自然=過不足がない状態

自然には過不足がない。花びらの枚数や、昆虫の姿、山や海も「ぴったり」の姿にある。人工物においては無駄が多いが、自然には無駄がないのだ。よく、写真を撮る時に「自然な表情で」とカメラマンが言う。作った表情ではなく、力を抜いた状態の「ぴったり」な姿を要求する時に使う表現だ。

ぼくが考える、究極の「過不足がない自然」はシャボン玉だ。まん丸のあの状態は、まさに過不足がない。形も無理がない。全く力が入っていないのにも関わらず、球体を保てている。これ以上の無駄を省くと割れる。この「割れる」「割れない」の瀬戸際で存在しているのが、シャボン玉なのだ。円形というのは、力が全く必要ない形なのかもしれない(物理学的なところはよくわからないが)。

ぼくが好きな画家のカンディンスキーも、円形のことを「静かな形態」と呼んだ。この形においては抑制と充溢とのどちらも許され、「最大のパラドックスが結合」され得る。沈黙は騒音よりも雄弁であると。カンディンスキーの晩年の作品には円形をモチーフにしたコンポジションが数多く残されている。

球体を転がすと、摩擦も少ないから転がり続ける。サイコロは転がしてもすぐに止まる。丸い性格になれば、摩擦もなく転がり続けることが出来るのであろうか。ここに人間関係を円滑にするヒントがあるように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?