『ひまわりと月明』第2話
そよ風が、花開いた桜の木々を揺らし、鳥たちのマーチが住宅街を木霊する。
窓から差し込む日差しが部屋を満たし、まるで温かく、優しく抱擁するようだ。
体を伸ばして、階段を下りる。
ロールパンを一つ食べて、手早く朝食を済ませ、あくびをしながら制服に着替える。
携帯で時間を確認してから、洗面所で顔を洗って歯を磨く。
そうしていると、インターホンの音が家の中に鳴り響く。
鍵を持って玄関に出ると、同じく制服に身を包んだアルノの姿。
「お待たせ」
「早く行こ。二人共待ってるよ、多分」
いつもの通学路も緑に満ち溢れ、朝日がそれを輝かせるように照らす。
自然が新年度の訪れを祝福しているようだ。
「今年も、○○と同じクラスだといいな」
「そうだね。僕も、アルノとも咲月とも、××とも同じクラスがいいな」
五分ほど歩くと、壁に背を預ける大きな影が見える。
「おっす、おはよ」
「今日から三年生だね!」
××と咲月。
いつもの四人。
「なんか、最後のクラス替えだと思うと緊張してきちゃってさ~」
「咲月、ずっとそわそわしてんだ」
「もう決まってるんだし、そんなにそわそわしたって意味ないんじゃない?」
「アルノ冷たい……」
にぎやかな、いつもの通学路。
・・・
校門をくぐると、昇降口のところに人だかりができており、みんな目的は張り出されたクラス分けの紙。
僕らの目的ももちろんそれ。
「今年こそみんな一緒でありますように……」
並んでいた生徒たちが次々に捌けていき、徐々に順番が近づく。
それに連れて、咲月が祈るときに結んでいた手が固くなっていくのがわかる。
そして、ついに僕たちの順番がやってくる。
「菅原…..菅原……」
隣でぶつぶつと自分の苗字を唱える咲月の声を聞きながら、僕も自分の名前を探す。
「あ、あった」
五組に名前を発見。
「お、これは……」
「ついにだね」
「やったね!アルノ、○○、××!」
三年五組の名簿にあったのは、僕の名前だけではなく、三人の名前も載っていた。
僕らは初めて、四人全員で同じクラスに集結することに成功したのだ。
「早く教室行こ!」
わかりやすくテンションが高くなった咲月を先頭に、僕らの教室に向かった。
・・・
「これホームルームを終わりだ。三年生になって、進路も考えなきゃいけない時期なんだから節度を持った生活を送るように」
始業式も終わり、新年度一発目のホームルームも今、先生の一言を持って終了を告げた。
進路の話題という、頭を悩ませる問題を残して。
「進路かぁ……やりたいことなんてわからないな……」
「私も。どうしよう……」
頭を悩ませているのは僕だけではないようで、咲月もアルノも、考え込むように窓の外に視線をやっていた。
「××は?もう、進路決まってたりする?」
この後の練習に向けて、おにぎりでエネルギーを補給している××に話しかけると、××はそれを慌てて水で流し込んだ。
「それなりにはな。一校、大学から声掛かってたりするんだ」
「えー!ずるい!」
「今年の大会結果次第だよ。インターハイに出れなきゃ厳しいかもな」
「じゃあ、頑張らないとだね。これから練習でしょ?」
「ほら、そろそろ行かないと!」
「頑張って」
ひらひらと手を振って、××と咲月は教室を飛び出していった。
「帰ろっか」
「うん」
残された僕らも、貰った資料を鞄に詰めて学校を出た。
外の空気は、朝よりも温かく、風が吹いているとはいえちょっとだけ汗ばむほどだった。
「今日は本当に天気いいね」
「洗濯日和だなぁ」
吸い込むと、太陽の匂いがする。
こんな日は布団でも干したい。
「進路の件、○○はどうなの?」
「僕は……。僕も、何も決まってないよ」
「そっか」
進路の話は二年生のことからされていたけれど、僕に夢と呼べるようなものは何もない。
その点でいえば、今も昔もバスケを第一に置いている××のことは羨ましく思える。
「こんなところにピアノ教室なんて出来てたんだ……」
アルノのつぶやきと同時に、水が流れていくような優しい音色が風に乗って僕の元に届いた。
瞬間、鳥肌と冷や汗。
「は、早く……。早く、帰ろう」
「あ、○○……!」
意識せずとも早足になり、僕はその音から逃げるようにして立ち去る。
自分でも情けないとは思ってる。
過去のトラウマに縛られ続けているなんて。
父の亡霊に、取りつかれ続けているなんて。
それでもぬぐい切れないこの感情は、僕の首を絞めるように絡みついて、呼吸を浅くする。
「○○!」
息を切らしたアルノに腕を掴まれて、ようやく現実にもどってくる。
「大丈夫?」
「あ……うん……。大丈夫」
ペットボトルの水を一口のみこんで平静を取り戻す。
「ごめんね。私が迂闊だった」
「アルノが気にすることじゃないよ。僕が悪いんだ」
