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 「彼はジェンダーだからさ」と得意気に言われた。なんのことか分からず呆然としていると「シイタケ君には言わなかったけどさ、シイタケ君のお義父さんやられてるぞ。そのお義父さんが飲み屋で拾った芸人、ジェンダーだからな」となおいっそうジェンダーという単語に情感をこめて、馬場さんは再び言う。わざわざ芸人とジェンダーとの間で息を深く吸いこんでから、発せられたジェンダーという単語は私のかろうじて残っていた思考力を根こそぎ奪っていった。発車したばかりだから、まだシイタケ君はルームミラー越しに見えたのかもしれない。馬場さんはミラーの角度を直しながら後ろを窺っている。ルームミラーに写った馬場さんの目はキラキラいたずらっぽく輝いていた。

 後部座席で黙っていると「あの芸人、中野でよく見かけるんだけど、まさかシイタケ君のお義父さんのうちに住んでるとはね!意気投合したからって、一人暮らしで寂しいからって、見ず知らずの男をうちに連れて帰るかねぇ」と含みをもたせからフフフと笑う。なにが愉快なのだろうか。「シイタケ君もさプロレスラーみたいな体格じゃん。すごいお義父さんに好かれてると思うんだよ。だからさ中野まで乗せていってくださいって俺らに頼んだんじゃないかな。お義父さんに会うんでしょ。今度会った時ささりげなくきいてみてよ。今日の試合の結果をさ。異種格闘技戦だよね。あの芸人はなんかアルフィーの高見沢みたいだし、反対にシイタケ君はゴリラっぽいマッチョだし、お義父さんはどんな感じだろうね。俺は勝手にショーンコネリーみたいな親父さんを想像してるんだけど」

 「はぁ」とだけ答えて、後部座席で束ねている書類を広げる。指がかさついてなかなかページがめくれない。昼間、お客さんの前で指を舐めながら書類をめくっていた馬場さんを思い出した。心がさらに、かさついた。

 「けどさ、今思ったんだけどさ。お義父さんがジェンダーだって気づいていたら、俺らに飲み屋で拾った芸人と一緒に住んでるなんて言わないよね!そうだよね!けどね、ネットで調べてみてよ。あの芸人はジェンダーなのは間違いないんだから!」

 まずはジェンダーの意味を調べるべきでは、いやその前にデリカシーってご存じですかと諭そうと思ったが、ハンドルを握る腕や甲にぽつぽつと刻まれている点を見て思いとどまった。夏の暑い盛りに馬場さんが教えてくれたことを思い出す。蚊に刺されたときは根性焼きがいいんだよと。たばこを一吸いしてから、かゆくて仕方ないとこにぎゅーって押し当てるんだよ。そうすると消えちゃうんだよかゆみが!とその時も得意気な顔をしていた。かゆみは消えるのかもしれないが馬場さんの腕には複数個の赤くて丸い火傷跡が残っていた。Lenovoのパソコンがぼんやり頭に浮かんだ。このトラックパットで馬場さんを操作できたらいいなあと思った。

 季節のうつろいと共に、トラックパットも変化しているのだろうか、今は薄い桃色になっている。やはり、いつかは誰かが諭すべきなんだろうか。ジェンダーの意味やら現代の私たちを取り巻く意識の変化などもろもろを。あのトラックパットが消えたら優しく諭してみようと思う。

 

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