舞い落ちる雪、花びらに変えて
分厚い灰色の雲が空を覆い、大粒の雨がアスファルトを打ち付ける。
「この度は……」
頭の中を反芻する雨の音。
鼻孔に残る線香の匂い。
喪服に身を包んだ親戚たち。
全部が徐々に心を蝕む。
なんで、僕だけが。
どうして、僕の周りの人だけが。
僕は、耐えきれなくて式場から静かにいなくなり、雨の当たらない軒下で膝を抱え込む。
「あの子、呪われてるんじゃない?」
きっと、僕が近くにいるなんてことも知らないでひそひそと声を潜めながら話しているんだろう。
「次はだれが引き取るのかしら」
「うちは嫌よ?なんでさっさと施設に入れないのかしら」
「ほら、田舎の方だと身内に施設の子がいると世間体が悪いんだって」
「あぁ、だから。だったらそこで引き取ればいいのに」
「それが嫌だってずっと言われて、たらい回しになってたんでしょ」
「今度こそ施設かしらねぇ。あんな不幸を呼ぶ子なんて、もうどこも引き取らないでしょ?」
心にひびが入る音がした。
雨の音は大きく、強くなっていって。
きっと、この世界に僕はいらないんだ。
ーーーーーーーーーー
「おかえり、○○。ご飯できてるわよ」
「やった、今日なに?」
「今日はハンバーグだから、早く手洗っちゃいなさい」
「よっしゃ!」
ごく普通の家庭の、一人っ子で。
強くも、弱くもない野球部の六番バッター。
身長169cm、体重61㎏。
スポーツ推薦で高校に行けるほど野球が上手いわけでもないし、特別誇れるような特技も思いつかない。
普通の人間を思い浮かべろと言われたらきっと、僕みたいな人間のことをみんな思い浮かべるんだと思う。
そんな生活に、特段不満も無かったし、それを特別なことなんだと感じることも無かった。
「○○、明日から合宿でしょう?準備はできてるの?」
「んーまあ、それなりに」
「じゃあ準備できてないじゃない。早く準備しちゃいなさいよ」
「わかってるって。母さんも、明日から父さんと旅行でしょ?夫婦水入らずで楽しんできてよ」
「もう、あんたは余計な事考えなくていいの」
急いで夕食を食べて、僕は階段を駆け上がって自分の部屋に戻る。
ユニフォームにジャージ、スパイク、グローブに歯ブラシ。
荷物を詰めて、明日以降のワクワクに胸を膨らませながらベッドに潜った。
・・・
「○○!かっ飛ばせ!!!」
「突き放そーぜー!」
真っ黒な、太陽につやが輝くヘルメットをかぶって。
グリップエンドに17番のマークが埋め込まれたバットを握って、打席に向かう。
合宿二日目の練習試合。
六回表。
ランナーは三塁。
点差は二点差でリードしてる。
僕が一本打てれば、この試合は少しは楽になる。
モーションに入ったピッチャーが、地面を踏みしめ、腕を振る。
指に掛かったストレートは、鋭く風を切る音をたてながら向かってくる。
思考する時間はなく、感覚で振るうバット。
感触はなく、白球が高々と打ちあがる。
青空を走る白球が、青々とした芝に走る場を移し、フェンスに跳ねる。
「ナイバッチ!」
ツーベースヒット。
打点、一。
「あ……」
フットガードを外そうとして、靴紐が切れてしまっていたことに気が付く。
「すみません、スパイクの紐切れ……」
攻守交替に戻ったベンチ。
監督の顔は、怒りとか、そう言うのじゃなくて。
「○○……部長の山崎先生が送ってくれるから、一度家に帰れ」
「どうして、ですか……?」
「落ち着いて、聞いてくれ」
カラリと音を立ててヘルメットが落ちた。
手の震え、視界が急激に狭まって、灼熱の中のはずなのに、体から体温が消えていく。
簡単に着替えを済ませて、俺は部長の車に揺られて家まで帰った。
返事などなく、暗闇と空虚だけが僕を迎える。
父さんと、母さんが、死んだ。
飛行機事故だった。
海に落ちた飛行機。
生存者はなく、半数が行方不明。
誰も、帰ってこなかった。
「父さん……」
壁に掛かった、写真が。
