春に

桜の開花が気象台の基準となる港の地区から一週間遅れでやってくるような山間の地区に僕は住んでいた。
テレビに映る学生たちの背後に望むような桜は僕らの入学式に咲かない。
捻くれた僕は様々な感情が混ぜこぜになっていて、やれ幹の皮が野暮だ、あんな花を好きになるのは浮かれているやつだなどと桜そのものを敵視していた。
そんな僕にとって春とは梅だった。梅とともに入学式や卒業式があった。僕の家の近くには紅梅があって、それは祖母が植えた紅梅だった。
祖母は僕が生まれるずっと以前に54歳の若さで亡くなった。祖父も、父も叔父さんも、そういえば祖母の話はあまりしてはくれない気がする。父と母が結婚するかしないかの頃に亡くなったのだから、当然ながら母には義母の話はないだろう。ただ、そんな僕にとっては多くは語られない、もちろん聞こうとしない僕に語られる立場もないのは重々承知だけれども、そんな僕にとっては唯一無二の祖母に触れられるような感覚を持って接することのできるものであった。
だから年に一度逢うことのできるような感覚を幼心にも覚えて、桜よりもずっと梅を好意をもって接していた。ただそこに慎ましく咲いている紅梅の側に僕はいた。よくわからないけれど、何故かとても落ち着いたから。

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