となり、光り輝かなくてはならないことを、彼は感じた」

165
「むすこや娘を連れた旅びとを、シッダールタはいくたりも対岸に渡してやらねばならなかった。そういう人を見るごとに、彼はうらやましくなって、『このようにたくさんの人が、幾千という人が、この上なく恵まれた幸福を持っている。______どうして自分は持たないのか。悪人でも、泥棒、強盗でも、子どもを持ち、愛し愛されている。自分だけはそうでない』と考えた。いま彼はそんなに単純に、知性を持たずに考えた。それほど小児人に似てしまっていた」

166
「子どもに対する母の盲目な愛、ひとりむすこに対するうぬぼれた父の愚かな盲目な自慢、装飾や賛嘆する男の目を求める若い虚栄的な女の盲目な激しい努力、これらすべての本能や、子どもじみた所業、単純でばかげているが度はずれて強い、強く生き、強く自己を貫徹しようとする本能や欲望は、シッダールタにとって今はもはや子どもじみた所業ではなかった。そういうもののため人間が生きているのを、彼は見た。そういうもののため、はてしもないことをなし、旅に出、戦争をし、はてしもないことを悩み、はてしもないことを忍ぶのを見た。そのゆえに彼は彼らを愛することができた。彼らの煩悩のすべての中に、彼らの行為のすべての中に、彼は生命を、生きているものを、破壊しがたいものを、梵を見た。盲目な誠実さ、盲目な強さと粘りにかけて、それらの人々は愛するに値しら賛嘆するに値した。彼らには何一つ欠けていなかった。知者や思索家が彼らにまさっているのは、ただ一つの小さなこと、ただ一つのごくささいな小事、すなわち、いっさいの生命の統一の意識、意識された思想にすぎなかった」

167
「それ(知恵)は、あらゆる瞬間に、生活やさなかにおいて、統一の思想を考え、統一を感じ呼吸することができるという魂の用意、能力、秘術にほかならなかった」

170
「彼が語りつぎ語りつぎ長々と話している間に、ヴァズデーヴァが静かな顔で耳を澄ましている間に、シッダールタはヴァズデーヴァのこの傾聴をいつよりも強く感じた。自分の苦痛や不安が相手の心に流れ込むのを、自分の秘めた希望が流れこみ、向こうからまたこちらに流れて来るのを感じた。この傾聴者に傷を示すのは、傷を川にひたし、冷やし、川と一つにするのと同じことだった。話し続け、告白しざんげし続けているうちに、シッダールタは、自分の話を傾聴しているのは、もはやヴァズデーヴァではない、人間ではないら身動きもせずに傾聴しているこの人は、木が雨を吸い込むように、自分のざんげを吸い込んでいる、身動きもせぬこの人は、川そのものであり、神そのものであり、永遠なそのものである、といよいよ強く感じた。...自分自身この人とそんなにちがっていないのだ、ということが、いよいよ不思議でなくなり、いよいよはっきりわかった。彼は自分が今ヴァズデーヴァを、人々が神を見るように、見ているのを、しかしそれが永続しえないことを感じた。彼は心の中でヴァズデーヴァに別れを告げ始めた」

175
「このときシッダールタは、運命と戦うことをやめ、悩むことをやめた。...いかなる意志ももはや逆らわない悟り、完成を知り、現象の流れ、生命の流れと統一した悟り、ともに悩み、ともに楽しみ、流れに身をゆだね、統一に帰属する悟りだった」

181〜184
『知識は伝えることができるが、知恵は伝えることができない。知恵を見いだすことはできる。知恵を生きることはできる。知恵に支えられることはできる。知恵で奇跡を行うことはできる。が!知恵を語り教えることはできない』
『あらゆる真理についてその反対と同様に真実だということだ!つまり、一つの真理は常に、一面的であるばあいにだけ、表現され、ことばに包まれるのだ。思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面的で半分だ。...だが、世界そのものは、われわれの周囲と内部に存在するものは、決して一面的ではない。...時間は実在しない』
『...世界は完全ではない。...世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。あらゆる幼な子はすでに老人をみずからの中にもっている。あらゆる乳のみ子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみた永遠の生をみずからの中に持っている。強盗やばくち打ちの中で仏陀が待っており、バラモンの中で強盗が待っている。』
『...抵抗を放棄することを学ぶためには、世界を愛することを学ぶためには、自分の希望し空想した何らかの世界や自分の考え出したような性質の完全さと、この世界を比較するようなことはもはややめ、世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを自分の心身に体験した』

185
『...ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすりかえられ、いくらか愚かしくなる』

186
『...物を人は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから、教えは私には無縁だ。教えは硬さも、柔らかさも、色も、かども、においも、味も持たない。教えはことばしか持たない。』

187
『...物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だ。物は私の同類だということらそれこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。...私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうることである』