適量!塩梅!お好みで!

私は料理をすることが好きだ。
もしかしたら、食べる事よりもずっと好きかもしれない。もちろん誰かに食べてもらうことも大好きだ。それで美味しいと喜んでくれたのなら最高だ。

料理を食べるときは色々なことを考える。どのような過程でこの結果になるのだろう?安易な例えだけれども、理科であり、芸術であり、推理ゲームだ。
美味しい美味しくないはそれなりに難しい結論や答えだ。ある範囲からは、その原因は様々だが、いたって相対的なものでしかない。倫理観や土地柄、環境。
果たしてそれを職業とする料理人のメンタルは心底畏れいる。料理人とされる人はおよそどこかで修行したりするわけだから、味覚や技術を頻繁に批評の場に曝け出すリスクというのは私からしたらとても考えられない。もしくは己の出自さえも、否定されるような気がして。

そういえば、タモリは地図帳や時刻表で旅をした気持ちになるというが、同じように私もレシピ本で美味しそうなレシピを見つけてレストランへ、はたまた海外へ行った気持ちになれる。それに料理も旅行と似ている。料理の準備も旅の準備も。旅のしおりや料理のレシピ、交通手段は料理手段だろうし、鍋物かフライパンか、何を使うか。他にも類似しているような気がする。
以前、NHKで料理名とヒントだけで他所の地域食を他所の人が作るってのがあった。途中から無理くりそのご当地の特産品を入れ込みだして、あれは非常に残念だった。あまりに料理に対してウソをついているような。チグハグなバックボーンを受け容れるのはそれなりに大変な事だからなおさらそう思った。とはいえ美味かったらそれで良い。本当の味は永遠に謎でもいい、またはそれらしきものを一度食べれば手探りの答えに近づける気がする。言うは易し行うは難し。想像よりも創造の方がずっと難しく、きっと面白い。

ところで、さんざ不器用な私にとって唯一、自己肯定感を高めてくれるのが料理だ。味付けの上手くいった時の感情といったら。あの瞬間だけは私に優る天才なんて、いないだろう。料理は心の滋養にもなるとおもう。悲しい時や寂しい時、モヤモヤした時、とにかくネガティヴな時に料理は役立つ。男だって、タマネギを切るときくらいは、ぼろぼろと涙をこぼして泣いて良いのだ。タマネギのみじん切りなんてのは最高に気分が晴れる。ワサビや、練り辛子を多く付けすぎたものを食べた時も泣いていい。泣くのに理由は必要なんだから。
ほかに延々とキャベツを千切りにしたり、大根を桂剥きしたり(面取りもやると優しい気持ちになれる)。メレンゲをひたすら作ってみたり(もちろん電動じゃなしに。卵黄を混ぜてフワフワ卵焼きを作ろう)。スリコギで色々練ってみるのも良いし(オススメはさつま揚げ作り)、ひたすら納豆をかき混ぜるのも良い(色々なものを混ぜ込んで発見しよう)。
なかでも私は寝ずに煮込み料理を作ることをお勧めする。鍋にザッと材料を切って味付けを決めて、火をつけて、あとは酒を飲んでグダグダになり、鍋には水を注いでやれば良い。材料は時々つまみ食いで酒のアテにもなるものなら、尚更良いかもしれない。日本酒や焼酎なら、おでんとかね。もちろん別な肴を用意しても良い。煮立つ鍋の香り、ふつふつと沸く呼吸、火の温もりをただ、ボンヤリと眺める。1人酒で愚痴や独り言をうだうだ言っても、鍋の中身たちは聴いてくれる。そして酔いがまわるか、一通り飽きが来たら、なるだけゆっくり寝ればいい。そして起きた時にはゆっくり寝かせて味が馴染んだ美味しい料理が待っていてくれている。
鍋の中に、皿の上に、あなたの敵はいない。

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