「○○は……!悪く……ないよ……」
僕らはそれから、春の陽気には似合わないような暗く、冷え切ったオーラをまとっていたと思う。
「○○……!何でもない……。ちゃんとご飯食べてね」
「うん。じゃあ、また明日」
そうしてお互い、隣同士の家の玄関をくぐる。
僕は鞄を部屋に放って、ベッドに倒れこんだ。
「はぁ……」
また、僕の変なトラウマの所為でアルノに気を遣わせてしまった。
まだ頭の中を反芻するあの音が、まるで鎖のように絡みつく。
ーーーーーーーーーー
父さんはピアニスト、母さんはトランペット奏者。
まるで、音楽の道に進むことを宿命づけられたような家系に僕は生まれた。
しかし、父さんも母さんも僕に音楽の道を歩ませることを強制することは無く、僕は小学校入学まで音楽に興味を持つこともなく成長していった。
僕が音楽に出会ったのは、小学二年生の夏休み。
本当に気まぐれのようなものだった。
・・・
じりじりと太陽が照り付ける夏。
プールから帰った僕の耳に飛び込んだのは、驚くほどに優しいピアノの音色だった。
ピアノを弾いているのはもちろん父で、僕は防音室の扉を開けたままその姿にあっけにとられていた。
「○○、帰ってきてたのか」
弾いていた曲を途中でやめて、父さんが椅子から立ち上がる。
今までだって、父さんがピアノを弾いている姿は何度も何度も見ていたはずで、僕は一切興味を持っていなかった。
僕は外で遊ぶ方が好きだし、みんなと一緒にいたずらとかをするのが好きだ。
にもかかわらず、今日突然、僕はその音色に心を奪われた。
「昼ご飯作るからな」
「お父さん……」
「どうした、○○」
「僕、ピアノやりたい……」
そう呟いた時、父さんの大きい手が僕の頭を撫でた。
「そうか……。そうかぁ……!」
嬉しそうに笑みを浮かべる父さん。
「ご飯食べたら、早速弾いてみるか」
「うん!」
ご飯をすぐに食べて、僕は大きなグランドピアノの前に座った。
黒くて、大きくて、僕なんかじゃすぐに飲み込まれてしまいそうで。
「どれでもいいから、鍵盤を叩いてみなさい」
父さんの言葉を受けて、僕はそっと白鍵を押し下げた。
ぽろんと、大きな音が鳴った。
曲でも、音楽でもないただの音。
ただの音を鳴らしただけなのに、僕はどうしようもなく嬉しくなって、後ろに立っていた父さんの方を振り向く。
「音出た!」
「そうだな。音、出たな」
父さんは僕に優しく微笑む。
「きらきら星とか、弾いてみるか」
父さんが僕の後ろから手を伸ばし、片手で簡単そうにきらきら星を弾いて見せる。
「僕もやる!」
僕も見様見真似でやってみるけれど、リズムも音程もバラバラ。
何度やっても上手く行かない。
「むずかしい……」
「練習あるのみだ」
父さんは、腕を組んで笑っていた。
そんな父さんの様子に、どうしようもない悔しさが沸き上がり、僕は夜遅くまで練習をしていた。
そして深夜に父さんを起こし、防音室まで引っ張っていった。
「きらきら星、聞いて!」
父さんは眠そうにあくびをしていたけど、僕が鍵盤に手を置いてからはいつもの優しいまなざしで僕を見ていた。
・・・
「少し、テンポが乱れてたな」
「わかってます。次は気を付けます」
高学年になって、コンクールに積極的に出るようになった。
レベルがそこそこのところだったら、僕は問題なく一番になれた。
父の指導が厳しくなったのは、この頃で、両親が離婚したのもこの頃だった。
「練習の続きだ」
「ちょっと、外の空気吸ってきていいですか」
「……五分だけだ」
父から逃げるようにして、僕は玄関から外に出た。
「あ、○○……!」
隣の家の窓から覗くアルノ。
「ちょっと待ってて!」
ドタドタという音がして、アルノが外に出てくる。
「今日もピアノの練習?」
「うん。次のコンクールはレベルが高いから。いっぱい練習しないと父さんに怒られちゃう」
「厳しいね、お父さん」
「でも、僕がピアノを上手くなるためだから仕方がないよ」
アルノと話していると、玄関が開いて父さんが顔を見せる。
「時間だ、○○」
「はい」
アルノの心配そうな眼差しを背に、僕は家に戻る。
防音室は、息苦しい。
「そこはもっと流れるように弾くんだ。やり直せ」
「はい……」
同じ小節の繰り返し。
毎日毎日、ピアノの練習の繰り返し。
みんな、外で遊んだり、ゲームをしたりしているのに。
僕だけが監獄の中に入っているみたいだ。
「集中しろ、〇〇」
「ごめんなさい」
でも、これも僕がピアノを上手くなるため。
僕がピアノが下手なのがいけないんだ。
僕がもっと上手だったら、父さんは怒らなくても済むのに。
「やり直せ」
また。
「やり直せ」
もう一度。
「まだだ」
何度も。
何度も。
「できるまで、ご飯は出さないからな」
