手の届くはずの義理を果たせ

身内の葬式に行かしてくれなかった所長がある日突然死んだ。パワハラ依怙贔屓は当たり前、仕事はできるが恨まれることをさんざやってきたおっさんだった。ただ以前に彼は過労で倒れて心臓に穴開けていた。俺は彼の葬式には出た。それはそれ、これはこれだと思うからだ。自分の中で不義理だと思ったからだ。奇しくも喪主は俺と同い年の息子で、ちなみにその所長は俺の親父と同い年だった。俺は泣いた。あの喪主は俺であり、死んだ所長はこのままこの会社に勤め続けた結果の俺だと感じたからだ。
いわゆるめんどくさい田舎のシガラミだとか、人間関係だとか、それを切っても生きていられるのは人の多い都会だけなのではないかと感じている。周りに人が多いことはそれだけ多くの担保になる。俺の逆張りはそうそう当たった試しがないけれど、否、この人との繋がりを大事にするしない、このどちらが順張りか分からないけれど、結局のところサイコロを振るのは自分自身でしかない。
自分の周りに見える人、自分には見えていないけど時たま目に入る存在もまた、自分のパラレルな姿だと日々の生活で思い改めること(余裕があればだが)が肝要なのではないだろうか。
明日は我が身だ。

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