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バーテンダーさん、ブル・ショットを。《前》

全身にできた痣が痛む。

雨が、傷口に沁みる。

分厚く、灰色に張られた雲はまるで鳥かごのように押しつぶすように圧力をかける。

もう、何日ご飯を食べてないだろう。

何日、まともに眠れていないだろう。

痛い、痛い、痛い。

冷たい、寒い。

もう、何日こうして歩いていたっけ。

家を出て、もう一週間になるか。

何も持たず、逃げるように飛び出したあの家が。

全部が敵だったあの学校が。

『みぞおちヒット~!俺の勝ち~』

『んだよ、もう酒ねぇのかよ。ちっ、何見てんだコラ!』

『ごめんね……○○……』

今日までの十七年間、よかった思い出なんて一つもない。

もう死んでしまいたいとなんど思ったか。

『○○は星が好きなのね』

……そうだ、星だ。

力尽きて、雨水の溜まる路地裏に座り込んだ。

もう、意識も朦朧として、頭も回らない。

全身にできた痣が痛む。

開いた傷口に雨が沁みる。

このまま、目を閉じれば。

そうすれば、この苦しみからも解放されるのかな。

ぼやけた視界。

真っ暗な路地裏から向こうを行き交う人々。

このまま目を閉じてしまえば。

見上げたって、雲が押しつぶすように世界を見下ろすだけ。

このまま目を閉じてしまえば。

そうすれば僕も、母さんのところに行けるのかな。

僕も、星になれるのかな。

目を開けている気力もなく、体から力も抜ける。


「……大丈夫…………えってば……!」


僕のことを、誰かが呼んでる。

温かい手が、僕に触れる。

痛い。

寒い。

雨は。


「おかあ……さん……」

僕も、あと少しで行くから。




==========




頭が揺れた感覚で、まだ生きてしまっている・・・・・・・・・んだということを突きつけられる。


「はぁ……」

ドスの利いたため息。

酒臭いそれが鼻孔を刺激する。


「とっとと死んでくれや」


父は、酒に酔うといつもそう口にする。

うつろな目が、僕を捉え、制御の利かなくなった拳が防衛本能から頭を守る僕の防御なんて無かったかのように振り下ろされる。


「あの女が死んだのも……お前のせいだろうがよぉ!」


■のいう、あの女。

三年前、首をつって自殺をした母さんのこと。


「げほっ……!」


息もできず、殴られた箇所を押さえてうずくまることしかできない。


「おい、今から行くから準備しとけよぉ?」


電話、してるんだろう。

やがて■の気配は消えて、部屋には僕一人になった。


「ごべ……ぁざい……」


顔を上げると、天井の梁にロープをくくって、そこに繋がった母の姿。

宙づりになって、揺れる、母の姿。

先ほど殴られた痣も、傷もなく、真っ黒な学ランに身を包んだ僕。

これは、きっと夢だ。

悪夢だ。

なんども、なんども見た。


「おかあ、さん……?」


テーブルに、一枚の紙。

父が帰ってくることなんてない。

僕宛の、母さんからの遺書。

たった一言、【守ってあげられなくてごめんね】。


「おぅぇぇ……!」

何かが、胃袋からせりあがって、吐き出したのちに酸っぱさが口の中に残る。

呼吸はだんだんと早くなって、また、吐き出す。

事実を受け入れられず、悲しみに打ちひしがれ。

されど、涙は出ない。


「かあさん……」

せめて最後に、その手に触れたいと手を伸ばし……

僕の手は空を切って、そこは高校の校舎裏。

ブレザー型の制服に身を包み、すでに砂埃であちこちが汚れ、再び痣が痛みだす。


「おい、動くなよ」
「あ……え……」


にやにやと、僕の方を見る男子が四人。

その手には、硬式の野球ボール。


「俺、このまえやきゅー部のやつに聞いたんだよ。デッドボールって何キロくらいの球当たんのーって」
「何キロだったん?」

「130とかもザラにあるんだってよ。で、俺思っちゃったわけよ」


背後は金網。

人の気配は他にない。


「じゃあ、当てても死なねーじゃん……って」
「はは!てんさーい」

「○○~。お前、的な?」


指にかかったボールが、シュウと音を立てて向かってくる。

こわ……

僕は反射的に頭を守る。

ボールは、音を立てて金網にぶつかる。

恐怖なんて感じ着る前に、ボールはこちらに届く。


「あれ~?デッドボール当てるのってむずいのな」
「次、俺に……」

「おーい、何やってんだ~」
「先公だ」

音を聞いて駆け付けたのか、先生が校舎裏に来た。

しかし、男子生徒たちが焦る様子はない。

それもそのはず。

彼らは、知っているから。


「なんだ」


ため息をついた先生は、状況を確認するとすぐに背を向け、


「ほどほどにしておけよー」
「はーい」

校舎へと、戻っていった。


「うっし、続きすんべ」
「次俺な~」

そう、彼らは知っている。

この行為を、あのひとが咎めないということを。


「せー……のっ!」


先ほどよりも、速いボール。

真っすぐ、僕の所へ向かって。


「あ……が.......」
「みぞおちヒット~!俺の勝ち~!」

強くめり込んだボール。

息もできず、うめき声を漏らして崩れるだけ。


「おら、立てよ!」


衝撃。

彼らは、丸まった僕に蹴りを入れる。


「一回で終わったらおもしろくねーだろーがよ」
「ひっ……」


僕は、せめて死なないように、頭を守って、それを受け入れることしかできない。




==========




「はぁ……はぁ……」

荒い呼吸で、目が覚めた。

大量の汗。

痣と、切り傷。

傷口には少し不格好に絆創膏が張られ、目覚めた場所は覚えのない部屋に覚えのないベッド。

空腹からか、寝起きだからか。

頭が上手く情報を整理してくれない。

ここは、どこだ。

外は雨で……

路地裏で倒れて……

誰かが、僕を…….