「母さん……」
冷蔵庫の中の、使いかけのカレールーが。
「どうして…….」
僕だけが。
数日たって、お葬式が行われて。
「一応、甥だからな。しかたなくお前を引き取る。ちっ、だるいの押しつけやがって」
僕は、叔父さんの家に引き取られた。
・・・
そこから、三回。
僕が、転校した回数。
中学二年の夏から、中学三年の春口まで。
およそ、一年間で、三回。
友達なんて出来なかったし、家族と呼べる人も居ない。
一度は引き取ってくれるけど、すぐにどこかに回される。
そんな生活が、嫌になっていた頃だった。
「着いたぞ。自分の家だと思って暮らしていいからな」
「ちょっと狭いかもしれないけど、くつろいでくれていいからね?」
東京から引っ越して、遠縁の親戚に引き取られた。
父方の人らしいけど、一度だって話したことは無い。
奥さんの方が、子供が作れない体質らしくて、だけどずっと子供が欲しいと思っていたらしい。
海沿いの、少し高い丘の上。
海以外に何もないところ。
そんな場所だから、僕を引き取っていいものかと悩んでくれていただと聞いた。
「中学、もう少しで卒業だけど明日から登校するのよね?」
「そう、します」
「高校はどうするんだ?」
「まだ、決めてないです」
翌朝。
僕は、前の学校の制服に着替えて登校した。
「自己紹介お願いします」
朝のホームルームの時間に、先生に促されて教室に入る。
教室がざわつく理由は分かっている。
「藤崎……○○です……」
こんな時期に引っ越してくるなんてこと、普通ならあり得ない。
きっと変な噂でもしているんだろう。
それには慣れているし、誰とも仲良くなるつもりもないし。
「じゃあ、空いてる底の席に座ってね。はい、じゃあ授業集中するように」
先生の指示通り、僕は自分の席に座って教科書を準備する。
「ねえねえ」
隣の席から呼ばれている気もするが、返事をする気力もない。
「ねえってば!」
肩を二回叩かれて、僕は思わずそちらを向いた。
「転校生くん」
「○○です」
「○○くん」
「授業の準備で忙しいので」
「私、井上和。よろしくね。なんで転校してきたの?言いたくなければ言わなくてもいいけど。あ、高校はどこにするの?」
なんだか、押しの強い子だ。
今まで、僕に声を掛けてくる人は居たけど、ここまでぐいぐいとくる子はいなかった。
僕は、一歩引いてしまう。
「まだ……決めてなくて……」
「そうなんだ~。でも、この時期に転校なんてめずら……」
教室に甲高いチャイムの音が鳴り響き、井上さんの声を遮る。
井上さんはすこし頬を膨らませて、不満そうな顔で、乗り出した体を引っ込めて前を向いた。
「また、後で聞かせてね」
そう、一言囁いて。
それから、何日も、何週間も井上さんは僕に話しかけてくる。
僕がどれだけ冷たく接しても、次の日には何もなかったかのように僕に構ってくる。
「この辺、海すっごい綺麗なんだ~。知ってた?」
「まだ、行ったこと無いから……」
「そうなの?じゃあ、行ってみる?」
「…………行かない」
「ごめ……ん……」
突っ伏した僕に、かすれるような声で謝る井上さんの声。
海は、嫌いだ。
海は、僕の大切な人を奪ったから。
僕の幸せを、奪ったから。
それからのこと、井上さんは僕のことをうかがう様子を見せてはいた。
だけど、話しかけてくることは無かった。
それでよかった。
僕は元から関わるつもりはなかったし、井上さんだってただ元に戻るだけ。
お互い、今までと何ら変わりのない人生を送るだけだから。
「あら、おかえりなさい、○○」
「…………」
「……○○、今日の夕飯は何がいい?」
「何でもいいです……」
叔母さんの声も無視して、僕は部屋にこもる。
どうしてだか、胸が痛む。
・・・
「ねえ、○○。私とちょっとだけドライブ行かない?天気いいし、展望台まで登ってさ」
週末の朝、叔母さんが部屋のドア越しに声を掛けてくる。
