幼心と老婆心の既視感

 一般的な死因について、突然死よりも病死など長い目で死ぬ場合が多いと言います。命には始まりがあれば終わりがありますからね。

 死ぬということ、生きるということについて考えるのは大変に難しいことです。とはいえ人間の生き死について考えるということは、私が如何にヒマを持て余していて、実にのんびりとした発狂に陥っているのかということのなによりの証左でもあります。

 さて、本邦においてはクールジャパンで魅力的なコンテンツを世界へ発信でありますとか、外国人観光客におもてなしですとか、地域の良いところを再発見しましょう、などというものが流行っておるようでございます。またふるさと納税などございまして色々とあるようでございますが、それにつきましては私はやらぬ善よりやる偽善と存じております。偽善と称すは偽善すらままならない輩のヤッカミでございます。

 我々と異なる文化の方々の耳障りの良いご意見や耳に痛いお話などは大変に基調で興味深いものが見受けられます。私は敢えて、ガイジンと言わせて頂きます。生憎ながら、私は日本人とそうでない人種としか判断しかねます。故に皆様平等にガイジンという至って伝統的かつ一般的な表現で進めて参る所存でございます。

 私はクールジャパン戦略は好きです。なぜなら人間には人間の言葉で、言わなきゃ、伝わらないのです。得てして、無口なやつに寄ってくるのは物好きです。ですが、その伝わり方でも最終的に大衆的に伝われば、万事解決となりますのでそれはそれでアリでしょう。

 人と話すときに自慢げなヤツ、卑屈なヤツ、自嘲気味なヤツ、何事も否定から入るヤツ。嫌われるヤツのサンプルは他にもゴッソリあるでしょう。そして、こういうことをネチネチと書き連ねる私は嫌味で卑屈で自嘲気味と三拍子揃っているわけでございます。面白い話、とりわけ他人の興味を引いて、後にも残る話というのは、やはりインパクトが大切であります。

 人間は興味を持ち、またそれ以上に他人からの興味を引きたいのが性というものでございます。それこそが社会を構築して人と為すものでございます。ヒトは心を得て徐々に人間となるのであります。つきましては表題のごとく、幼いときから既に人は他人から興味を持ってもらいたいわけですし、死ぬときも誰かに看取ってもらいたいものでございます。人の世に生き死にする限りは他人に面倒かけずに生き死にすることなぞ到底できないのでございます。(そう考えると孤独死をするくらいなら、獄中死を遂げた方が、もしかしたら幸せな最期なのかもしれません)

 日本という国家はまさに現在このときも老衰でくたばる寸前でございます。近所に愛想の良い老人であります。死に目の老いぼれは、虫の知らせで知人友人に宛てて手紙を認める方もいらっしゃるようです。2020東京オリンピックという大きな墓標を準備して、クールジャパンというお手紙をまさに認めている真っ最中だと私は思えてならないのです。

 というようなありきたりすぎる話もございますが、国家はそれほど、そこまで人間の体はしていないでしょう。

 なぜこのような、まどろっこしいことを書いたかというと私にとっていま最も恐ろしいことが「誰かを忘れること」、「誰かに忘れられること」、この2つだからです。だからこうしてこの文章を打ち込んでいます。私にとって生きているということは忘れないでいるということなのです。覚えている、思い出せるということなのです。生まれたときから我々は死にいくものです。他人は自分の顔をしていませんから、それぞれの生死観があるのは重々承知です。それでも私は一度でも何らかの話をした相手のことは覚えていたいのです。死んでも心の中にいるみたいな鼻白むような話で申し訳ないですが、私はよっぽど滅茶苦茶にロマンチストなようです。殺人鬼的な発想ですと殺せば自分のモノになるだとか、マンガの吸血鬼の設定にありがちな他人の血を吸えばなんとやらだと流石に非人道的過ぎますので。他人は自分の所有物には成り得ませんが、他人との思い出だけは如何様にも自分のとおりにできますからね。

脳みそがやられたらどうしようもないですが。

でも、思い出や会話などの内容が自分に都合が悪ければ、どうせ人間死ぬしな~地球が誕生してから人類の歴史なんてほんの数秒だしな~人間なんてクソだ~で解決です。人を殺したらマズイですが、記憶から抹消する分には罪に問われません。脳内で存分に済ませた方が良いでしょう。そのためにも、五感に頼らない想像力は常日頃から養う必要があります。

オナニーは貧乏舌よろしく、少ないオカズで。

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