静かな部屋に鍵の開く音が響いて、誰かが部屋に入ってくる。

暗い部屋が一瞬で明るく照らされて、女性の姿が見えた。


「あれ、起きたんだ。おはよ」


優しく僕に微笑みかける女性は、持っていた袋を置いて、僕の方へと近づいてくる。


「具合、どうかな……?」
「…………!」

女性の手が、僕の頭に伸びて。

『とっとと死んでくれや』

殴られる。

考えるよりも早く僕は頭を守っていた。


「あ……ごめん……。怖がらせちゃった……かな?」
「こ……これは……」

女性の引いた手が、どこか悲しげで。

僕は顔を見られない。


「ごめんね。熱だけ、見させて」


そっと、僕の額に手が触れる。


「うん、熱はさっきよりはだね」


うんうんと頷くと、彼女は一度部屋を出て、すぐに戻ってくる。


「お風呂、沸いてるから入っちゃって。着替えは……はい、今買ってきたジャージと下着ね」
「あ……」

綺麗に畳まれた、新品のジャージ。

僕のために買ってきてくれたらしいそれを手渡される。


「はい、行った行った~」

背中をグイグイと押されて、脱衣所まで運ばれる。

湿度と温度の漏れた脱衣所で汚れた服を脱いで、浴室に入ると、いつ以来かの温かいシャワー。

あの人も、「沸いてるから入っちゃって」と言っていたし。


「し、失礼します……」

浴槽に張られたお湯。

そこに体を埋めると、全身がホッとするような温もりに包まれる。


「はぁ……」

それにしても、あの人は誰なんだろう。

ここはどこなんだろう。

当てもなく歩いて、ただただあの場所から逃げて。

今、僕はどこにいるんだろう。

この先、どうしていくんだろう。




・・・




「お風呂、ありがとうございました……」

あまり長風呂をするのも悪いと思い、最低限体を温めて風呂を出た。


「お、そろそろだと思ったんだよね~」


部屋に戻ると、何やらいい香りと共にカレーが二皿用意されており、彼女は僕の方に手招きをしていた。


「ご飯食べよ。まあ、私が作ったわけではないんだけど……」

向かいの彼女は恥ずかしそうに笑う。


「いただいて……いいんですか……?」
「もちろん。だって……待って、名前聞いてなかった」


ふふ、とまた笑う。

その笑顔は、心のどこかをくすぐるようで。

「えっと……」

名乗ろうとして、僕の心がブレーキを掛けた。

この人を、信用していいのか。

この人に、心を許していいのか。


「ごめんごめん。人の名前を聞くなら自分から、だよね。私は中西アルノ。君の名前を教えて?」
「僕は……○○……です」

「…………?」
「あ、えっと……」


一度、中西さんは不思議そうな顔をしたけど、何も言わずに頷いた。


「じゃあ、○○くん。カレー、冷めないうちに食べよっか」


名字は名乗れなかった。

名乗りたくなかった。

僕の今の名字は、あの男の名字だから。

カレーを一口掬って、口に運ぶ。


「おいしい……」
「だよね~。私も最近ここのカレーハマっててさ~」


何日ぶりのご飯。

いつぶりのまともなご飯。


「あれ……?」
「たんとお食べなさいな」


どうしてか、涙が止まらなかった。


「ごちそうさまでした」

ご飯も終えて、いよいよ、これ以上居座るのは迷惑なのではないか。

お風呂にご飯にと、久しぶりに人間のような生活ができて、中西さんには感謝をしないといけない。

僕は立ち上がり、中西さんに頭を下げる。


「あの、ありがとうございます」
「いいよ、全然」

「お世話になりました。このご恩は……」
「ここ出て、行先はあるの?」

「う……」

正直、無かった。

行き先なんて最初から考えていなくて、あのばしょから、あの学校かんきょうから逃げたくて。

ただその一心でさまよっていただけだ。

だから、中西さんの行き先はあるのかという問いは図星で、反論の余地なんてなかった。


「な、ないです……」
「じゃあ、うちにいなよ」

「…………え゛!?い、いやいや……!中西さんにも迷惑かけちゃいますし、これ以上お世話になるのも申し訳ないし……」
「えー、いいじゃん。私、君のこともっと知りたいし」