叔母さんの提案はありがたい。
僕だって、こんな生活を本当に送りたいわけじゃないから。
変えるなら、今かも知れない。
「叔母さん……」
「あ、○○……。おはよう」
「外、連れてってください」
僕がそう言うと、叔母さんはすぐに車のエンジンをかけに外に出た。
僕も、ジャージから着替えて叔母さんに続く。
助手席のドアを開けて、車に乗り込む。
芳香剤の匂いに神経がくすぐられる。
「揺れとかは……我慢してね」
車が動き出して、心地の良い揺れと共に窓には景色が流れる。
海から、坂を上って街も見えて。
晴れた空から注ぐ光を、波が反射して。
時折、目がくらむくらい眩しくて。
「着いたよ。車降りて、外の空気吸おう」
叔母さんに促されて、車を降り、大きく息を吸い込む。
標高の高い場所の、澄んだ空気が肺を満たす。
こうして空気を目いっぱい吸い込んだのはいつ振りだろうか。
空気が美味しいと感じたのはいつ以来だろうか。
「○○が、他人と関わることを怖がってるのはわかってるのよ」
「叔母さん……」
「だけど、私たちはもう家族だから。私のこと、お母さんだと思っていいんだからね」
「……………………!」
鼻の奥がツンとして。
猛烈に、胸が痛くて。
目頭が熱くなって。
頬を、一筋涙が伝って。
「いつか……。いつか、そう呼べるように……僕も頑張ります」
「うん。じゃあ、帰りましょう」
僕はもう一度息を大きく吸って、新鮮な空気を血液に乗せて体中に届ける。
今日を、僕の生まれ変わる日にするんだ。
決意の深呼吸。
車に乗り込み、山道を下る窓の外を行きと同じように眺める。
今回は山側で、ろくな景色も見えなかったけど、それでもいい。
週が明けたら、井上さんにちゃんと謝ろう。
謝って、もう一回ちゃんと話してみよう。
空が、暗くなる。
「…………?」
おおきな、音がした。
ごうと、音がして。
おおきな衝撃が僕たちを襲った。
・・・
「いってて……」
砂埃が口の中に入って、異物感と血の味。
全身に痛みが走り、出血もあちこちからしている。
何が起きたのか、把握することができない。
立ち上がろうとして右腕を支えに使うと激痛が走り、本能的にそれを使ってはいけないのだと察知する。
よろよろと立ち上がり、周囲を見渡す。
ほんの十メートルほど先、扉が曲がった黄色い軽自動車。
「ぁ……」
想像しえなかった事態と言うのは、いつだって最悪。
体中から血の気が引いて、嫌な汗が流れだす。
「あの……」
『119番です。火事ですか、救急ですか』
「救急です……」
瞬きすら、忘れるほどの光景。
僕は、また。
・・・
僕の怪我は、右腕の骨折と複数箇所の打撲で済んだ。
これはあくまで僕の怪我は、だ。
「ごめんなさい......。ごめんなさい......」
「お前のせいじゃない。あれは......事故なんだ......」
叔母さんは、搬送された後、
「僕だけが生きてて......ごめんなさい......」
1時間後に、息を引き取った。
・・・
僕が退院してすぐ、叔母さんのお葬式が行われた。
灰色の空で、今にも雨が降りそうな日だった。
「この度は……なんと……」
次第に、大粒の雨が涙のように降り注いだ。
鼓膜を揺さぶるその音。
嫌に残る線香の匂い。
こうなったのも、全部全部、僕の所為だから。
逃げるように、会場から出て、雨の当たらない屋根の陰に身を潜めた。
「あの子、呪われてるんじゃない?」
「次はだれが引き取るのかしら」
「うちは嫌よ?なんでさっさと施設に入れないのかしら」
「ほら、田舎の方だと身内に施設の子がいると世間体が悪いんだって」
「あぁ、だから。だったらそこで引き取ればいいのに」
「それが嫌だってずっと言われて、たらい回しになってたんでしょ」
「今度こそ施設かしらねぇ。あんな不幸を呼ぶ子なんて、もうどこも引き取らないでしょ?」
僕がすぐそばにいるなんて知りもしないんだろう。
