第79回日本ダービーを僕は死ぬまで愛する

ディープブリランテという馬がいる。私が最も好きな馬である。そして彼は栄光なるダービー馬だ。

私が競馬に触れたのは、東日本大震災の年で、初めて買ったのは府中で代替開催された南部杯だ。トランセンドとエスポワールシチーという当時中央ダート界の二強といっても過言ではないだろう彼らが堅いオッズ通りにワンツーフィニッシュを決めたことで私は"運悪く"当たってしまい、それに味をしめて今に至るのであった。唸るような、まさしく剛勇な先行型のダート馬(スマートファルコンであるとか)が幅を利かせていた頃であり、素人の私でも知っていた英雄タケユタカの名声は没落しかけており、地方競馬出身の名手たちが外人騎手に負けず劣らず猛威を振るっていた頃でもあった。

私はディープブリランテの新馬戦をリアルタイムで観たわけではない。しかし東スポ杯の参考レースでその勝ちっぷり、非凡なスピード性能に私は心底魅了されてしまった。(ビギナーではなくなった今の知識を持った私がタイムスリップして当時そのレースを観ていたら存外、そんなことは思わなかったかもしれない)
思えば、当時の私はひどく純粋だったのである。そして東スポ杯、レースは、ひどい土砂降りで、その中でも彼のスピードは際立っていた。泥だらけになりながらもスイスイと、悠然と突き進んでいく彼の姿に私は心が踊った。そして、この競馬ビギナーは確信したのである。"こいつが誰がなんと言おうと来年のダービー馬なんだ"と

年の暮れにはもう、私の周りには競馬玄人の友人や私が競馬観戦に巻き込んだ友人達と有馬記念を観に行くようになっていた。
震災後改装工事中のパークウインズ福島はそれでも、競馬ファンの明るい熱気が有馬は特別だと言わんばかりに和気あいあいとしていた。尾張ステークスやらファイナルやらクリスマスやら、グッドラックやら。狂気的な熱気ではなくて、おだやかで、ある種の温もりというような空気が充ち満ちていたと思う…

オルフェーヴルは強かった。翌年、彼の狂気に沸き、春の惨敗に呻いて、梅雨は信じられなかった自分を恥じて、秋にはまた夢を見て…というのはまた別のお話。

…あまりにも早い祭典の終わりに目が覚める。浮かれた私たちを現実に引き戻すように、凍えた盆地には積もらない雪がちらいていた。冬の福島の空は鈍色だった。それでも余韻冷めやらぬ私たちは、寒空の下、自転車でアパートに帰る前に競馬場最寄りのセブンイレブンでギャロップや競馬週刊誌を立ち読みしていた。
そこに各ライターや競馬関係者の来年のダービー馬予想が語られていた。そこにディープブリランテを挙げる人は少なく、それを読んだ私は自信満々で"ディープブリランテのことを解ってないやつらめ、年明け緒戦、見ておけよ!"と誰にもあてなく鼻息を荒くして、当たった馬券で出来た儲けで唐揚げ棒を一本だけ買い、帰路に着いたのだった。

年が明けて、性懲りも無く私はロクに勉強もバイトもサークルも恋愛も…大学生に許された様々な事柄をろくすっぽサボり倒し、年金受給者同様に毎週のように競馬場に通っていた。
そしてディープブリランテは明け3歳緒戦、共同通信杯に出走した。前走の荒れ馬場から一変、良馬場で彼のスピードに敵う馬なんていないと信じて私は自信満々で単勝を買い、レースを観戦していた。そう思った人が多かったのだろう、彼は断然の1番人気に推された。そしてゲートが開いて岩田康誠が折り合いに苦労しつつも、そのスピードを生かしたレース運びで最終コーナーを駆けて行く、しかしながら最後の直線、後にその好キャラクターでこの世代で最も愛されたスター、ゴールドシップに差されてしまい2着。競馬はやっぱり差し追い込みなのかな…先行馬じゃ、長い直線の東京じゃ勝てないのかな…
そんな思いでボンヤリと冬本番の2月、アイスバーンになった道をやたらに重いペダルを踏んでアパートに帰った。その頃馬券で負けた日の定番メニューとしていた鶏胸肉(48円/g)とタマネギ(27円/個)だけ入れたカレーを作った。そして少し煮詰めすぎてしまった。結局その日はカレーも食べずにボンヤリとしたままで寝てしまった。
そして2戦目、スプリングS。皐月賞前哨戦だ。そして彼にとって初の中山である。重馬場。1番人気。あの不良馬場実績があるなら、これくらいは余裕だろうと踏んで、性懲りも無く私はまた彼の単勝を握りしめていた。そしてアグネスタキオン最後の傑作グランデッツァの前に2着に沈む。やっぱり気性なのかな、どうにもならんのかな。
福島は3月もまだまだ寒い。