「でも…..」
「それに、今すぐ出るのは危険だと思うな~」


そう言って、中西さんはテレビ台の上に置かれたデジタル時計を指さす。

どうやらお風呂やらご飯やらを済ませている間に日付は変わっていた。


「君、見たところ高校生くらいだし、警察に見つかったら補導されちゃうんじゃないかな~と、お姉さんは思うよ」
「………………」

ここまで、多分五日間くらい。

運よく警察には見つからずに済んでいたけれど、これからどうなるかはわからない。


「それにさ」


中西さんが僕の額に触れる。


「熱はだいぶ引いたけど、体調が万全になったわけじゃないでしょ?」
「うぅ……」

「今日くらいはうちにいた方がいいと思うんだけどな~」


中西さんが僕の方を見つめる。

何も言い返せず、僕はもう一度床に腰を下ろす。


「すみません……。お世話になります……」
「それでよろしい。じゃあ、ベッドは君に譲るよ」

「そ、それはダメです……!流石にそれは……」
「別に気にしないのに。あ、添い寝にする?」

「それも勘弁してください……」


人のことを揶揄ってニヤニヤしている中西さんは、敷布団を床に敷く。

まともな寝床も久しぶりなものだ。


「うち、よく友達くるから、その子の匂い付いてたらごめんね」
「変なこと言わないでくださいよ……」

「ちゃんとファブリーズはかけてるから安心して。じゃあ、私もお風呂入って寝るから、○○くんは寝るなりテレビ見るなり自由にしてていいよ」


そう言って中西さんはパジャマを抱えて部屋を出た。

テレビを見るのも申し訳ないし、掛け布団を掛けて、久しぶりの安眠を選択した。




・・・




「ふぅ……さっぱり~」

お風呂を手早く済ませて、部屋に戻ると彼はもう布団をかぶって眠っていた。

痣、傷。

まともなご飯も食べてなかっただろうし、まともな睡眠もしてなかっただろう。

きっと、家出してきて以来。

いや、それより前からかもしれない。

彼は、いったいどんな生活を送っていて、どんな環境から逃げ出してきたのだろう。

彼を拾ってきた……拾ってきたというのは語弊があるかもしれないけど、彼をうちに運んだのは本当にたまたまだった。

たまたま、路地裏で倒れている彼を見つけて、運んできただけ。


「ごめんなさい……お母さん……」


微かに、彼の寝言が聞こえた。

瞑った眼から零れる涙が見えた。


「君は、相当な人生を歩んできたんだね……」


私は気づけば、自分の髪も乾かさずに彼の傍らに腰を下ろしていた。


「大変だったねとか、私なんかが軽々しく君には言えないけどさ……」


そっと、彼の涙を拭って、頭を撫でる。


「ここでは、安心して過ごしていいんだからね……」


ほんのちょっと、私の勘違いかも知れないけれど、彼の怖がった表情が緩んだ気がした。




・・・




窓の外、鳥のさえずりで目が覚めた。

カーテンの隙間から見えた空には朝日はすでに昇っていて、体の軽さから昨晩は本当によく眠れたのだと実感した。


「んぅ……おはよ……○○くん……」
「おはようございます。あの、僕はこれで……」

「待って、こんな時間じゃん!」


中西さんは慌ただしくベッドから降りると、ささっと寝癖を取ってメイクを仕上げる。


「あの……」