ひそひそと、そんな話をする声が聞こえた。
そして、僕の心にひびが入る音も聞こえた。
僕は、この世界にいらない。
僕がいるから、みんな不幸になるんだ。
大雨が降る中、僕はとある場所を目指して歩いた。
僕がいなくなればいい。
あの場所なら、父さんにも母さんにも会えるかな。
打ち付ける雨の音が、まじりあう音に変わる。
黒く、猛々しい波の音。
これに飲み込まれれば僕は楽になれる。
一歩、また一歩と足を進める。
もう、このまま
「○○くん!」
衝撃と、塩の味。
全身が雨とは違うものでびしょ濡れになる。
「ダメだよ!」
「離してよ……。もう……僕は生きていたくないんだ……」
「それでも……。それでも、私は君に生きていてほしい!」
「僕の近くにいる人はみんないなくなる!僕が大切に思う人はみんないなくなるんだ!だったら……僕も、僕がいなくなればいいんだ……」
僕は井上さんの腕を振りほどく。
「なんで僕が死ぬのを止めるんだよ!なんでこんな日なのにここにいるんだよ!なんで……僕なんかに構うんだよ……」
雨が生ぬるく頬を濡らす。
髪の毛から滴る水滴が波紋を作る。
「僕と関わってたら、井上さんまで僕の傍からいなくなる……」
「私は、君の傍からいなくならない。私は、絶対に○○くんを一人にしない」
「どうして......そんなことを言えるんだよ」
「私が今、そう決めたから」
砂浜に、雨水がしみこむ。
放り出されたままの傘が風に転がる。
横薙ぎの風に髪が揺れる。
足から力が抜けて、僕は膝から崩れ落ちる。
「だから……」
井上さんが、僕のことをそっと抱きしめる。
「少しは……私に寄りかかってよ……」
・・・
「はい、白湯だけど」
「ありがとう……」
「髪乾かすから、立ってないでソファ座って?」
「う……」
「はーやーく」
「はい……」
僕は、井上さんに促されてソファに腰を下ろす。
びしょ濡れになった僕は、井上さんの家に連れていかれてシャワーを浴びさせてもらった。
曰く、今日は両親が居ないからバレないでしょ。
とのことだった。
叔父さんには、『すみません。明日には帰ります』とメッセージを送っておいた。
返信は、『そうか。待ってるぞ』だけだった。
「○○くん、髪の毛さらさらだね」
ドライヤーもつけずに、井上さんが僕の髪の毛に触れる。
なんだかくすぐったくて背中がぞわっとする。
「どうしてあんなことしてたのか、聞かない方がいいよね」
「…………」
髪を乾かし終わって、数分の沈黙の後に井上さんが口を開く。
「……僕の、目の前で……」
話すつもりなんて無かったのに、涙と共に言葉が零れる。
井上さんは、僕の話を優しく頷きながら聞いて、泣きじゃくる僕の涙を拭いてくれて。
「だから……井上さんには、僕に関わってほしくないんだ……」
「さっきも言ったけど、私は○○くんの傍にいてもいなくなったりしないよ。それに、やっと○○くんが自分のことを話してくれて……ちょっとだけ、嬉しい」
「井上さん……」
「まだ、他の人と関わるのは怖い?」
恐怖は、そう簡単にぬぐえるものではない。
僕以外を傷つけないために、僕が傷つかないために。
関わりを持たないように生きてきた。
僕は、小さく頷く。
「なら、私と約束しよう。私は、○○くんの傍からいなくならない。だから○○くんも、少なくとも私だけには何でも話して」
差し出された左手の小指に、僕も小指を絡める。
「はい、約束!」
こんなことしたのは、いつ以来なんだろう。
僕の目からは再び、涙が溢れた。
ーーーーーーーーーー
蜃気楼が漂い、朝も早くだというのに汗が滲む。
サクラは花を落として葉のみになり、あちらこちらからは風鈴の音が聞こえる季節になった。
もうすぐ、夏が訪れる。
「う……ん…….」
ワンルームのアパートにけたたましくアラームの音が鳴り響く。
水道で軽く顔を洗い、パンを咥えながら制服に着替える。
