ひまわりと月明 『第8話』
九月に入った。
暦の上ではもう秋だというのに、照り付ける日差しも、焼き付ける様な暑さもちっとも夏から変わっていない。
じっとりとした汗が額から滲む。
エアコンをつけて、防音室の扉を閉める。
「あぁ~涼し~」
おっと、いかんいかん。
申し込んだコンクールまでそんなに悠長にしている時間なんてない。
朝の貴重な時間も無駄にしてはならないな。
いそいそと楽譜を広げて、ピアノを弾き始める。
夏祭り以降、ピアノに対する熱が上がり、毎日のように防音室に籠る中学校時代のような生活が始まった。
相変わらず、まだまだブランクを感じる様な演奏だなとは思うけど、縛られないピアノは存外楽しいものだった。
「ん~……。もうちょい強弱付けないとかな……」
自分の演奏の録音を聞いては反省会。
反省会をしては演奏。
その繰り返し。
申し込んだコンクールは、参加者数も賞としての名もそこそこのもの。
いきなり大きなところに申し込む勇気は生憎持ち合わせてなどいなかったのだ。
もう一回弾こうと思った時、録音に使っていた携帯が震える。
「もしもし?」
アルノからの電話。
『さっきからインターホン押してるんだけど。遅刻するよ』
要件は、俺の呼び出し。
「え、もうそんな時間か……」
『早く準備してね』
電話を切って、慌てて制服に着替えてバッグを肩にかける。
玄関を開けた先には、手でパタパタと仰ぎ、だるそうにアルノが立っていた。
「遅い」
「ごめん。ピアノ弾くのに夢中になってた」
「…………!」
アルノは驚いた顔をしたけど、次第にその顔は微笑みに変わる。
「夢中になるくらい、○○の生活にピアノが戻ってきたんだね」
「あー、確かに。そうかも」
「なんて無駄話してる時間なんてないよ」
「ごめんって」
いつもより早足で、二人で学校に向かう。
今日は××と咲月は朝練の日。
こんな暑い中よく頑張るわ。
汗だくになりながらようやく学校に到着すると、教室の一角には人だかりができていた。
「咲月おはよ。あれ、何?」
「あー、あれね」
その人だかりの中心には××。
先週末の大会で勝ち進んだことが原因となっているらしい。
「あと二つ勝てば全国なんだろ!」
「絶対応援行くよ!」
「インターハイ予選は惜しかったからな~!」
「今度こそ期待してる!」
クラスメイトからの期待の声。
××はそれに笑顔で応えている。
「××、なんか気合入ってるね」
「準決勝、決勝は十一月だから二か月後なんだけどね」
「でも、こうして期待されるのは××にとっては嬉しいんじゃないかな?」
「ん~……」
咲月は首をかしげて唸る。
「これで変なプレッシャーにならなきゃいいんだけどね……。××、いいとこ見せたがりだから」
「辛辣なのか、的確なのか」
「でも、今の××なら大丈夫なんじゃないかなって思えるんだ」
咲月の言うこともわかる。
××はあんまり自分の弱いところを見せない。
時々無理してるんじゃないかって思うこともあるけど、今回の××は普段と少し違う。
思わず期待してしまうくらい自信に満ち溢れた眼をしている。
「このまま、全国行っちゃいそうだね」
「追いてかれないようにしないとな」
頑張ってるやつをみると、自分も頑張らないとなって気分になる。
また一段と気が引き締まる。
放課後になるなり、家に帰って防音室に籠る。
「私も聞いてていい?」
「もちろん」
コンクールの課題曲の楽譜を広げて音符を浚う。
……なんか、いい。
指先がいつもより良く動く。
呼吸の音と、心臓の音だけが頭の中に響く。
今日、やっぱりいい日だ。
・・・
ピアノの音色が心に沁みこむ。
過集中ってやつなんだと思う。
××の頑張りに感化されたんだと思う。
それに今日の○○演奏は、昔の○○を彷彿とさせる。
楽しそう……って言うのとはちょっと違う。
駆り立てられるよう……って言うのも違う。
なんだろう、この感覚。
「…………」
ピアノに熱中する○○の背中を見つめて、答えを探してみる。
じっと見つめて、適切な言葉を。
あ、わかった。
気持ちよさそうなんだ。
まだまだ、昔の感覚が全部戻ったとかじゃないと思う。
音を拒絶してるって言うのもそのままなんだと思う。
だけど、そんなことも気にならないくらい楽譜に集中して、流れるように指が動いて。
音なんか邪魔になるくらいのところに立ってるんだと思う。
このまま、○○は過去の呪縛を完全に振り切るかもしれない。
いや、かも知れないじゃなくて、振り切ると思う。
振り切ったらきっと、もう一度夢を追うんだろうな。
その時、私は?