「君は留守番ね。今日は授業二つしかないから、お昼ごろには帰ってくるから!」

そう言って、中西さんはゲリラ豪雨の様に去っていった。

僕は部屋に一人取り残される。

鍵は閉められて、僕が出て行ったら開きっぱなしになってしまう。

もしかして、中西さんはそこまで計算して出て行ったのだろうか。

だとしたら恐ろしい人だ。

観念して、残された僕は空を見上げていた。

真っ青に透き通った空に浮かぶ雲は気ままに揺蕩い、小さな鳥たちが泳ぐように羽ばたく。

平和だ……

なんて言葉が口から漏れそうになる程に静かな部屋。

暴力に包まれていたあの頃。

空腹と雨、痛みに晒されていた昨日までとは大違いだ。


「いてっ……」

痣が痛む。

傷が痛む。

あの日々を忘れさせるものかと主張する。

僕は一度洗面台で顔を洗って、目を覚ます。

それにしても、ここはどこなのだろう。

あの場所からどれだけ離れているのだろう。

僕は、本当にここにいていいのだろうか。

一人取り残された部屋。

じっとしていると、鎖のように絡みついたあの日々が締め付ける。

静かな部屋だと、嫌な記憶が頭の中で反芻する。

あの場所、あの環境から逃げ出したところで、この記憶が僕の頭に根強く残っている限り、僕は真の意味で過去から逃げることなんてできない。

それに、中西さんはどうして僕のことを拾ったのだろう。

こんなに良くしてもらっておいてではあるけれど、あの人は本当に信頼できる人なのだろうか。

ぼんやり、空を見上げながら床に座っているとぐうと腹の虫が鳴いた。

「お腹空いたな……」

空腹なんて、僕にとっては珍しくもなく、なんなら満たされている方が珍しいのに。

なのに、この空腹に安心してしまった。




・・・




「昨日アルノの家に運んだ子、目覚ました?」

講義の後の大講堂。

一番後ろの、端の席。

隣に座った姫奈が能天気な声で私に聞く。


「ちょっと、声大きいって」
「あ、ごめん」

「彼、多分未成年なんだし」
「で、目覚ましたの?」

「覚ましたよ。熱も下がったみたいだった」
「どんな子だった?」

「どんな子……」

そう聞かれると困るな。

まだ一晩しか過ごしてないし、あんまり話もできてないけど。


「いい子だよ。だけど……」
「だけど?」

「彼は、私たちが思うよりもずっと、深い傷を負ってる」
「確かに。痣も、傷もたくさんあったもんね……」

「いや、そうじゃなくて。そうでもあるんだけど、そうじゃなくて」
「え、そうなの?」

「体の傷もそうなんだけど、一番は心かな……」
「心……」


彼の寝言。

何度もうなされて、何度も発していた言葉。


「彼、寝てる間、何回も『ごめんなさい』って言うんだよ。涙も流してた」
「そっか……。見るからに家出って感じだったもんね。それに、何も持ってなかったのを見ると、やっとの思いで逃げ出せたみたな感じだったもんね」

「あとね、彼……○○くんって言うんだけど。○○くん、名字を名乗らなかったの」
「名前で呼んでほしかったとか?」

「違うでしょ……」
「ウソウソ。わかってるって」

「まあ、今外に放り出しても行くところないだろうし、彼が拒絶しない限りはうちにいてもらうつもりだけど」
「じゃあさ、今日アルノの家行っていい?」


当然いいよね?