髪の毛をセットしていると、インターホンが僕のことを呼ぶ。
「はーい」
間の抜けた返事をして、玄関を開けると制服姿の少女が一人。
「おはよう、井上さん」
「おはよ、○○くん。今日も暑いね」
「そろそろ夏だね。外で待っててもらうのも悪いし、上がる?あと十分も無いけど」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
井上さんは、迷いもなく部屋の中に入り、クッションの上に腰を下ろした。
「一人暮らし、もう慣れた?」
「うん。よく井上さんが来てくれるからにぎやかだしね」
僕は、高校入学と同時に一人暮らしを始めた。
迷惑をかけることは承知の上だったし、ダメだと言われたらやめるつもりだったけど、叔父さんは快く許してくれた。
それどころか、生活費もそれなりの金額を負担してくれている。
でも、それだけでは申し訳ないので、アルバイトをすることを自分で条件に加えた。
「高校は慣れた?」
「うーん……まだ、わからない。でも、井上さんと同じクラスになれてよかったと思ってるよ」
これは紛れもない事実。
井上さんがいなければ僕が学校で口を開くことも無かっただろう。
高校に入学して二か月ほどが経っても、僕は井上さん意外と話したことはほとんどない。
「ふふ、嬉しい」
「準備できた。行こ」
戸締りをしっかりとして、井上さんと並んで通学路を歩く。
もう六月で、梅雨の季節だというのに今日は痛いほどの日差しが降り注ぐ。
次第に、海が僕らを迎える。
「それにしても、○○くんが海の傍に住むなんて意外だったよ」
「ここが安かったから」
「でも……」
「うん、わかってる。いつまでも、海を怖がってちゃいけないと思ってさ」
波の音が優しく鼓膜を揺らし、潮風がそっと髪をなびかせる。
「そう言えばさ、○○くん明日って空いてる?」
「明日……?今日じゃなくて?」
「うん、明日」
「まあ、休みの日に遊ぶ友達もいないし、明日はアルバイトも休みだし……暇ではあるけど」
「よしよし、じゃあ詳しい予定は夜送るから」
軽い足取りで歩き出した井上さん。
僕はその様子に疑問を持ちながら井上さんについていった。
・・・
次の日の朝。
一通のメッセージで目を覚ます。
『迎えに行くから外に出かけられる準備だけしておくこと!』
なんだか、こういうのも久しぶり……
「いや……やめよう……」
頭を振って、頭をよぎったものを振り切る。
しかし、どこに行くのやら。
服を着替えて、ベッドに座って待っていると、ものの十分で井上さんがやってくる。
「おはよ。準備できてる?」
かわいらしい私服に身を包んだ井上さんが微笑む。
「うん。にしても、どこ行くの?」
「きめてなーい」
能天気な声と、雀の鳴き声。
照り付ける太陽と、滲む汗。
「行きたいところとかあるの?」
しばらく散歩をして、井上さんに尋ねてみる。
「ん~……プラネタリウムとかかな~って思ってたけど、○○くんは?」
「いいね、行こう」
行き先が決まると、井上さんが道を調べてくれて、僕はそれに着いていく。
「○○くん、昨日の夜何食べたの?」
「パスタ」
「一昨日は?」
「パスタ……?」
「じゃあ、その前は?」
「パ……パスタ……」
「ちゃんと栄養取らないと……」
「危ない……!」
狭い道で、横を向かいから来た車が通り過ぎる。
僕は咄嗟に井上さんをこちらに抱き寄せる。
「あ、ありがと……」
頬をほんのり赤く染めて俯いた井上さんに、胸の奥の方が締め付けられる感覚がした。
「い、いや……元々は車道側を井上さんに歩かせてしまっていた僕が悪いというか……」
予想だにしていなかった出来事と感情に、思わず早口になってしまう。
「つ、着いたね……!」
「そうだね……!」
ならんでプラネタリウムに入ると、休日である影響からかまあまあ人が多い。
ようやくチケットを買えるようになって、座席表を見てみる。