涙がにじむのは、僕が弱いからだ。
楽しく弾くピアノなんて、僕はもう忘れてしまったのかもしれない。
・・・
ピアノの音色が、ホールの壁に反射して響き渡る。
「こんなんじゃ、ダメだ」
遅れも、間違いも許しちゃいけない。
「まだ速くできる」
「もっと優しく弾ける」
「こんなんじゃ、父さんを見返すことなんてできない」
中学に上がってすぐのころに、父さんは病に罹って入院することになった。
もうすぐ入院から三年は経つが、定期的にコンクールは出ているし、その結果は逐一父さんに報告しに行っている。
今日の映像も、父さんにチェックしてもらっている。
そんな父さんの口から、僕を褒める言葉は出てくることは無い。
「ここのテンポが少し早いな。何を急いでいるんだ」
「そこは……駆け足で弾いた方が審査員への受けがいいと思ったんだよ」
「だが、これだとお前が急いでいるだけに見える。この前がこんなにゆったりとした弾き方なんだから、ここもまだ急ぐところじゃない」
「父さんは……本当に僕を褒めないよな……」
「お前がまだまだ未熟だからだ」
「そうかよ」
僕はまた、父さんから逃げるように病室を飛び出し、家まで自転車をこいだ。
ハンドルを握る手には力が入り、ペダルを回す足もどんどんと速くなる。
蒸し暑い夏の空気が汗をにじませる。
父さんに、僕のことを認めさせてやるんだ。
家に着いた僕は、ピアノの前に座って次のコンクールの課題曲の楽譜を広げた。
「くそ……くそ……!」
一心不乱に楽譜をなぞって音を鳴らす。
しかし、その音はどことなく粗雑で、精彩を欠いたものだった。
「○○……」
「あ、アルノ……。なんで?」
防音室のドアが開いて、アルノが顔を覗かせる。
「返事なかったから……。一応、インターホンは鳴らしたんだけど」
ピアノの音にかき消されて、インターホンもなにも聞こえなかった。
「気づかなかった」
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「今、何時?」
「もう夜も遅いよ」
携帯を確認してみると、時刻は午後十時。
こんな生活も日常茶飯事だ。
「軽いもの作ろうか?」
「ほんとに?お願いしていい?」
「任せて。だけど、待ってる間にピアノを弾くのは禁止ね」
「わかったよ」
アルノに言われて、僕も一緒にリビングに向かう。
真っ暗な部屋に電気をともして、アルノがキッチンに立つ。
「冷やし中華とか作れそう」
「お願いします」
しばらくぼーっと待っていると、アルノがお皿を僕の前に置いた。
「どうぞ」
「いただきます」
暑い季節にちょうど良い冷やし中華は、ものの数分で食べ終わる。
まだ日付を回っていない。
まだ、練習できるかな。
「ダメだからね」
何て、僕の考えを見透かしたかのようにアルノに釘を刺される。
「ねえ、○○はやっぱり音楽科のある高校に行くの?」
「そうだね。ピアニストになるなら、それが近道だから。そのためには、冬までに実績を積まないと」
「離れ離れになっちゃうね......。身体は、大事にしてね」
「うん。わかってる」
「じゃあ、おやすみ」
アルノを見送って、僕ももう寝ることにした。
練習は、明日でもできるんだし。
・・・
三年生の秋。
学校から帰る途中。
病院から電話がかかってきた。
内容は、父の容体が急変したとのことだった。
「俺らのことはいいから、早く行けよ……!」
「ごめん、行ってくる……!」
三人に断って、僕は病院まで走った。
汗でワイシャツがぐしゃぐしゃになるまで走って、ようやく病院にたどり着いて。
「力は尽くしたのですが......」
お医者さんから言われた言葉は、僕を絶望の淵まで叩き落した。
父さんの葬式も終わって、落ち着いた頃。
僕は寝る間も惜しんでピアノの練習に励んだ。
悲しみからだろうか。
悔しさからだろうか。
皮肉にも、練習時間に比例して演奏は精度を増していった。
・・・
コンクールを三日後に控え、その日が近づくにつれて睡眠時間も短くなっていたある日のことだった。
「今日はこのくらいでいいか……」
流石に眠気も頂点に近づき、そろそろ寝ようと思って、自分の部屋に戻った。
「あ、携帯忘れた」
アラームの代わりにもなっている携帯を下の防音室に忘れたことに気が付いた。
無くてもいいかと思ったけど、それで寝坊するのもなんだか癪なので取りに戻ろうとした。
階段を一段下りた時、違和感が僕の脳内を支配した。
直後に痛みと混乱。
どうやら僕は、階段を踏み外して転がり落ちたらしい。
これは寝不足のなすものだと思い、早く携帯を回収して寝ようと、防音室のドアに右手を掛けた時だった。
「…………っ!」
痺れるような、突き刺すような激痛が走った。
手首の捻挫か?