とでも言いたげな顔の姫奈。


「あんまり彼に変なこといわないでよ……」
「だいじょぶだって~」


不安だ……

姫奈のことはしっかり見張っておかないと。




・・・




「中西さん、いつ帰ってくるんだろう……」


空を眺めているのも、存外悪いものではない。

雲は目を離すたびに形を変えるし、澄み切った青は、いくら見ていても目が疲れることは無い。

空を飛ぶ鳥は、どこか止まり木を見つけて体を休ませるのだろうか。

僕はすぐにでもここを出なければならない。

中西さんに迷惑をかけ続けるわけにはいかない。

これは僕の問題で、僕一人で何とかしないといけない。

何より……


「ただいま~」

錠が回った音と、扉の開く音。

湿気を多く含んだ空気もともに入ってくる。


「あっつい!エアコンも扇風機もつけなかったの!?」
「はい……」

「つぎからエアコンもつけていいからね」
「次、ですか」

「まだしばらくうちにいていいよってこと。あと、私の友達がもうすぐで来るから、ビックリしないでね」
「ビックリ……?」


友達……というのは、昨日の夜に言っていたよく中西さんの家に来るという人のことだろうか。

それにしても、ビックリとはどういうことだろう。


「おじゃましまーす!」


騒がしい声と共に、女性が一人中西さんの部屋にやってきた。


「アイス買ってきたよ~!あ、○○くんだ~!元気になった?びしょ濡れで熱もあったもんね~」
「あ、えっと……」

「もう、○○くんがビックリしちゃってるでしょうが。ごめんね、うるさいやつで」
「いえ……」

騒がしく、忙しく、にぎやか。


「いや~でも元気になってよかったよ~。アルノと運んだときは死んじゃうかと思ったんだよ?」
「もう、自己紹介もまだなのに話進めすぎ」

「あ、そうだった」

ケタケタと笑う女性はその笑顔を崩さないで僕の方に向き直る。


「岡本姫奈です!まあ、好きに呼んでよ」
「岡本さん……。昨日は、ありがとうございます」

「ちゃんとお礼も言えていい子じゃん!」

そう言うと、岡本さんが僕の方ににじり寄り、手を伸ばす。

そうじゃない。

そうじゃないと、わかっていても。

鎖が、きつく締まる。

僕は反射的に首をうずめる。

当然、叩かれたり、殴られたりするわけもなく、岡本さんの手がやさしく僕の頭に触れた。


「あ、ちょっと……!」

そのまま、わしゃわしゃと岡本さんが僕の頭を撫でまわす。


「わ……!なにするんですか……!」
「なんか撫でたくなっちゃってさ~!」

「もうおしまい!」

手を掴まれて、強い力で引き寄せられる。

その主は一人しかおらず、もちろん中西さん。


「あれれ~?アルノどうしたの?」


にやついて、中西さんの方を見つめる岡本さん。

一方の中西さんは眉をひそめて、頬をほんのり膨らませる。


「○○くん、困ってたでしょ」
「そうかな~?○○くんはどうだった?」

「えっと……」
「ほら、困ってる」

「もしかして、ヤキモチ焼いてるの?」
「姫奈~?」

「あ、私このあとバイトあったんだったー」

わざとらしく携帯を見て、わかりやすく棒読みの岡本さんは、僕らを残して部屋を飛び出していった。


「にぎやかな人でしたね……」
「ごめんね、うるさくて」


大雨の翌日の昼下がりのように静かになった部屋。


「お昼、まだ食べてないよね?」
「まだですけど……」

「なにか作ろっか」


そう言った中西さんは、冷蔵庫を開けて、すぐに閉じた。


「なにもないや。買い物行こっか」
「僕もですか?」


「え、当然でしょ」とでもいいたげに首を傾げた中西さん。

多分、これ以上何を言っても無駄だと思い、観念して一度部屋から出て、玄関前で着替えを始める。


「………….あの」
「ん?」

「着替え、するんですけど……」
「あぁ、ごめん。後ろ向いておくね」


どうして部屋を出たのかわからない中西さんは、部屋に戻ればいいのにも関わらずその場で後ろを向いた。


「着替え、終わりました」
「よし、じゃあ行こ」

中西さんがドアを開けて、僕は一日ぶりに外の世界へ足を踏み出した。

じりじりと太陽が照り付ける。

汗が首筋を伝う。


「あの、スーパー通り過ぎましたけど……」
「うん。とりあえず駅前かなって」

「駅前……?」

お昼ご飯を買いに行くという話で、駅前。

どこか、飲食店にでも行くのだろうか。


「よし、着いた」
「ここって……」

スーパーを通り過ぎて五分ほど歩いた先。

辿り着いたのは洋服屋。

「これとかどう?」
「あの……」

「これも似合うかも!」
「だから……」

「これなんかどう?」
「中西さん……!」

試着室で、僕は着せ替え人形のように中西さんが僕の服を見繕う。


「僕、もう出ていくつもりなので……。なので…..」


中西さんが、僕をこんなにもよくしてくれる理由はわからない。

しかし、純粋に厚意からのものだということは十二分に伝わってきている。

だからこそ、僕はそれに甘えてばかりはいられない。

これ以上……

『とっとと死んでくれや』

これ以上、迷惑をかけるわけにはいかないから。


「わかった。じゃあ一回カフェにでも行こう」

頭に浮かんだ無数のクエスチョンマーク。

今の会話の流れで、どうしたら「わかった」の後に「カフェ行こう」が来るのか。


「はい、ぼーっとしてないで。行くよ」