「えっと、これって……」
「カップルシートしか残ってないね……」
「○○くんは……気にしない……?」
「僕が大丈夫でも、井上さんは......」
「私は……いいけど……?」
上目づかいで僕を見つめてくる潤んだ瞳。
そんなこと言われて、断ったりなんかできるはずないじゃないか。
さらに奥に入って、僕らは横にならんで寝転がる。
肩が触れる距離。
お互いの手が触れる距離。
息遣いがわかる距離。
心臓の音も、ばれてしまうかもしれない距離。
宙に星が映し出されて、解説が始まって。
そっと、井上さんの左手が、僕の右手に重なった。
僕は驚きから、思わず隣を向いてしまう。
井上さんの視線と、交差する。
「なんだか……この世界に二人っきりになったみたいだね」
「…………!」
囁いて、いたずらに笑って。
でも、やっぱり恥ずかしかったのか、視線を逸らして。
僕は、重ねられた手を握り返した。
いつの間にか、プラネタリウムは終わっていて。
「プラネタリウムって、もっとゆっくりできるところだと思ってたな~」
外に出た井上さんは、体を伸ばしながらそう呟く。
「なんか、ドキドキしちゃった」
そして、僕の方を向いてそんな言葉を放つ。
僕は、自分の気持ちに気付いている。
でも、僕がその言葉を口にしていいはずがない。
今日だって、どうして貴重な休日を僕なんかのために割いてくれたのかわからない。
「○○くん、今日が何の日かわかってないでしょ?」
僕の心を読んだかのように、井上さんが距離を詰めてくる。
「今日は特別な日なんだよ?」
「特別……?」
「○○くんの誕生日じゃん」
僕自身も、忘れていた。
今日が自分の誕生日だったなんて。
「そう……だったっけ」
「そんなことだろうと思ってたよ、もう」
呆れたように、井上さんは笑った。
僕も、それに釣られた。
「ちゃんとプレゼントもあるんだよ」
井上さんはバッグの中から小さな包みを取り出す。
「開けて」
包装を丁寧にはがすと、銀色のシンプルなイヤリングが出てきた。
「うちの学校、校則緩いからイヤリングとかも問題ないでしょ?でも、ピアスだと○○くん空いてないから。だから、イヤリング」
「井上さん……。嬉しい……めっちゃ、嬉しいよ……!」
「つけてみて」
早速、イヤリングをつけてみる。
今まで、アクセサリーなんてしたことが無かったのに、両耳にきらりと光るシルバーのアクセント。
「すっごい似合ってる!」
「ありがとう、井上さん」
「うん!それと、改めてもう一回約束するね」
「…………?」
「私は、私に何があっても、君の傍から離れない。○○くんを、一人にはさせない」
そのあとは、カフェで軽く食事を済ませて、井上さんを家まで送って陽が落ちる前に僕らは別れた。
帰ってから、鏡をのぞくと、ひどいくらいに口角の緩んだ僕が写し出されていた。
・・・
誕生日も、お祝いできた。
想いは通じていないだろうけど、プレゼントも渡せた。
彼に、喜んでもらえた。
「はぁ……」
私は、洗面台の前で大きくため息を吐く。
「ゲホッ……!」
いつか、何とかなると思っていた。
焼けるような痛み。
ゆがむ視界。
きっと彼は気づいていない。
この感覚に顔がゆがみそうになる度、私は彼の数歩先に行くようにしていたから。
「はぁ……はぁ……」
約束、したんだから。
絶対に、彼を一人にしないって。
私がずっとそばにいるんだって。
だから、こんなものに負けている暇なんてないのに。
「…………っ」
体が浮遊感に襲われる。
これに負けたら、彼は今度こそこの世界から居なくなってしまうかもしれない。
約束を……守らないと……
・・・
週が明けて、いつものようにパンを咥えながら制服に着替えて。
時間が来て、外に出て。
今日は、井上さんは朝練習かな。
だけど、連絡はない。
「あれ……?」
学校に行って、チャイムが鳴っても井上さんの姿はない。
体調、悪いのかな。