冷やせば何とかなるか?
コンクールまで時間は無い。
今の僕が音楽科のある高校に行くためには、よりレベルの高いところでの実績が必要で、棄権なんて許されるはずがない。
何とかなる。
そう言い聞かせて、走った痛みから目を逸らした。
・・・
コンクールの全日程が終わり、結果が張り出された。
僕の名前は、案の定なかった。
アルノも、咲月も、××も観に来てくれていたのに、結果を残せなかった。
それも当然だ。
演奏中も絶えず手首に痛みが走っていて、それによって精彩を欠いた音が終始奏でられていた。
「今回は、僕の完全な実力不足だよ」
なんて、強がって言ってみたけれど家に帰った後に、僕は悔しさから涙を流していた。
手首の痛みは、日に日に強くなっていった。
流石に隠し切れず、体育の授業を休んだところをアルノに心配されて病院に行くことになった。
結果は、全治二か月。
捻挫だと思っていたが、実際は骨が折れており、連日のピアノの練習のせいで悪化していた。
もちろん、ピアノを弾くことも禁止され、僕の生活から音楽が一時的に失われた。
・・・
秋も終わり、冬が指先を覗かせる頃、僕の手首は完治して、日常に音楽が戻ってきた。
ようやく弾けると思い、いの一番にピアノの前に座った。
「よし……」
まずは簡単な曲から。
そう思って鍵盤を叩く。
しかし。
「…………?」
揺れた音と、かみ合わないテンポ。
何度も、何度も弾いてみるけれど、あの頃の音が僕の元に帰ってこない。
次のコンクールはもう一か月もないところに迫っているというのに。
・・・
自分の音を見失ったまま、僕はコンクールに出た。
まだ不安は残るけれど、自分なら大丈夫だと暗示をかけてステージに上がった。
一音目。
そこからなにかがおかしかった。
音が散乱して、楽譜が滑る。
吸えているのかもわからないほどに息が苦しい。
照らしつける照明が熱い。
汗が滴り、ステージの床に落ちる。
帰ってこい。
そう望めば望むほどに僕の音は失われていく。
こんなんじゃないはずだ。
こんなのは僕の音じゃない。
視界が狭まって、テンポも崩れて。
ぷつりと、何かが僕の中で途切れた。
蝋で固められたように指が動きを失い、ホールに反響していた音楽は消えてしまった。
しんとしたホール。
観客席から聞こえた小さなため息。
弾かなきゃ。
弾かなきゃ。
弾かなきゃ。
【弾け】
耳元でささやかれたような気がして、僕はそちらを向いてしまった。
目線の先には客席。
軽蔑するような、落胆したような視線が僕の元に注がれていた。
そこからのことは、よく覚えていない。
・・・
水道から水滴がシンクに落ちる。
真っ暗なリビングで、僕はただただ天井を見上げていた。
「………………」
空気が震える音が鼓膜を揺らす。
もう、何もしたくない。
こんな手も、もういらない。
キッチンから包丁を取り出す。
月の光が反射して、刃が輝く。
もう、いいや。
僕は、開いて机に押し付けた左手に向かって包丁を振り下ろした。
「○○!」
右手が止まる。
「お前、何考えてるんだよ……」
××に押さえつけられて、僕の手から落ちた包丁が床を滑る。
「もう、いらないだろ……こんな手……」「○○……」
気が付けば、僕の周りにはアルノも咲月もいて。
僕の目からは、涙があふれだして。
「もう……どうすればいいのかわからないよ……」
この日、僕の人生から音楽が消えた。
ーーーーーーーーーー
僕は、ベッドからよろよろと立ち上がり、気が付けば防音室のドアを開けていた。
掃除もろくにしていない部屋。
埃をかぶったグランドピアノが出迎えるだけだった。
………つづく
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