そう言った中西さんは、僕の手を引いて店を出た。


「あの……!」

呼びかけてみても、中西さんは振り向かない。

それどころか、歩くスピードはどんどんと速くなっている気がする。


「いらっしゃいませ~」

蒸し暑い外の世界から、冷房の効いたカフェの店内へ。


「二人です」
「テーブル席ご案内します」

案内されたテーブル席に向かい合って座った時、ようやくつかまれていた腕が解放される。


「何にする?」
「いや、ですから……」

「オレンジジュース二つで」
「かしこまりました」

手早く注文を済ませると、開いていたメニューを傍らに避けて、中西さんが僕をじっと見つめる。


「うち出てさ、行く当て見つかったの?」
「それは……ないですけど……」

「じゃあ、もうちょっとうちにいなよ。君、今いくつ?」
「十七……です」

「弟が、同い年なんだよね」

オレンジジュースが二つ、僕らの間に立つように並ぶ。

重なった二つの氷が浮かび、グラスはすでに汗をかいている。


「弟さんがいらっしゃるんですね」
「うん。君と同い年で、わたしと違って明るくて、もうなんか……すごいやつなんだよ」


中西さんは、テーブルの上で握った両手に視線を落とした。

口角が少しだけ上がって、目は優しい。


「でもさ、あいつが私よりどれだけすごくたって、弟なんだ。弟にはいつだって元気でいてほしいし、幸せであってほしい。それに、高校生で、まだまだ未来も明るいしね」


そう言って、中西さんが視線を僕に戻した。


「君に、弟の姿が重なったんだよ。そしたら、たったそれだけの理由なのに、もういても経ってもいられなくって。無責任に、君に手を差し伸べちゃったんだ。君が、それを望んでいるのかどうかもわからないのに……」


ごめんね。

か細く、小さく。

氷が融けて、割れる音にすらかき消されてしまうんじゃないかと思うほどの声で、中西さんは確かにそう呟いた。


「……あやまらないでください」
「○○くん……」

「無責任だなんて、言わないでください。確かに、中西さんは強引だったかもしれないです」
「ちょっと……!」

「でも、僕は確かに、中西さんに救われたんです。……ご迷惑はお掛けしません。お金を返す手段も、アルバイトを探すなりして必ず見つけます。家事も、僕が請け負います。なので、もう少しだけ、お世話になってもいいですか」

「○○くん……!もちろんだよ。……わたし、掃除とかちょーっとだけ苦手でさ。そこは〇〇くんに頼るかもだけど……お金の面なら、わたしと同じアルバイト先でアルバイトすればいいし!」

「アルバイト……ですか……」
「明日、早速行ってみよっか。よーし、そうと決まればもっかい○○くんの服、選びに行こう!」

「はい、中西さん」
「……その、中西さんっていうの、ちょっと距離感じない?これから一緒に暮らすのに」

「い、いやいや……!下の名前で呼ぶのはまだハードルが高いというか……!」
「でも、アルバイトするときに名字がないとダメでしょ?○○くんは名字を名乗りたくないんだよね?」

「それは……」
「じゃあ、私の従姉弟ってことにして、『中西』って名乗るのが一番いいと思うんだよ」

中西さんの言うことは最もだった。

アルバイトをするには、フルネーム必須。

でも、だからといって■の名字を名乗るなんてことはしたくない。

そうなったら、中西さんの言う通り、僕は『中西』として生活するのがいいのかもしれない。


「どうする?」
「ご迷惑に、なりませんか……?」

「私は全然問題ないよ。店長も多分気にしないと思うし」
「うぅ……。わかりました……お世話になります、アルノさん」

「よろしい。あ、そうだ。今日のご飯どうしよっか」
「材料だけ買っていきましょう。僕が作らさせていただきます」

「それは楽しみだ」


すっかり汗だくになったグラス。

融けた氷のせいで薄くなったオレンジジュースを、変に火照った身体に流し込んだ。




・・・




「○○くん、準備できた~?」
「はい……!できました!」


アルノさんにしばらくお世話になると決まった翌日。

僕は、先日アルノさんに選んでもらった私服に着替えを済ませる。

今日もアルノさんは午前中で授業が終わったらしく、夕方からはアルバイトの予定。

ついていった先は、『Bull Shot』と看板に書かれた小さなカフェだった。

僕は、履歴書も何も用意していないけれど、ここで働かせてもらえないかを交渉するというわけだ。


「君は今日から何て名前だっけ?」
「中西○○です……って、仮ですから……!」

「ふふ、もう照れないの」

アルノさんが先導して、お店の扉を開ける。

時間が時間だからか、お客さんの姿は見えず、店長さんらしき渋めの男の人がお店の一角にある客席に座って新聞を読んでいた。


「おお、アルノちゃん。もうインだっけ?」
「おはようございます、店長さん。インはもう少し後なんですけど……実は、キッチンのアルバイト候補を連れてきたんですよ~」

「でかした!そろそろキッチン俺だけじゃきつかったんだよ~!」


男性は、一度【STAFF ONLY】と書かれた扉の向こうに行くと、メモ帳とペンを持って戻ってきた。


「よし、じゃあ面接始めるか。アルノちゃんも暇なら同席する?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