先生が、深刻そうな顔で教壇に立つ。
想定していない事態は、
「井上だけどな」
いつだって
「入院することが決まった」
最悪の事態だ。
・・・
やけに静かなワンルーム。
インターホンはならない。
井上さんの病室はわからない。
すぐにでも飛び出したい。
また、僕は周りの人を不幸にする。
僕がいるから……
【私は君に生きていてほしい!】
そんな考えは、中学三年の春に置いてきただろ。
ジャージから制服に着替えて。
井上さんから貰ったイヤリングをつけて。
僕は、家を飛び出した。
「くっ……!体力……ないな……!」
学校とは、違う方向に向かって地面を駆けた。
肺がつぶれそうになりながら。
血を吐きそうになりながら。
何度もつまずいた。
それでも、どれもこれも全部、僕が止まっていい理由になんてならない。
「あ……あの……!」
汗でぐしゃぐしゃになりながら。
多分、涙も流しながら。
僕は病院の受付まで辿り着いた。
「井上……和さんって……」
「ど、どうされました?」
「井上和さんって……どこの部屋に入院してますか……!」
「しょ……少々……お待ちください!」
困惑した様子で井上さんの病室を教えてくれた受付の女性にお礼を言って、なかなか降りてこないエレベーターを見限って、階段を駆け上がる。
《井上 和》
そう書かれた病室の扉をゆっくりと開く。
「井上……さ……ん……」
点滴をつながれて。
ベッドサイドモニターだけが、辛うじて彼女がまだ生きているんだということを示していて。
「井上さん……」
指先が冷たい。
全身から血の気が引いていく。
僕のせい……
そう思って、背けそうになった顔をひっぱたく。
僕は、ベッドのそばに椅子を持ってきて、井上さんの左手を僕の両手で包む。
まだ、微かに温かい。
お医者さん曰く、手術が終わって、目を覚ます確率はよくて半々。
僕は、何もできない。
できることなんて、せいぜい一晩中彼女が無事であるように祈るだけ。
・・・
朝いちばんで病院に行って。
夜ギリギリまで彼女の手を握って。
朝いちばんで病院に走って。
夜ギリギリまで祈り続けて。
何日も、何日も。
僕は、病院に通い続けた。
今日こそは。
明日こそは。
彼女は絶対、目覚めると信じて。
何日目かな。
一週間は、経ったかな。
「本日の面会時間は……」
「はい、わかって……」
包み込んでいた彼女の左手。
触れていた指先が、僕の手のひらを引っ張った。
「先生……!今……指先が……!」
間違いない。
今、井上さんは闘っている。
「井上さん!目を覚ましてよ、井上さん!」
僕は、必死に井上さんに声を掛け続ける。
握る力が、強くなる。
握り返す力も。
瞼が。
重く、閉じきっていた瞼がゆっくりと開いた。
「井上さん……!」
「……く…………」
微かに、
「〇……く……ん……」
それでも、確かに。
「○○……くん……」
「井上さん……!」
彼女のこえが、僕の心を揺さぶる。
「いったでしょ……私は、君の傍からいなくならないって……」
・・・
太陽が照り付け、風が爽やかに木々を揺らす七月のある日。
「お、やっと来てくれたんだね、○○くん」
「今日はちょっと忙しくて。退院、もうすぐだよね」
「うん!もうすっかりげんきだよ!」
井上さんが、満面の笑みを僕に向ける。
「井上さん。退院祝い……にはちょっと早いんだけどさ」
僕は、鞄の中から包みを取り出す。
「え、なになに?」
「これ、受け取ってもらえると嬉しい」
井上さんが包みを開く。
少し洒落た、銀色のイヤリング。
「え!嬉しい!」
「それが、僕の気持ちだよ」
「どう?似合うかな?」
風が、病室を吹き抜ける。
お互いの耳に揺れるシルバーのイヤリングが、太陽の光を反射して眩しいほどに輝いた。
………fin
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