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『ひまわりと月明』 第1話

昼下がり、公園の一角。

ベンチに座り、背もたれに体を預けながら僕はイヤホンから流れるクラシックの音色に耳を傾けていた。

その旋律は僕の心を包み込むように広がり、公園全体がその音に彩られていく。

鳥たちの歌声が、音楽に混ざり合って一つのハーモニーを奏で、風もやわらかく吹いて、僕の髪をなびかせた。

公園の中を歩く人々も、花壇で踊る花々も、みんなこのオーケストラの一員。

音楽は山場を迎え、僕はだんだんと昂るその気持ちを抑えられなくなって、膝に置いていた指が鍵盤をたたくように動き出す。

このまま、音の海の中に沈んでしまいたい。

このまま、音楽の世界に住んでしまいたい。

このまま……


「おーい」

イヤホンがはずされ、小鳥たちの合唱が鼓膜を震わす。

僕の目の前には、タオルで汗を拭く一人の男。

僕のイヤホンを外したのもそいつの仕業。


「五回は呼んだぞ。お前は音楽に夢中で聞こえなかったみたいだけど」
「ごめん、××。でも、まあ......いつものことじゃん」


おどけながらそう言うと、××は呆れた顔を浮かべ、手に持っていたイヤホンを僕の元に差し出す。


「それ言うとしたら俺だろ。ランニング終わったから、飯でも食いに行かねーか?」
「いいね。どこ行く?」

僕は腰を上げ、ガタイのいいスポーツマンの隣に並ぶ。


「咲月とアルノも呼ぶか」
「確かに。僕らだけで行ったって知ったら怒りそうだ」

僕らはそれぞれ、別々の番号に電話をかけて二人を呼び出す。


「今から行くってよ。そっちは?」
「僕の方もバッチリ」

「となると、どこに行くかちゃんと考えなきゃな」
「僕らだけだったら、適当でいいんだけどね」


二人の笑い声が、陽だまりに溶ける。

空は、青く輝いていた。




《・・・》




固い音楽室の床。教科書を枕にして寝転び、おぼろげな意識の中、しんとした教室に響いたピアノの音が鼓膜を揺さぶる。

誰もいない教室でスピーカーを介して奏でられる音楽は、縛るように、覆いかぶさるように僕を包んでいく。

意識は遠のき、徐々に、徐々に夢と現の境界を曖昧にしていく。

吐き出す息が苦しい。

照らす照明が熱い。

気が付いた時には、僕はスーツに身を包んで、ピアノの前に座っていて。

震えたまま鍵盤に指を添える。

よどんだ音が、ホールに響く。

僕の指が鍵盤をたどる度に、その音は予測不可能な方向へと進んでいく。

こんなんじゃない。

もっと優しく、もっと強く、もっと速く、もっともっと……

嫌になるほど冷たい汗が頬を伝って木目調の床に滴る。

こんな音は、僕の音じゃない。

鍵盤を叩いていた指はとうとうそれを叩けなくなってしまい、針金が入ってしまったかのように固まり、動かなくなってしまう。

浅くなる呼吸と、客席から聞こえてくる深いため息。

恐る恐る首を横に回してみると、壊れた人形を見るかのような視線が、証明に照らされたピエロの元に注がれていた。

弾かなきゃ。

そんな考えは残っていた。

しかし、心がそれを拒むのだ。

弾かなきゃ。


「起きて」

弾かなきゃ。


「起きてってば」

揺さぶられた意識、頭の中で鳴り響くピアノの音。

ぼやけた視界と、夕日が差し込む音楽室。


「こんなところで寝たら風邪ひくよっていつも言ってるじゃん」
「あ……そう、だったね。ありがとう」


体を起こし、僕を夢から引きずり上げてくれた主であるアルノに一言お礼を告げる。

固く握りしめていたであろう僕の右手は、手のひらに爪の後が出来ており、全身からは汗が噴き出していた。


「また魘されてたよ」
「うん……ひどい夢を見た......かもしれない......」

「音楽室で寝てたら体痛めるんじゃない?」
「でも、ここなら誰も来ないし。時間をつぶすにはもってこいだし」

「でも、寝る必要ないじゃん」
「それを言われたら返す言葉もないや」


僕らの会話の途切れ目を聞いていたかのようにポケットに入っていた携帯が振動する。


「あ、咲月から」
「ほら、早く帰る準備しよ」

僕は急いで教科書を鞄に詰めて音楽室の鍵を閉めた。




・・・




体育館では、バスケ部の選手達の掛け声とスキールノイズが響きあい、制汗剤の匂いが開け放たれた扉から吹き込む風に散っていた。

汗が飛び散り、口の中は乾ききっているにもかかわらず体を動かすのをやめる選択肢は頭に浮かばない。


「ボール!」


俺の声に呼応したチームメイトが正確なパスを胸元に寄こす。

向かい合った選手は一人。

パスコースは無い。

ボールをコートに弾かせ、掠めるように、一瞬の加速で相手の横をすり抜ける。

しかし、まだ迫ってくる。

俺はすぐさまスピードを落とし、開けた視界のまま、ふわりと飛び上がり、ボールをリングに向けて放る。

ボールは綺麗なアーチを描き、ネットにこすれる音と共にリングの中を通り、地面に落ちる。

俺はグッとこぶしを振り下ろし、それと同時に汗が飛ぶ。


「よし、終わりにしてダウンしておけ」


監督から練習を終わらせる指示が出ると、先ほどまでコートに立っていたチームメイトは皆体育館の床に座り込む。


「お疲れ、××」


膝に手を付いた俺に声を掛けてきたのは、マネージャーの咲月。

手にはタオルと、俺のボトルを持っている。


「サンキュ」
「わぁ……見て。体育館の外、すごいよ……」

咲月が指をさす先には、五、六人の女子生徒。

俺がそちらを向くと何やら歓声が起こる。


「××のファンじゃない?」
「興味ねーよ」

俺は咲月からタオルとボトルを受け取り、汗を拭いてからスポーツドリンクを喉に流し込む。

乾いた体に沁みこむ感覚が気持ちいい。


「早く着替えて、○○とアルノのとこ行かないとな。待たせちゃ悪い」
「私、メッセージ送っとくよ」

「頼むわ」

急いで部室に戻り、丹念に制汗シートで体を拭く。

咲月と合流して校門に向かってみるが、二人の姿はない。


「あれ、いねーじゃん」
「ほんとだ。待ってれば来るかな?」

「だと思うよ」
「にしても、今日の××かっこよかったよ。最後のなんて、キュ!シュパ!って」

「なんだそれ」


咲月の適当な擬音とシュートの真似に思わず笑ってしまう。

そっと、「かっこよかった」の一言を、胸にしまって。




・・・




「ごめん。遅くなった」

校門の前には、もうすでに××と咲月の姿があった。

恐らく僕らを待たせないようにと急いでもらったのだろうけど、遅れたのは僕らの方になってしまった。


「あ、○○がぐっすり寝てたせいだからね。遅くなったの」
「そんなことだろうと思った!」


咲月の言葉は少々心外ではあるが、今回ばかりはアルノの指摘が事実なので飲み込むほかない。


「早く帰ろーぜ。俺もう腹減ってしょうがないわ」
「どこか寄ってく?」

「いいね、あり」

春の訪れを告げるような夕日をアスファルトが反射して、世界がオレンジ色に染まる。


「二年になったら、四人全員同じクラスだといいな」
「そうだねぇ。私たち、小学校の頃からみんなで一緒になったことないもんね」

桜の蕾は日を追うごとに膨らんでいる。

もうすぐで、花が咲く。




………つづく

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