「ささ、座って座って」


僕は進められて、四人掛けテーブルの一席に腰を下ろす。

アルノさんは僕の隣に座った。


「まず、名前教えて」
「な……中西○○……です」

「アルノちゃんの知り合い?」
「そうなんですよ。従姉弟なんです」

「ほえ~。じゃあもう採用でいっか」


店長さんは、メモを閉じて、ペンもポケットにしまった。

どうやら、これで面接は終わりのようだ。


「こんな簡単に採用を決めてもいいんですか……!」


僕は疑問だった。

僕の素性もよくしらず、自分の店という最大級のテリトリーに簡単に侵入させるなんて。

これは、このお店に限ったことではない。

アルノさんだってそうだ。

どうして。

僕には、わからない。


「ん~……。アルノちゃんの知り合いだしさ、君はいい奴っぽいしさ。今日からよろしくな、○○クン!」

そう言った店長さんは、太陽の様に明るい笑顔で、僕に右手を差し出す。

三秒くらい困惑したけれど、その手を取らないことに気まずさを覚えて僕は手を握った。


「あ、俺の名前教えてなかったわ!店長の松原です。ちなみに、今日から働けたりする……?」
「はい、働けます」

「おー!助かる~!じゃあ、アルノちゃんに指導係は任せちゃおっかな」
「任せてくださいよ。じゃあ○○くんはまず制服に着替えようか。スタッフルーム、こっちね」

席を立ったアルノさんについて行って、STAFF ONLYの向こう側へと足を踏み入れる。

扉の向こうはテーブルが一つと、椅子が五つ。


「更衣室がそこにあるから、その中で着替えてね。○○くん、制服のサイズいくつ?」
「Lでお願いします」

「おっけー。んーと……これだ!はい、着替えちゃって~」


アルノさんに半袖の白シャツと黒のズボンを渡されて、更衣室に押し込まれる。

僕は荷物を置いて、勘でサイズをお願いした割にはちょうどいいサイズの制服に着替える。

THE・カフェの店員さんといった格好。

創作物の中の登場人物はこんな服を着ていた気がする。


「おぉ、似合うじゃん。はい、これ帽子とエプロン。私も着替えちゃうからちょっと待ってね」
「はい」

アルノさんが僕と入れ替わりで更衣室に入っていく。

二人しかいないスタッフルームに衣擦れ音と呼吸の音だけが響く。

こんなに静かだと、僕の心臓の音まで……


「おつかれさまで~す!……あれ、○○くんなんでここに!?」


響くことは無く、元気な挨拶の岡本さんがスタッフルームにやってきた。


「お、お疲れ様です」
「なんでいるの~?てかアルノは?あ、もしかしてここでバイトするの!?」

話題が二転三転する岡本さん。

その声を聞いてか、制服に着替え終えたアルノさんが呆れた顔をしながら更衣室から出てきた。


「姫奈、質問は一つずつにしなよ」
「だって気になるじゃ~ん」

「○○くん、今日からここでバイトすることになったから」
「ほんとに!よろしくね、○○くん!」

「はい、お願いします」
「でも、どうして?」

「アルノさんの後押しがあって……」
「へ~……って、アルノのこと名前で呼んでる~!」

「そ、それは別にいいじゃん……!」
「なんでアルノが照れてるの?」

「はやく着替えちゃいなよ!時間無いし!ほら、いこ」


ちょっとだけ頬を赤く染めたアルノさんが、僕の手を取ってキッチンまで引っ張っていく。

その途中、すれ違った店長さんがなにやらニヤニヤしていたと感じたのは
きっと気のせいではないだろう。


「もう、姫奈は……。ほんと、ごめんね」
「いえ、岡本さんは多分……その……『いいひと』だと、思うので」

「へぇ……じゃあ、わたしは?わたしはどう?」
「アルノさんですか……。そんなの、言うまでもないです。もちろん『いいひと』です」

「そっかそっか。じゃあ、お仕事はじめよっか」
「はい」

アルノさんが、カフェで取り扱っているメニューと、その作り方を書いた表を取り出して僕に手渡す。


「料理ができれば、特別難しいこともないと思うから。メニューの数も多くないし」
「はい……」

「緊張してる?」
「すみません……してます……」

「大丈夫だよ。キッチンは店長さんもいるし、しばらくは私も君の傍でサポートするから。それとも、君が怖がってるのは別のことだったりするのかな」

アルノさんの指摘はもっともだった。

僕は怖い。

体は熱いのに、指先だけがどうしても温まらない。

震えも収まらない。


「それも全部、大丈夫」


アルノさんが、震える僕の手を包み込むように握る。

さっきも一度握られていたはずなのに、先ほどよりも明確に温かさが伝わってくる。


「ここには、君を頭から否定するような人はいない」
「アルノさん……」

「君を痛めつけるような人も居ない。世界は、綺麗じゃないかもしれないけど、世界には君が知るよりもずっと、『いいひと』がたくさんいるんだよ………….なんてね。私、ちょっと映画の見すぎかも知れないね」