私は、どうするの?
私には追いたい夢も、熱中できる何かも、何もない。
空っぽの人生を、【○○を支える】なんて名目で埋めていただけ。
○○を自分の中の鳥かごに閉じ込めて満足していただけだ。
その籠が壊れた時、私には何が残るの?
私は、どうすればいいの?
その日の夜、家に帰って音楽を聴きながら課題をやっていても、そのことが頭の片隅で蠢いていた。
「だめだ……」
何にも集中できない。
音楽は流したまま、課題を放ってベッドに寝転がる。
目を瞑ると、夕方の光景が瞼の裏に残ったまま。
ピアノを弾く○○の姿。
音楽って、楽しいのかな。
私は歌うのが好きだ。
でも、それは好きなだけであって夢とかじゃない。
私はずっとそう思っていた。
だけど、ちゃんと音楽に触れたらどうなんだろう。
だけどそれが歌じゃない気がする。
○○みたいに、何か楽器を。
適当に、楽器を演奏している動画を見漁る。
この中にもし、一瞬で心惹かれる様なものがあればなんて、一縷の希望を持ちながら。
ピアノ、違う。
トランペット、違う。
ギター、違う。
中々、ピンとくるものはない。
一目ぼれで決めようなんてのが間違いだったのかも。
そう思って、次の動画にスクロールしたときだった。
「あ……」
これだ。
ざわざわした感覚。
胸がそわそわする感じ。
最近はやりの曲を、ドラムで叩く動画。
ドラム、楽しそうかも。
・・・
思い立ったが吉日。
とは言うけど、その日がダメそうなら次の日こそが吉日。
流石に思い立ったその日では時間が遅すぎた。
「アルノ~。帰ろ」
「あ、ごめん。私、今日用事あるんだ」
「そっか。じゃあ、また明日な」
○○と別れて、私は駅の方に。
探すのだけは思い立ったその日にやっておいたドラム教室に。
近づくにつれて緊張が増す。
自分から何かに挑戦するなんて初めてだ。
だけど、ここで逃げたら昨日までの自分と何も変わらない。
ちょっとでも、変わるって決めたんだ。
私は意を決して扉を開く。
「あ、あの……!き、昨日体験を予約した中西です……!」
「はい、中西さん!お待ちしておりました!さっそく、ドラム触ってみます?」
その教室の先生は、女の先生で、気さくで明るくて。
緊張して冷えていた手もあったまってくる。
「い、いきなりいいんですか……!」
「どうぞどうぞ!楽しさを感じてもらうには、実際にやってみるのが一番ですから!」
私は促されてドラムの前に座る。
実際に楽器の前に座ってみると、ドラムセットが普段の何倍もの大きさがあるように感じる。
何もプレッシャーのない私ですらそうなんだから、いつもピアノと向かい合ってた○○にはどう見えていたんだろう。
「まずは……何にも縛られず、適当に叩いてみましょうか!」
先生の指示通り、本当に何も考えずにドラムを鳴らす。
連続して叩くことで、独立していた音と音が重なり、繋がり、それがどんどんと和を成せばやがて音楽になる。
題名のない音楽。
いつも、どこか他人みたいに思っていた音楽。
初めて自分から潜ってみた音楽の海は、こんなにも色鮮やかだったのかと驚かされる。
「どうでした?」
「すごく……。すっごく、楽しかったです……!」
○○も、初めてピアノを弾き始めたころはこんな気持ちだったのかな。
家に帰って、お風呂に浸かって、ご飯を食べて。
寝る直前になっても、スティックを通じて感じた振動と、バラバラの音楽が耳に残って離れなかった。
………つづく
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