迎えた皐月賞。私の学年も1つ上がり、パークウインズ福島も徐々に立ち直ってきていた。日向にいると、もう薄っすらと汗ばむ。
とうとう彼の人気は6倍前後の3番人気の支持にまで落ちてしまっていた。馬場は稍重。
しかしながら、それ以前の中山のレースが日経賞で江田照男騎手騎乗のネコパンチが人気馬を抑えて、荒れた馬場のなかマンマと逃げ切ったように、とにかく馬場のコンディションがあまり良くないままレースで使用され続けてきた結果、馬場の内側、とりわけ最終4コーナーの内側などはテレビ越しでもとても通れるようには見えず、騎手たちも土曜日曜通じてそこは必ず避けてレースをしていた。

スタート。気合をつけてカドマツ、ワールドエースを倒したゼロスが逃げ争いか、そして離れて岩田が向こう正面までずっと折り合いつけて立ち上がって抑えたままじゃんか。1000m59.1、実質先頭は平均ペースか、馬群が詰まってくるぞ、ゴルシとワールドエースはシンガリから、3コーナー、みんな仕掛けてきてる、4コーナー、アダムスピークの後ろにディープブリランテ…ってゴールドシップ、なんだよそのコース取り!おい、ほんとかよ、マジかよ、まだ、まだブリランテいけー!あっ、ワールドエースだわ、、、でもブリランテ3着残したかな…?

ディープブリランテは3着。内田騎手の大胆かつスマートな戦術とそれに応えたゴールドシップ。唖然そして驚嘆、とんでもないものを見たと思った。その時の私の脳裏には当時のフジテレビ深夜のスポーツ番組すぽると!のマンデーフットボールのスーパープレー集、ズラタンイブラヒモビッチのオーバーヘッドシュートのシーンが思い浮かんだ。
いつものルートで帰路に着いて、またチキンカレーを作りながらレース結果を反芻する。"皐月賞は速い馬が勝つとかいうけれど、でも、でもさ、ほんとに速い馬が勝つなら、どうしてブリランテは勝てないんだよ"私はひたすら嘆きばかり繰り返しカレーを焦がさないようにと、ひたすら、おたまをかき回していた。

なまじっか競馬の知識がついてきた私は半年前、ダービー馬になると信じた馬について、気性が気性だからNHKマイルとかに行くのだろうかだとかモヤモヤとしていた。しかし、陣営はダービー出走を選択した。ホッとしたような、これ以上惜敗を観たくないような気持ちでもあった。ところが、そのNHKマイルでディープブリランテの主戦騎手である岩田康誠騎手が故後藤騎手と事故を起こし、騎乗停止に。後の牝馬三冠、当時二冠をかけていたジェンティルドンナの手綱は握れないことになってしまったのだ。
そしてダービーまでの間に矢作調教師(厩舎)や岩田康誠騎手の間では様々なストーリーがあったが、それはスポーツ紙のアーカイブにお任せする。

私は安藤勝騎手や内田騎手、岩田騎手そしてミルコデムーロ騎手やルメール騎手など各地から選りすぐりの名手たちが既に覇権を英雄タケユタカから奪取したところから競馬を見始めた。だから、偏見としては地方競馬出身の騎手や外国人騎手を信頼して、手綱捌きに惚れ惚れしている。今でも忘れないのは安藤勝己騎手の福島ラジオNIKKEI賞のヤマニンファラオのパトロールビデオだ。本当にアンカツだけが馬を真っ直ぐに走らせていて、本当に感動した。そして通年騎手となった外国人騎手2人はもちろんのこと、戸崎圭太騎手の手綱捌きが素晴らしいのは言うまでもない。
ただ、この全盛期を知らないからこそある種の嫉妬的なところから派生したアンチタケユタカのマインドはマイルCSで、英雄、そして淀の覇王の力をまざまざと見せつけられて改心したのではあるが。

そして、5月。私の誕生日付近が毎年ダービー開催日だと知って、運命を感じざるを得なかったあの頃。真夏日を連発する福島盆地同様に私もまたダービーの熱気に浮かされていた…とは言えず、お経のようにディープブリランテを信じる半ば自己暗示をダービー前週の水曜日ころからソワソワとしていた。