アルノさんは、照れ臭そうに、照れを隠すように笑って僕の手を離した。

いつの間にやら震えは無くなり、指先にも確かに体温が宿ったのを感じる。


「ありがとうございます、アルノさん」
「いいよ、これくらい。まずはこのお店の看板メニューにもなってるナポリタン作ろっか。作ったやつは……そうだなぁ……私たちのまかないにでもしちゃってさ」


僕なんかが、こんな気持ちを抱いてはならない。

それに、本当にこの気持ちが正しいのかはわからない。

僕の世界にとっての『いいひと』で、僕にとっての恩人で。

その気持ちと、この気持ちを混濁しているんじゃないかと思っていた。

けれど、手に残る温もりと、胸を締め付ける様な痛みが嫌というほどに主張する。

この気持ちに名前を付けた時、僕は……

なんてことを考えていられたのも、実際に業務が始まるまでだった。




・・・




閉店時間の二十一時までのアルバイトを終えて、制服から私服に着替える。

働くって、大変だ。

覚えることも、やることもたくさんで、今日は比較的混んでいなかったからこそピークになったらどうなるか。

でも、その分、


「お疲れ様。初バイト、どうだった?」
「大変でした。やらなきゃいけないことも多くて、覚えることも……でも、料理をするのは、楽しかったです」

誰かに必要とされて、褒めてもらって。

初めて、僕は僕のことを認めてあげられる。

料理は、楽しかった。


「うんうん、それはよかった!その調子で、明日の晩御飯もおねがいしちゃおっかな~」
「任せてください!」

「今日の賄いで店長が作ってくれたオムライスよりもおいしいオムライスをリクエストしちゃお」
「それは……任せてくださいとはいいづらくなっちゃいました」

「冗談だって。でも、期待はしちゃおっかな。今日作ったやつ、店長も褒めてたじゃん」

お客さんの途切れた時間帯に、店長さんに対して作った賄いのオムライス。

メニューの通りに作っては見たものの、店長さんのものとは天と地の差。

「うん、美味いじゃ~ん」とは言ってくれていたけど、実際はまだまだだ。


「美味しいごはん作ってくれたら……そうだな……今度、デートに連れて行ってあげましょう」
「デート……」

「デート!?」


僕が、その単語に気の早い緊張をして固まっていると、僕の背後から岡本さんが顔を覗かせた。


「いまアルノ、デートって言った!?」
「い、言ってな……くはないけど……!姫奈、ほんっとにタイミング悪い!」

「あはは、ごめんごめん!そんなに膨れなくてもいいじゃんか~。○○くん、頑張ってたもんね~。私もデート、連れてってあげ……おっと……!」


岡本さんが僕にその言葉をささやいた時、フリーになっていた左の手を力強く引っ張られ、その反動で僕はよろけてしまう。

なんとかバランスを立て直すと、僕の目の前には岡本さんのことを睨みつけるアルノさんの顔があった。


「もぉ、わかってるってば~。じゃ、またね~。アルノとの”デート”、楽しんで」
「姫奈~!」

岡本さんは去り際にも、アルノさんの怒った声を聞きながらケタケタと笑って駅の方に歩いて行った。


「姫奈め~」
「岡本さんも、きっと本気じゃないと思いますし」

「嫌、油断しちゃいけないからね。怪しい人には着いてっちゃいけないよ」
「岡本さんは、怪しくはないと思いますけど……」

「着いてっちゃ、いけないよ」
「わ、わかりました……」

「よろしい。じゃあ、気を取り直して帰りますか」
「はい、そうしましょう」

「お腹すいちゃった~」
「賄い食べたじゃないですか」

満月は、優しく僕らを見つめていて。

星たちが手を繋いで踊る夜。

そんな美しい夜空も、僕の半歩前を歩くアルノさんには勝てない。


「デート……」
「○○くん、何か言った?」

「い、いえ……!」
「ふ~ん。私、フレンチトーストとか食べたい!」

「あんまり、夜食にも夜ご飯にも合わないんじゃないですか?」
「じゃあ、今度朝ご飯で作って~」

「お任せください」


デートか……

胸を締め付ける感覚。

昼間も感じた、この感覚。

アルノさんは、僕のことをどう思っているんだろう。

僕は、アルノさんのことが、好き。

なんだと思う。




………後編につづく

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