馬券はディープブリランテの単勝と3連複のボックスを買った。ディープブリランテ、フェノーメノ、ワールドエース、ゴールドシップ。そして最後に友人のアドバイスを受けてトーセンホマレボシを買い目に入れた。その友人はヒストリカルをしこたま買っていた。結果は…

パドック。ディープブリランテは抜群に良く見えた。馬装等のことが未だによく分からないがタテガミの編み込みが、キマってるように見えたのである。完全に贔屓目だ。そもそもG1に出てくるような馬は我々からしたら皆良い馬にしか見えない。よっぽど具合悪そうな馬だとかはいたりするがそういった馬も見受けられなかった。

私は新参なので、未だに馬場入場曲の何が良いか分からないし、なんならその当時既存ファンから嫌悪されていたマーチこそが私にとっての馬場入場曲そのものなので、そこはなんとも言えないところではある。アナウンサーが一言添えて送り出すシステムは私は何処のアナウンサーがやっても別に好印象だ。

本馬場入場シーン、ファンファーレの瞬間の人々のコダマはマジョーラカラーのように艶かしくて、拍手の音は滝壺に注ぐ瀑布のようで、えもいわれぬ雰囲気がある。生気がある。活気がある。夢があって、欲望もある。あの瞬間、我々はもはや誰でもない。熱狂の観衆。ゲート入り、ゲートが開く。誰もが息を飲み、そして一斉に魂を鳴らす…

アナウンサーが、それぞれ読み上げて返し馬が映る。
ディープブリランテは落ち着いている。岩田騎手も首元をポンポン叩いてリラックスさせているようだ。
輪乗りも悪くない、発汗も少ない…いよいよだ…
腹のなかと心臓が誰かに握られているようだ。でもディープブリランテは勝つ。俺がダービー馬になるって直感したのだから。信じろ。オッズは美味しいぞ。

スタート。すんなり前に。そして2コーナー手前。よし!!めちゃくちゃ折り合ってる!スムース!いける!そのまま!
(向こう正面〜3コーナーひたすら息を飲み、直線を迎える)

いいぞ!手応えいい!
いけ!いけ!残せ!残せ!がんばれ!がんばれ!いけ!残せる!

どっちだ?ギリギリで凌いだ?凌いだ?残した?………残ってる!勝ったあ!やったあ!!!岩田さーん!!ブリランテやったぜ!!!やったー!

初めての万馬券を当てた。彼は最も運の良い馬だったのだ。しかしながら私は"不運にも"、また当たってしまった。しかも万馬券。その日はチキンカレーを食わなかったが鳥モモ肉は食べた。POGはその当時は知らなかった。また、知っていたとしてもやる気はなかった。

ダービー馬は最も運が良い馬が勝つという。

ディープブリランテはその後、英国へ遠征。しかしながら帰国後に脚部不安で引退。二冠目の栄光に挑戦すら出来ず、ターフを去った。私は彼が古馬と戦う姿、彼が古馬になって一段とタフになって、強くなった姿を見たかった。でもそれは叶わなかった。


私にはオグリも、ユタカも、ディープインパクトも、そしてお気に入りの本馬場入場曲も無い。それに、オルフェーヴルだって、最初からずっと見てたわけじゃ無いから3冠馬を追えたわけじゃない。

なんでもかんでも東日本大震災の話に結び付けるのはダサいのは重々承知しているけれど、あの頃なにかがポッカリと抜けてしまっていた私は、そんな何も無い自分に、自分のための居場所が欲しかったのだと思う。
そんな鬱屈としたなかで、直感的にめちゃくちゃに強いと思えた馬が、最終的にダービーを勝ったことで私自身は何をしたわけでもないのに、何故だか自信になったんだ。きっとディープブリランテのあの真面目な走りが何も無かった私の隙間を埋めてくれたのだろう。

私という競馬ファンの根底には懸命に、ひたむきに走り続けるディープブリランテがいる。思えば、どこか彼には自分と似た部分をどこか重ねて見ていた。それと同時に彼に対して憧れの気持ちも勿論あった。
そしてパークウインズ福島の壊れかけのスタンド、狭くて天井の低い一角、内馬場の馬券売り場に固い椅子に腰掛ける私と友人たちの姿を見る。

あの頃は何も無かった私の競馬だけれども、でも今はディープブリランテがいて、ヤスイワタがいて、壊れかけの競馬場があって、友人の笑い声が聴こえるのだ。

ほんと、ここまで競馬というものに対して、のめり込ませてくれた彼に出会えて良かったと心から思う。

そしてこうも思うのだ。私というやつは本当に、なんて"運が良い"やつなんだと。

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